昨年末、知人から、有川浩さんの小説「阪急電車」をすすめられてお借りした。
http://www.amazon.co.jp/%E9%98%AA%E6%80%A5%E9%9B%BB%E8%BB%8A-%E6%9C%89%E5%B7%9D-%E6%B5%A9/dp/4344014502
やや現実離れした設定、描写も散見されるものの、心ある人々にはさわやかな読後感はその欠点を補ってあまりあるものである。
その中で個人的にひときわ印象的な登場人物。長年つきあっていた彼氏を会社の同僚に寝取られてしまい、復讐のために彼らの結婚式当日に、当てつけに純白のウエディングドレスで乗り込むバリバリの美人キャリアウーマン。彼女が、結婚式で、新郎新婦に痛烈な「討ち入り」を果たした。その帰り道、ある種の達成感と、いいようのない寂しさとむなしさを心に抱きつつ、ふと立ち寄った駅で、同級生から陰湿ないじめにあっている、幼稚園児(小学1年生だったか?)を目撃する。かつての自分を思い起こす彼女。正確な表現は忘れてしまったが、「女には特有の陰湿さがある。女という生き物は幼いときからすでにそのような部分を持っている。」といった内容だったと思う。その後、別の場面では、勘違い「自称」セレブの下品なおばさまグループのつきあいになじめない一人の主婦も出てくる。あえて、女性特有の陰湿さを繰り返し表現するあたり、作者ご自身も、これまでの人生、幼少時代から成長する過程で、女の陰湿さ、嫉妬深さに辟易してこられたのではなかろうか。サル山のボスともいえるリーダー格の意地悪な人間にターゲットにされたくないがために、いじめられている人間のことを助ける勇気がないどころか、意義をとなえる気概すらない。
いじめている側についていた方が楽だから・・・。上司に何でもかんでもイエスマンの方が楽だから・・・。
われわれの日常にも、ばれなければ陰で何をしてもいい、身内や仲間内だけ大切にしてそれ以外はどうでもいいという、低次元の考え方の輩が相当はびこっていないだろうか。子供同士であっても、おばさま連中のランチでの会話であっても、そこに居合わせない第三者を標的にして悪口を言ってストレスを発散するような集まりは、言葉は悪いが、心の「ブス」養成学校といった趣であろう。誤解なきように補足すれば、ここで用いている「ブス」とは、心の奥底にある意地悪さが外見ににじみ出た様を表している。
そのような輪から距離ができることは、たとえ一時的に孤立したとしても、むしろ誇るべきことである。ただ、多くのサル山のボスが併せ持つ立ち回りの良さ、狡猾さをも飲みこむだけの器量を身につけられないなら、サル山の群れの一員となる方が幸せだし、場合によればそれしか手段がないこともあろう。サル山のボスにもサル山のボスでありつづけるための努力もあるのである。だが、サル山のボスと本当の「リーダー」は根本的に全く違う。以前、ある高名な方からお聞きした、「まっすぐ生きることは、実は最も大変なことなんだ。」という言葉の意味は重すぎるし深すぎる。
本作は、サル山のボス的生き方に多少なりとも違和感を覚える向きには拍手喝采であろう。あわせて、普通の感性の持ち主なら、おそらく誰の心にも大なり小なり存在する「サル山のボスになびく」自分の姿にも気づかされることであろう。
何かしら不正が発覚すると、マスコミの主導のもとに世間はそのターゲットを袋だたきにする傾向があるが、そのような不正を生み出す土壌が日本社会の日常にあふれかえっているのでないだろうか。
著者のまっとうな「正義感」を僕は大いに支持したい。