⑪ 浜田城
秋の旅 下関・萩・浜田・玉造 3泊4日
2022.10.25
浜田城は江戸時代に古田重治によって築かれた城で、浜田藩の藩庁が置かれていました。
2代・重恒がいわゆる「古田騒動」を起こし改易となって以降は松平氏や本多氏など譜代・親藩が入れ替わり治め、
長州藩に対する山陰側の押さえの最前線として重要視されました。
天守をはじめとする建物は1866年(慶応2年)の第二次長州征伐の際に焼失しています(大村益次郎指揮の長州軍に攻められ落城)。
現在は城山公園として、本丸から三の丸にかけて階段状に石垣が残っています。
また、登城口に津和野藩武家屋敷より移築された門があり、司馬遼太郎の碑文「浜田藩追懐の碑」も建っています。
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浜田城の城跡の緑陰に「浜田藩追懐の碑」が建っています。作者は司馬遼太郎。
石見國は、山多く、岩骨が海にちらばり、岩根に白波がたぎっている。
石見人はよく自然に耐え、頼るべきは、おのれの剛毅と質朴と、
たがいに対する信のみという暮らしをつづけてきた。
石見人は誇りたかく、その誇るべき根拠は、ただ石見人であることなのである。
東に水田のゆたかな出雲があり、南に商人と貨財がゆきかう山陽道があり、
西方には長門・ 周防があって、古来策謀がそだち、大勢力の成立する地だった。
石見はそれらにかこまれ、ある者は山を耕し、ある者は砂鉄や銀を堀り、
ある者は荒海に漕ぎ出して漁をして、いつの世も倦むことがなかった。
浜田の地に城と城下がつくられたのは、江戸初期であった。
(中略)
いま、城あとは苔と草木と石垣のみである。
それらに積もる風霜こそ、歴史の記念碑といっていい。
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