今回も、再び金華山の大祭についての記事です。
(弁財天様 写真は許可をいただいて掲載しております。)
今月(10月27日)に「金華山 巳年御縁年大祭」の最後のお祭りである「式年柴燈大護摩祈願・火渡り祭」が行われます。
今年は、12年に1度の巳年の大祭であり、大護摩祈祷申し込み者は12年ぶりに御本殿の内陣の御扉が開かれて、普段参拝できない内玉垣での参拝が特に許されています。 (10月31日まで)
黄金山神社は、我が国最初の産金を祝い約1,260年程前に金銀財宝の守護神、金山毘古神、金山毘賣神を奉祀した神社です。
中古神仏習合時代には弁財天を別当寺『大金寺』に祀り、日本五大弁財天として多くの信仰を集め、さらに東奥の三大霊場として隆盛壮観を極めたとのことです。
子どもの頃、金華山にそれほど縁のなかった私は名前は有名でも直接関わりはほとんど感じていませんでした。でも、今回の大震災後に、実はとても身近なところに関係のあるものがあったということが分かりました。みなさんの中にも私のような方がいらっしゃるのではないでしょうか?
それは、現在の石巻小学校の近くにあった石碑です。高さ2m幅1m厚さ20cmはあろうかと思われる随分大きなものです。
小学生の頃日和山の方から坂道を降りてきた時、あの辺りにあった大きな石碑、記憶にありませんか?実はあれ金華山への一里塚だったのです。石碑の表に大きく「金華山」記されています。
今回ちょっと前に、石巻の郷土史研究家の方にお会いしてお話を伺う機会を持つことができました。その方は若い時から石巻の歴史について精力的に調べ資料に残しておられます。金華山についても実際にその道筋を歩かれたとのことです。そして昔の人の考えがそこから推察されたとのことでした。
例えば、その金華山への一里塚への道のりが坂道の傾斜に対して真っ直ぐに道路が作られていること。確かにあの辺(旧石女高の校舎の辺りの道路も)の道は大街道の方から登る坂が山の頂上に向かって一直線にできていますよね。(な~るほど!昔は徒歩の旅?だったから最短距離で歩けるようにできているのですね。)
そういうことから、あの金華山の一里塚の辺りは相当古い時代にできた道だということが分かりました。
また、もう一つ印象に残ったお話があります。
それは、郷土史研究家の先生が金華山への道を徒歩で実際に歩いた時のエピソードです。
牡鹿半島の辺りの山道を一歩一歩歩いていて丁度休みたいと思う頃に休める場所があったり、また、突然視界に野草の花の群生が飛び込んできて、美しさに疲れも忘れてしまう体験をしたそうです。
そんなお話を伺って、昔の人たちは大変な徒歩の旅の中にも様々な知恵を使って道中を楽しめる工夫をしていたのだと気づかせられました。
私も、車ではありましたが万石浦の辺りからさらに女川の方に向かった時、山の合間から突然眼下に広がった真っ青できらきら輝いている海の光景は今も忘れられません。
金華山に至る道はそこに到着するまでにも様々な姿を用意しているのかもしれません。
そんなところも味わいながら、部分的にでも徒歩で歩いてみることができるようになったら、それも贅沢な旅と言えるのではないかしらと感じました。
今後行く機会があるかなあ。
昔は徒歩だから道がまっすぐ上がると近道というのは、なるほどと感心しました。思い当たる所、あります。
切り立った崖の上なのに、崖の下と同じ町名で、飛び地みたいな所。その周りは別な町名。今はくねくねと坂を自動車で行くのであきらかに遠いのですが、昔は上から下へまっすぐ降りる違う道があったと言われました。
だけどそういう道って、人が通らないと消えるんですね。いくつか知っていますが、やっぱり“僕の後ろに道はできる”なんですね!!
今そういう道を歩くって、勇気いりません?
怖いなあ。
泉ケ岳の頂上の直前に、昔の坂道のような真っ直ぐ頂上に続くのぼり坂がありました。
石や岩がごろごろあって最後のがんばりという感じの所です。でも、やっと頂上に着くと、仙台の街や海(太平洋)が全部見えて山や川もまるで箱庭のよう!そして開くお弁当は、それまでにかいた汗を帳消しにしてくれるような心地よさ(もちろん鈴を付けて歩きましたよ。)
昔の人たちはこんな感じで金華山を目指したのでしょうか?
今年はそれに合わせてちょっと企画していたことがあったのにできませんでしたねえ、まつぼっくりさん。
来年は仕切り直しをして、再挑戦しましょうね。