こじらせ女子ですが、何か?

心臓外科医との婚約を解消して以後、恋愛に臆病になっていた理穂。そんな彼女の前に今度は耳鼻科医の先生が現れて!?

ピアノと薔薇の日々。-【15】-

2021年04月28日 | ピアノと薔薇の日々。

【聖母子と二天使】フィリッポ・リッピ

 

 今回はほんとに、本文だけで30000文字ギリギリ☆になっちゃったので、ここの前文に使える文字数がありません

 

 なので、本文の一部に関してひとつだけ言い訳事項させていただくと、イエスさまの赤ん坊の頃の描き方として――わたしも、「なんて憎らしい顔をした赤んぼだろう……」と思ったことは確かにありますが(笑)、でも、生まれた時から神の子としての自覚があったヴァージョンでも、神々しくてほんとに可愛らしい描き方の絵画もあるということだけ、一応書いておこうかなと思います(^^;)

 

 それではまた~!!

 

 

     ピアノと薔薇の日々。-【15】-      

 

「それで、あの子に会いに東京へは行ってきたの?」

 

「ああ。そうなんだ」

 

 君貴としては、かなりの覚悟を決めて、マキの妊娠についてレオンには打ち明けたつもりだった。とはいえ、言い方のほうは『聞いて驚くなよ。俺のガールフレンドが妊娠したんだ!』というものではあったのだが。

 

 君貴の意に反して、意外にもレオンは怒るでもなく、至極冷静なままだった。絶対零度、マイナス273.15度の冷たい怒りを実は内に秘めている――といった様子ですらなかったと言ってよい。

 

『まあ、まったく予測してない事態ではなかったよ。だって君貴が避妊なんて面倒なこと、いちいち考えるようなタイプには僕にはまったく思えないからね』

 

 また、レオンが君貴に怒りを発しなかったのには、別にもうひとつの理由もあった。カールに聞いた話によると、マキという娘は傷ついている様子ではあったが、レオンのことはどうとも思ってないということだったからだ。

 

『なんだったかしら。ド・ゴール空港へ送っていく間、「自分には天使を傷つけるようなことは、絶対できません」みたいなこと、言ってたわよ。いじましいじゃない?べつに、君貴とあんたが同性愛の関係だって知っても、あの子がショックを受けたのは、どうもそういうところじゃないらしいのよねえ。あの子、小さい頃からよく男の子と間違われてたんですって。だから、将来男と恋愛するとかなんとか、そんなことは考えてなかったらしいのよ。で、君貴とそういうことになって――それで、まず最初のきっかけが「男と間違われたから」っていうその部分が一番傷ついたらしいのねえ』

 

 その話を聞いて、レオンは気づいた。嫉妬に狂い、自分がいかに愚かなことを行なったかということに。それから、自分とマキという日本娘の間には、どうやら多くの行き違いがあったらしいということも……レオンは、君貴が「何も知らない清らかな娘」といったことを口にする時、一番腹が立った。その比較でいくとなんだか自分が、男同士の間ですでに汚され、墜ちた存在であるかのようだった。もちろん、彼は君貴がそういう意味で言っているわけではない、ということも十分承知していたとはいえ。

 

 また、マキという名の日本娘が妊娠するという可能性については、交際のかなり初期の頃からレオン自身懸念していたことであった。何故といってもしそうなったとしたら、君貴の心は完全にその娘と結びついてしまい、自分から離れていくと思ったからだ。

 

 だが、カールから話を聞いて、マキという娘の性格がある程度わかってくると――そもそも、自分が脅威を感じる必要などなかったのだということがよくわかった。だが、レオンは君貴のことを信じなかった。『おまえが一体何をそんなに心配しなきゃならない?』と、彼は何度も言った。言ってみれば、この場合まったくその通りだったというわけだった。

 

 そして、あの大晦日から新年にかけての出来事以来、君貴は実に大人しかった。どこかのクラブで男を引っかけるでもなく、マキという娘と駄目になったから、今度は別の女……ということもなく、純粋にレオンとだけ向き合って過ごしてくれた。

 

 おかしな話――レオンはまったく自分の思っていたとおりになったにも関わらず、何か満足できなかった。そこへ持ってきて、今度のこのマキという日本娘の妊娠話である。レオンは心の中で自分の恋人に呆れるのと同時、何かがどうでもよくなっていたかもしれない。

 

「僕たちの仲も、もうこれまでかもね」

 

 ふたりはいつものように、君貴のチェルシーの自邸にいた。庭にはウィステリアが美しく枝垂れ、様々なチューリップやストック、それにアゼリアの花などが咲き乱れている。だが、レオンの心はロンドンの灰色の空のように、まるで晴れないままだった。

 

「なんでだ?」

 

「なんでだって、決まってるだろ!今、妊娠四か月って言ったっけ?じゃあ、あと半年もすれば、その赤ん坊は生まれてくるわけだから……いいかげん、おまえもその悪い頭で考えろよ。僕はマキって娘がどうこうって言ってるんじゃない!少なくとも、お腹の子に対してはおまえにも半分以上責任があるんだ。まさかおまえ、その子が大きくなってから僕のことを友達じゃなく、ゲイの恋人だって教えるつもりじゃないだろ!?」

 

 君貴は、久しぶりに怒ったレオンのことを見た。しかも、今度の場合は前まであった嫉妬による勢いまかせの怒りではない。彼は本当に、あくまで真面目かつ真剣な話として怒っているのだった。

 

「俺、前にもおまえに言ったろ?俺はガキって生き物が大嫌いなんだよ。もちろん、妊娠中のマキにそんなことは言えやしない。だからまあ、そのあたりは曖昧にぼかしておいたが……なんにしても、俺たちの関係はこれからも変わらないよ。もちろん、子供のことについては責任を持つし、出産費用や養育費その他、そうした部分の金の面倒もみる。だが、俺はいい夫にもいい父親にもなれない。そのことは、次期マキにもわかるだろ」

 

「君貴、おまえ……っ。自分が何言ってるかわかってるのか?子供が生まれてからじゃ遅いんだって!先にあの子におまえがそういう最低な、話にもならない男だってこと、教えといてやらなきゃ絶対フェアじゃないだろ!?」

 

 君貴には、レオンが当然のことで怒っているとは思えないようだった。彼はパソコンのスクリーン上で設計図を引いているところだったが、不意に後ろにいる恋人のことを振り返った。

 

「ほんと、おまえは変なところで真面目な奴だよな。世の中には、こんなことがいくらでも溢れてるんだぜ?快楽だけを味わいたい無責任男が二股かけて片方の女を妊娠させる……大抵の男は妊娠の二文字を聞いただけでビビっちまって、急に及び腰になって逃げだす。それまではその腰を振るのが大好きだったくせにな。その点、マキは初心で清らかな娘ではあるが、頭のほうは賢い。本当は俺の買ったマンションで暮らして、囲われた愛人みたいになるのも嫌だったらしいぞ。けどまあ、ようやくのことで納得させた」

 

「普通だったら――たぶん、おまえがマンションをその子に買い与えたってだけで、世の中の夫を持つ正妻っていうのは怒り狂うものなんだろうな。だけど、僕はもうおまえに呆れちまって、怒りさえ湧いてこないよ。こんなこと、ある意味初めてだ。そりゃ、その子は今妊娠中だから、『俺はいい父親にはなれない』だのなんだの、動揺させないためにも言うべきじゃないかもしれない。だけど、こんな最低男の子生むんじゃなかっただなんて、そのマキって子のことを失望させるんだとしたら……」

 

「だから、言ったろ。マキは賢いんだって。そもそも俺にも、何も言わずに子供のことを生むつもりだったらしい。つか、なんか女友達に相談したんだと。そしたら、その子が大きくなって、自分のお父さんはどんな人かとか、うちにお父さんがいないのはなんでなのとか、そんなことを聞きだしたらどうするとか……なんて言ってたかは忘れちまったが、確かそんなようなこと言ってたっけ。だから、ようするにマキが言いたいのはこういうことさ。俺がこれからも仕事第一主義の忙しい人間であることは変わりない。そのために家庭を顧みるようなことは今後ともないだろう。でも、あの子がそういうことを理解してるかどうかは関係ないんだよ。とにかく子供が出来た、俺が父親としてどうとか関係なく、マキは生むつもりでいるってことなんだ」

 

「いや、僕はマキって子が墜ろせばいいとか、そうしたほうが絶対いいってことを勧めたいわけじゃない。その子の性格からいっても、生むという決意をした気持ちも理解できる。でも、僕たちの関係はもう終わりだ。今は実際に赤ん坊が生まれてないから、おまえはなんとでも言えるんだよ。それに、赤ん坊の顔でも見たら、嫌でもおまえにも父親としての自覚ってものが芽生えるさ。いや、むしろ今となってはそうであることを僕としては願うね。僕が支払う代償のことを考えたら、せめてもそうするのがおまえの義務ってもんだ」

 

 レオンがソファに座り込み、(頭痛がする)とでもいうように、片手で頭を抱えているのを見て――君貴は仕事を一旦中断させることにした。まさか、自分よりも彼がマキの妊娠をこんなに真剣に捉えようとは、思ってもみなかったのである。

 

「おまえがそう深刻になる必要はない……なんて、俺が言うのはおかしいんだろうな。俺も、マキには言ったんだよ。墜ろす気はないのかって。いや、待てっ……そういう意味じゃない」

 

 レオンが顔を上げると、メデューサのようにギロリと睨んできたため、君貴は慌てて言い訳した。

 

「つまり、あの子はまだ二十四だっていうからさ、まだ遊びたいのにとか、そういう気持ちはないのかって聞いたんだ。そしたら、マキの決意はすごく固そうだった。雰囲気として、これは俺がとやこう言っても、マキの意見は変わらないだろうっていうのが見てとれた。だって、そもそも俺にも知らせないでシングルマザーになるつもりだったっていうんだから……だが、俺がマキにしてやれるのはここまでだ。まあ、子供が大学を卒業するくらいまでは責任を持つし、そのあと自分でなんかの事業をしたいって言ったら、その子の才覚を見て金を出資するかどうか決めるといったところか」

 

 君貴のこの言い種に、レオンは微かに笑った。そもそも、子供が大学を卒業するまでだなんて、一体何年先だと思ってるのか……子供に事業の才覚があるかどうかなんて、父親として浅いつきあいしかしてなくて、わかるのかどうか――いや、違う。単にこいつは、親になることの重大さと偉大さがわかってないだけなんじゃないのか?レオンはそう思った。

 

「なんにしても、親になるっていうのは大変なことだよ。それに、だんだん僕にもわかってきた……そのマキって子の心が清らかだのなんだのとおまえが言った意味がね。あと、賢いっていうのがどういう意味なのかも。単にその子は心が純粋で、おまえ以上に一般人として良識があるってことなんだろう。そういう子ならたぶん、仮におまえという父親が不在でも、大してそのことに期待もせず、子供が父親の力を必要とした時に少しは何かためになることでも言ってくれといったところか?でも、そんなふうにその子が一生懸命おまえの子を育ててるのを見たら、おまえの腐った性根も少しは清らかになって――少しくらいは夫らしいことや父親らしいことに目覚めるさ。少なくとも、今はもう僕としてはおまえにそうあって欲しいくらいだね、むしろ」

 

「わかってるよ、レオン。俺は本当に、おまえが言ったこと以上にわかってるつもりなんだ……だが、俺がその「わかっている」ということを、どうおまえに伝えたらいいのかがわからない」

 

 ここで君貴は何を思ったのか、フランス窓を開け放って外へ出ると、そこからブルーベルの花をいくつか摘んで戻ってきた。それから空っぽのシュガーポッドに水を入れ、それを活けている。

 

「あいつの部屋にも、似たような感じのヒヤシンスの花があった。なんだっけな。バルブベースとか言って、透明な鉢みたいのに水と球根を入れて育てるみたいなやつ。あと、玄関のところには、桜の咲き残った枝みたいのが白い花瓶に挿してあった。花屋で働いてるからってこともあるんだろうが、あの娘には俺を妙に感心させるところがある……正直いって、俺は自分のガキのことなぞどうでもよく、マキにだけ会いにいったようなものなんだ。あれからどうしたかと、ずっと気になってたもんでな。その気持ちはレオンにもわかってもらえると思う」

 

 レオンは、わかる、という意思表示に、一度だけ頷いてみせた。妖精のような、ブルーベルの花を見つめながら。

 

「実際、親になるってのは大変なことさ。マキが赤ん坊をおぎゃあ!と生んだが最後、これから先、俺は一生誰かの父親というやつで、二十四時間その重圧からは逃れられないんだからな。俺はマキが子供を生むと言って、その決意が固いのを見た時……マキとの間にもう一度繋がりの出来たのが嬉しかった。だが、それだけなんだ。マキが自分の腹の子が蹴ってくるとか言っても、「だから、それで?」といった感じでな……あっ、待てっ。違うんだ。人の話は最後まで聞けっ」

 

 レオンが再び、しかめつらしい顔で怒りのオーラを発してきたため、君貴は慌てた。レオンは今までの長いつきあいで、彼が今、自分の本心をありのまま語っているとわかっている。だが、「腹の子が蹴ってくる」と妊娠中の愛人が言っているのに――「だから、それで?」というのは、人間の道徳にもとる話だとしか思えない。

 

「おまえ、そこはもっと父親らしく演技しなきゃダメなとこだろ?『その音を俺も聞きたいな』とかなんとかさ。僕はもう、あのマキって子には嫉妬の情も何も感じない。こんなどうしようもない男の子を妊娠しちまって、まったくご愁傷さまとしか言いようがないよ」

 

「仕方ないだろ!だから、今俺が言ったことが、おまえに対して特に強調して言いたいところなんだ。ええと、あれは一体いつのことだったかな。結構前にロサンジェルスにあるコストコで……」

 

「おまえ、コストコ大好きだもんな」

 

 つきあいはじめた頃、レオンが一度も行ったことがないと言うと、君貴は「死ぬまでに百度は行くべきだっ!」と大袈裟なことを言いだし、翌日には店中連れ回されたのを覚えている。

 

「そうそう。あまりに機能的すぎて、俺に何を考える余地も与えないところが好きなんだ。じゃないと俺は、どこの建物へ行ってもなんのインテリアを見ても、自分の仕事と結びつけて、あれこれ連想的に考えちまうからな。コストコは、俺に仕事のことをほとんど考えさせないという意味で、最高の息抜きの場なのさ。それはさておき、俺は大きなプロジェクトが一段落ついて、その時ほっと一息つきにコストコへ行った。そしたら一体誰と遭遇したと思う?」

 

「そんなこと言われても、僕はエスパーじゃないからわからないよ」

 

 レオンは紅茶を入れて飲むことにした。君貴はコーヒーを飲んでいるのでいらないだろう。サーバーから紅茶をティーカップに注ぐと、アールグレイの芳醇な香りがあたりに漂う。

 

「前まで、俺の会社に勤めてた従業員とさ。レオン、おまえも知っていると思うが、俺は自分の会社にあまり女を入れたくない……だが、有能な女の建築士というのもいることにはいるし、まったくひとりも入れないというわけにもいかないんで、まあ多少は入れる。女という生き物に経営者がひどい偏見を持っていると思われないためにな。なんにせよ、世間体を気にしてのことだ。が、全体の比率として女のほうが少ないとなると、どうなる?」

 

「おまえの言いたいらしい文脈から察するに……たぶん、その女性が未婚なら、独身男どもの間で誰があの女を最初にデートに誘うだのなんだの、賭けがはじまるってとこなんじゃないのか?」

 

「流石はレオンさまだ!その通りだよ」

 

 君貴もまた、サーバーのところまで行って、新しくコーヒーを注ぎ足した。そして、恋人の隣まで戻ってくると、上機嫌に話を続ける。

 

「その女はな……うちの従業員どもの間で誰が自分と結婚するのに一番相応しいかみたいな感じでな、あっちの男と寝ては捨て、こっちの男と寝ては捨て、みたいなことをやりやがったんだ!何分面接した時には、清楚な育ちのいい美人のようにしかまったく見えなかったもんでな――あんな淫売だとわかってたら、絶対入社なんかさせなかったのに!」

 

 レオンは愉快そうに笑うと、テーブルの上のフィナンシェをひとつ取って食べた。君貴もまた、つられたようにマドレーヌを食べる。

 

「で、まあ結局、うちの優秀な設計技師のひとりと最終的には落ち着いたんだが……金髪碧眼の、下着のカタログにでも出てきそうな感じのする美男美女でな。ほら、デパートの下着売場に、金髪のカツラを被ったマネキンがいるだろ?ちょうどあんな感じのカップルさ。嘘くさい、貼りつけたような白い歯をしてる……それはさておき、その淫売と俺はコストコで通りすがった。逃走か闘争か――俺は一瞬迷ったよ。で、向こうが気がつかなきゃ無視しようと思った。だがまあ、旦那の設計技師は今もうちで働いてるし云々と迷ってたら、向こうがどでかいショッピングカートを押して、バビュン!とばかりこっちへ走ってきたんだ。そうなると今度は何故か、俺は逃げだしたい衝動に駆られた。だが、どうにか堪えたよ。『所長!ご無沙汰してます。所長もお買い物ですか?』、『ああ、まあ……』――そのあとも、ミセス淫売はなんやかやくっちゃべってたが、あんまりくだらない内容だったもんで、俺のほうでは覚えてない。女のおしゃべりなんてのは、大概がそんなもんだ。そんなことより俺は、巨大カートの子供をのせるところに、ムッチリ太った双子の子供のいるのが気になった。おふくろさんが舌を動かす間、大きなどんぐりみたいな眼で、じっと食い入るように俺のことを見てたよ……まるで、俺のことをママの新しい愛人か何かとでも疑うような目つきでな」

 

「わかったよ。おまえの女に関する話は、大抵がひどい偏見で満ちてる。その美しい女性は、単に男の力が強い職場で、自分の納得できる賢い選択をしたんだよ。馬鹿な男どもが次々自分にデートの申し込みをしてくる……そのことをあとで男どもがコソコソしゃべったりするってことも、彼女は承知の上だったんじゃないのか?『今度はあいつがモノにしたらしいぞ』とかなんとかね。はっきり言ってセクハラもいいとこじゃないか。君貴、おまえはむしろ責任者として、職場環境の改善をはからなきゃ駄目なんじゃないの?」

 

「いや、その点については俺も反省する……が、しかし、ここで俺が言いたいのはそういうことじゃない。彼女はカートに、子供が遊ぶためのどでかいおもちゃなんかを乗せてた。そして、それはべつにいいのさ。何も問題なんかない。ところがだな、カートに乗ってる子がふたりとも、実に可愛くないんだ!あんな憎たらしい顔をした子を見たのは生まれて初めてだった。実をいうと、彼女が何を話してたのか覚えてないのもそのせいなんだ。ほら、絵画なんかで、赤ん坊のキリストが描かれてるのがあるだろ?キリストは神の子だから、赤ん坊の時からすでにメシアとしての自覚があった――という解釈の画家がイエスを描いた場合、その赤ん坊は大人の知恵がすでにあるような憎たらしい顔をしてる。そうではなく、成長するにつれてだんだんにメシアとしての自覚が芽生えてきたという解釈の場合は、赤ん坊のイエスはただの可愛らしい赤ん坊として描かれる……言うまでもなくわかるだろ?その子たちは前者さ。あんな美男美女から、こんな憎らしい顔をした、まったくもって可愛げのない赤ん坊が生まれてくるだなんて――それも一度にふたりも!俺はまったくもってゾッとしたね。ガキなんて絶対作るものじゃないとあらためて確信した。何故といって絶対といっていいくらい、自分の理想通りになんか育ちゃしないからだ」

 

 このあとも君貴は、「どう考えても将来、ろくな人間にならなそうな顔つき」だの、「あの顔じゃ、悪党にならないのが難しいだろう」だの、「赤ん坊の時であれなら、将来はマフィアのボスにでもなるしかない」――といったように、ひとり勝手に納得していた。

 

 レオンもまた、君貴の語りの熱心さに思わず同意して笑ってしまったが、(待てよ)と考える。自分たちはそもそも、彼の愛人に出来た赤ん坊の話をしていたのではなかったか?

 

「君貴おまえさ、それで話のオチとしては、結局僕に何を言いたかったのさ?」

 

「あっ、そうだった!その小憎らしいベイビーたちのママってのが、俺にこう聞いてきたのさ。たぶん、俺が彼女の話をろくに聞いておらず、ふたりの醜い子供たちに釘づけになってるのに気づいたんだろうな……彼女はこう聞いてきた。『うちの子供たち、可愛いでしょう?』って。俺は自分の耳を疑ったというよりも、彼女は実はとても目が悪いのかと思った。『いや、こんなにみっともないガキを同時にふたりも見たのは初めてです』なんて、本当のことを言うわけにもいかない。俺は、淫売女の強制に屈した。なんてことだ!俺は仕事で利害が絡まない限り、滅多におべんちゃらを言わないのを誇りにしているのに!!しかも、うちの従業員を数人食い散らかして、一時的に仕事に集中できない状態にさせた女に対してだぞっ。『かっ、かわ、いいんじゃないですかね……』俺は蚊の鳴くような声で答えた。だがあの女、耳はいいらしい。即座に『そうでしょお?うちの子たちほど可愛い子、滅多にいないって、近所でも評判なんですう』――レオン、俺の言いたいこと、わかってくれるな?近所でもきっと評判なんだよ。『あんな美男美女からあんなにみっともない子が生まれてくるなんて、世の中どうなってるんでしょう!』って意味でな」

 

「はははっ!いつものことだけどさ、おまえ、あんまり僕を笑わせるなよ。それで、そのみっともない双子とおまえがジャパニーズ・ガールを孕ませたことと、どう関係あるのさ?きっと、あの子とおまえの子なら、可愛い子が生まれるよ。それに小さい頃はみっともなくても、成長するにつれてどんどん可愛くなるってこともあるだろ?」

 

「どうだかなあ」

 

 君貴は、そんな楽観主義に縋るつもりはない、といったようにしきりと首を振っている。

 

「とにかく、これが俺の言いたいことさ。レオンほどの美貌を持つ子が生まれて欲しいとまでは、俺も思ってないよ。それならそれで、トラブルが絶えなくて心配だろうからな。だが、この件は俺にとって一考に値いすることだった……いや、むしろ今マキが妊娠したと聞いて、あの女の親心がいまや俺にもよくわかる。あのビッチも、毎日子育てで大変なんだよ。そして、本当はわかってるのさ。父親にも母親にもどっちにも似てない、可愛らしくない子……時々は、なんでこんな子たちのために自分は自分の人生を犠牲にしているのかと、泣き叫びたいことだってあるだろう。だから、彼女は周囲の人々に『うちの子、可愛いでしょう?』と強制することで――相手に無理やり『可愛い』と言わせることで、どうにか毎日をやりくりしてるってことだよ」

 

「ようするに、それがおまえの言う『わかってる』ってことなのかい?そんなみっともない子が生まれても、全然可愛いと思えなくても、親として一生十字架でも背負ったみたいに育てていかなきゃならないっていうことが?」

 

「そうとも。おまえとつきあってる俺がこんなことを言っても説得力ゼロだろうが、俺は容姿の美醜には大して拘りがない。ただな、美人か醜男かといったことは関係なく――『こういう顔立ちの奴は好きじゃない』といったことはあるのさ。で、それが自分の子供の顔の中に……それも成長後の子供の顔の中に表れるってことはあると思ってるんだ。そうした場合、どうなる?『お父さんは僕のことなんか好きじゃないんだ!』と向こうが言ってきたとするな。そしたら俺は、内心では『うん、好きじゃないよ』と思っていても、『何を言っているんだ。親が子供を愛さないだなんて、そんなことあるわけがないじゃないか』、『もちろん愛してるよ』と嘘をつかねばならん。まったく、普段からゴマをするのがヘタな、正直な人間には強いストレスのかかる時間だよ。そして、俺はこれに類することが本当に苦手なんだ。だから、マキが可愛い子を生んでくれればいいが、日本人同士の子の出産直後はほとんどがサルみたいなもんだからな。俺はたぶん、マキには嘘がつけないと思う。『この子は北京原人かジャワ原人の子かい?』なんて、出産直後で疲れきってる彼女につい余計なことを言ってしまうだろう――ようするに、俺が恐れているのはそういうことなのさ」

 

「やれやれ。おまえの話を聞くにつけ、マキって子がますます可哀想になってきたよ。っていうかおまえ、それ、冗談でなく本気なんだろ?そう考えた場合、ますます救いようがないな」

 

 いつものようにうまく誤魔化された感が否めなくもないが……とりあえず、レオンはこの君貴の意見に納得することにした。とはいえ、例のジャパニーズ・ガールが彼の子を産めば――自分たちの関係は変化せざるをえないだろう。君貴は彼本人が言っているとおり、「嘘がつけない」のだ。ゆえに、自分の子供が可愛くてたまらないとなれば、自然とそれが顔に滲みでるはずである。また、そうなれば当然、自分がいかに赤ん坊に夢中なのかを隠し続けるのは難しいことだろう。レオンにしても、君貴の子の顔を見てみたいという気持ちはあるのだ。彼の子ならきっと可愛いはずだ、といったようにも思う。けれどそうなったが最後、レオンは君貴との恋人関係を解消し、彼の元を去るつもりでいた。

 

 もともと、養子として迎えられた先が中国の大富豪の家庭であり、レオンの義理の父に当たるルイ・ウォンは、才能ある彼を気に入り、妻やふたりいる子供のみならずレオンにも多くの財産を分け与えた。ゆえに、レオンのピアニストとしてのデビューはルイの死後であったが、その頃彼は「ピアニストとして独り立ちする」ことで経済の基盤を得たいと考えていたにも関わらず――その必要性すらなくなっていた。それなりにうまく堅実に投資してゆけば、食べていくのに困るといったことはこれからも一切ないだろう。

 

 だが、十六歳でショパン・コンクールで優勝したのみならず、マズルカ賞、ポロネーズ賞、コンチェルト賞、ソナタ賞を同時に受賞したレオンだったが、すでにそれから約十七年……そろそろ一度休んでもいいだろうとレオンは考えていた。何より、彼は最初にそのように考えた時に、君貴と出会ったのだ。君貴は仕事柄、文字どおり世界中を飛び回っており、とても刺激的で充実した人生を送っているように見えた。

 

 だから、レオンは思った。阿藤君貴という男に見合う、対等な関係性を築きたいと思ったら、ピアニストとして彼と同じように世界中を飛び回ってコンサート活動し――時々会ってお互いどんなことがあったかを話しては笑いあい、そして愛しあう。他に、映画に脇役として出演したり、ブランドの広告塔になったりということも……本来なら、プロのピアニストとしてのレオンの主義に反することではあった。だが、君貴と交際するうち、そうした色々な思い込みの枠が外され、レオンはより自由になり、本業であるピアニスト以外のことにも挑戦することが結局、いいピアノ演奏にも繋がる……といった、よい循環を次第に見出していったのである。

 

(おまえと出会ってからのここ数年が、僕にとっての一番幸福な人生の黄金期だった。だが、どんな素晴らしい人生経験にもいつか終わりは訪れる……ここ六年の間彼との間にあったことは、むしろ奇跡のような時間だったとでも思って、僕も変化を受け容れるべき時が来たのかもしれない)

 

 レオンは、そのことを覚悟した。にも関わらず――彼の恋人の阿藤君貴、この駄目な男は、第一にまず孕ませた愛人マキの出産に仕事を理由に立ち会わなかったのである。それから、レオンがしつこくせっついたことで、ようやくのことで自分の息子に会いにいっていたのだ。

 

 レオン自身、この話の成りゆきに、おかしなものを感じていたといってよい。何故といって、「ええっ!?子供が生まれたのに、出産に立ち会わなかったどころか、いまだに会いにいってもいないだって!?」と、彼は思わず恋人のことを怒鳴りつけていたほどだったのである。

 

「いいから、今すぐ日本へ向かえよ!出産時に立ち会えなかったのは仕事の都合がつかなかったとでも言って、平謝りにあやまれ!!あとな、自分の子がサルのように見えても、オランウータンの親戚だの、チンパンジーの親友だの、絶対おかしなことは言うんじゃないぞ。いいか、そもそもおまえは従業員の双子の醜い息子のことを『かわいい』とすでに嘘をついてるんだ。それなら、自分の子供に対してはなおさら、おべんちゃらでもなんでも振るまえ!あと、マキって子のことをよく労ってやるんだぞ。こんなどうしようもないダメ男の子を、苦労して産んでくれてありがとうと手のひらでもどこでもいいからキスして言うんだ!わかったな!?」

 

「なんだよ、レオン。俺はてっきり、自分のガキが生まれたのに、会いにも行っていないとおまえが聞けば、喜ぶとばかり……」

 

「なんだってえ!?」

 

 レオンは、人工芝を広げてパターの練習をしていた君貴に向かい、容赦なく怒鳴った。彼の手からパターを無理やり取り上げる。

 

「いいか!僕は今までもずっと思ってたけど――おまえよりも血の繋がりも何もない僕のほうが、よっほどあの子とお腹の子のことを心配していたよ。そこのところ、女とゲイの僕とじゃ、考え方が違うんだろうね。もし僕が女で、おまえの本妻ってことなら、マキが流産でもすればいいと思って呪いすらかけていたかもしれない。けど、絶対こんなのおかしいだろ!父親であるおまえじゃなく、ゲイの恋人の僕のほうが、妊娠中のあの子のことをずっと心配してるだなんて……それで、無事元気な子が生まれてきたんだろうね!?」

 

「ああ、まあな。男の子だったらしい。貴史(たかふみ)と名づけたと、写真と一緒に送ってきたよ」

 

 君貴はまごつきつつ、ベストのポケットから携帯を取り出すと、レオンに見せた。

 

「なんだ、可愛いじゃないか!なんにしても、未熟児だとか、生まれつきの障害がどうこうとか、そういうことがなくて良かったな。一体いつ生まれたんだ?それで、なんでこんなところでヘタなパターの練習なんかして、実の息子に会いにいってもないんだよ?」

 

「十月七日って言ったかな。なんか、最初に陣痛がはじまってから、三十時間かかってようやく生まれたとかって……名前、何か候補があったら教えてほしいって言われたんだがな。結局、マキに決めてもらったんだ」

 

「ふうん。あの子、本当におまえのことが好きなんだな。君貴の貴に、歴史の史……おまえがヨーロッパの歴史マニアだってことも当然知ってるんだろ?たぶん、名前の由来はそんなところだ」

 

「いや、おかしいだろ、レオン!」

 

 来週、ロスに新しく出来るショッピングセンターのオーナーたちと、君貴はゴルフへ出かける予定である。つまり、彼は何もチェルシーの自邸でパターの練習をしていたからといって――これは決してただの遊びではなく、仕事の一貫なのだ。

 

「なんで俺が思いつきもしなかったそんなことに、おまえが気づくんだ?それに、マキの妊娠がわかって以来、ここで会うたびにあの子と腹の子供はどうだの、色々聞いてきたり……いや、俺はおまえに申し訳ないとも思ってるし、だからマキと彼女の子供がどうだの、レオンに話すつもりは一切なかったんだ、そもそもな。ところがおまえのほうが一生懸命聞いてくるから……」

 

「そうだよ。それが誰との間に出来た子かなんて関係なく……僕はその子があくまでもおまえと血の繋がりのある子だってことに、興味を持ってるんだ。たとえばさ、まるっきり父親らしくないおまえと違って、僕にはマキって子に会いにいって、君貴のかわりに色々子育ての手助けをしてもいいって思ってるくらいだからね。もちろん、あの子のほうでそんなこと望みやしないだろうから、そんなことはしないよ。けどねえ、僕に言わせりゃやっぱりおまえのほうが異常なんじゃないの?写真で見ただけでこんなに可愛い子に、いまだに会いに行きもしないだなんて……しかも、十月七日に生まれたってことは、もう二週間も経ってるんじゃないか!信じられないな。むしろおまえの代わりに、僕がタカフミのことを抱きたいくらいだ」

 

「じゃあ、おまえが俺のかわりにマキのところへ行って、子守りでもなんでもすりゃいいだろうが!とにかく、俺はガキのオムツ交換だの、風呂入れだの、そんな非生産的なことには興味ないんだ。だから、最初にレオンにも言っておいたろう?おまえが心配することなんか何もないんだって。それとも何か?出来る限り用もないのに東京へ行って、マキの子育てする負担を減らせとおまえは言いたいのか?冗談じゃないぞ。俺はそんな暇人じゃない」

 

「……君貴、おまえこそマジで信じらんないよ。っていうか、こんな血も涙もない冷血な男と、今の今までつきあってた自分に驚きすら感じるね。まさかとは思うが、それがおまえの本音なのかい?子供が出来る前までは、用なんかなくても東京へ行ってたんじゃないか。マキっていう自分がヴァージンを奪った子と寝るためだけにね。それが子供が出来た途端、それなわけ?おまえ、あの子とつきあいはじめた最初の頃、僕になんて言ったか覚えてる?」

 

「よくわからんが、どうせ俺にとって都合の悪いことなんだろうな」

 

 君貴は、レオンからパターで殴られそうな恐怖を感じ、暖炉前のソファのあるあたりまで後退した。実際のところ、人気建築デザイナーである彼が忙しいというのも、事実ではあった。そして、自分の完全なオフ日くらい、今までどおり自分の自由時間として使いたかったのだ。

 

「そうだよ。『もう僕とおまえの関係もこれまでだ!』って言って、怒り狂って僕がこの部屋を出ていこうとしたら、おまえはこう言ったんだ。あのマキって子との間に起きたことは「アクシデント」だって。それで、そのことが自分にとってどんな意味を持つのか見極めたいだけだとも言った。忘れっぽいおまえは覚えちゃいないだろうけど、僕はもうその時に「女って奴は男と違って妊娠する」ってことも、はっきりおまえに忠告してやったはずだぞ。おまえはそうマメに避妊するようなタイプの男じゃないと思ったからね、そのことも言ってあったはずだ。で、その結果はどうだ?見事あのマキって子は妊娠し、おまえはこの体たらくだ。今となっちゃ遅いことだけどね――僕はこういうのが一番嫌だったんだ。おまえが僕との会話のお盆にのせようとのせまいと、マキって子とおまえの息子の存在が、どうしても絶対にちらついてしまう。いくらおまえが気にするなと言っても、父親のおまえ自身が実の子のことを気にしていなかったとしても、僕は気にするよ。だからもう、これが僕たちの限界ってことなんじゃないのか?」

 

「……まさか、別れるっていうのか?だが、仮にそんなことをしたところで――」

 

 君貴は重い溜息を着いた。確かに、マキの出産と妊娠を挟んで、レオンとの関係は一時的に再び悪くなるかもしれないとは思っていた。だが結局、そんなことはなかったのだ。そして、ここでレオンと落ち会うたびに彼のほうが熱心にマキの体の調子のことや、お腹の赤ん坊のことを聞いてきたり……時々君貴は、レオンのほうこそがマキの父親なのではないかと錯覚することさえあるくらいだった。

 

「そうさ。むしろ、ちょっと時間を置いてお互いの顔を見ないくらいのほうが燃えるってことに気づくってだけの話だ。だから、僕にももうわかんないよ。僕はね、おまえがあんまりはっきり『俺はガキが嫌いだ』だのなんだの昔から言ってたもんで――実は僕のほうは結構子供が好きだなんて、言うつもりなかったんだよ。ほら、これはあくまでもたとえばだけど……カールと僕がゲイのカップルとして結婚したとするよね?そしたら、たぶんどこかの児童養護施設からでも子供を引き取って育てようとしたかもしれない。だから、マキって子がもし――まあ、あの子の場合、そんなことは絶対ないだろうけど、おまえが父親としてそんなだから、こんな子もういらない!みたいになったとするな?そしたら、タカフミのことは僕が引き取って育ててもいいくらいなんだ。言ってる意味、わかる?」

 

「…………………」

 

 君貴は、黙り込んだ。お互い、もうつきあいも長く、相手のことなど知り尽くしていると思っていたのに――意外な面というのは、意外な瞬間にわかるものなのかもしれない。

 

「知らなかったよ。俺は、てっきりおまえは……」

 

「ああ、まあね。僕は出自がよくないというか、父親についてはいまだに誰かわからないし、母は赤ん坊の僕を見捨てて自殺したような人だ。引き取られた先の養護施設でもひどい目に合ったし……だから、おまえが自分の子供時代を思い出すような年頃の子を、僕が好むとは到底思えないと最初から決めつけた気持ちもわかる。けど、僕はこうした自分の考えを、他人が理解するとは思わないにしても――セックスさえしなくていいんだったら、女性と結婚して子育てするとか、そういうことには昔から興味はあるんだ」

 

 君貴は、再び驚いた。確かに、ゲイであることをカムフラージュするために、なんらかの社会的理由から女性と結婚する男性がおり、また、その女性のほうでもレズビアンであるか、あるいは単に「結婚している女」という立場が欲しいためにそうすることがあるらしいとは聞いたことがある。また実際、彼と君貴の共通のゲイ友に、そうした男がいる。彼は、結婚相手の女性とフレンチ・キス以上のことは何もしてないが、彼女の求めで養子縁組することにしたと言っていたことがある。そして、相変わらずこの女性との間に性的関係はないが、子育てという面では、「いい父親」であり続けているのだ。

 

「おまえ……もしかしてミシェルのこと言ってるのか?」

 

 ミシェル・コネリーというのが、ふたりのゲイの友人で、女性と結婚している男の名前であった。彼はラスベガスで美容師をしているのだが、容貌のほうは逞しいロックスターといった雰囲気だった。

 

「ああ。もう随分長く会ってない気がするけど……そうだな。僕の場合はまあ、本当に結婚しちゃうとファンの子たちが悲しむからどうかとは思うんだけどね。それでもまあ、マキがもし育児に疲れたから少しどっかに預けたいとか、あとはもう少し大きくなってからヨーロッパを旅行させたいとかさ、何かあったらパパの友達ってことで、僕のうちに来てもいいくらいには思ってるんだよ」

 

「うっそだろ……なんでそうなるんだ!?」

 

 むしろこの場合、君貴のほうが混乱してきた。何故そうした話運びになるのかが、彼をしてまるで理解できない。

 

「いや、だからさっきも言ったけど……やっぱりそこは、愛人ってものに対する、ゲイの男の認識と女性の本妻の違いってことだよ。もうそうやって現実におまえの子がいるわけだから、僕としてもその存在を無視できない。それだったら、自分の子ってわけじゃなくても、おまえの息子ってだけでも、僕は十分可愛がれると思ってるってことさ。まあ、なんにしても君貴は早く息子に会いにいけって。聞いた話だと、赤ん坊の成長は早いってことだからね。今一番可愛い時期を逃したら、あとから後悔しても遅いと思っといたほうがいい」

 

 ――このあとも君貴は、「俺は絶対後悔なんかしない」とか、「ガキなんかあっという間に育ってくれたほうが助かる」だの、ブツブツ言っていたが、結局のところほとんどレオンに追い出されるようにしてヒースロー空港から東京へ向かうということになった。

 

 ゆえに、マキはこうした経緯を一切何も知らない。息子の貴史を出産し、君貴がなかなか会いに来てくれなかったこの時……親友のミナや<ベルサイユのはなや>の専務や、その娘の亜由美が赤ん坊や子育てのことについて色々教えてくれたため、そうした意味では心強かったものの――君貴が息子に会いに来てくれることで、彼女はとにかく一刻も早く安心したかったのだ。

 

(そりゃあ、『マキに似て可愛い子だ』だの、ちょっとした返信はあったけど……まさかとは思うけど、もしかして彼、今ごろになって『本当に自分の子なのかどうか』疑ってるだなんてことはないわよねえ)

 

 そうこうするうち、一~二時間おきにおっぱいをあげたり、オムツを取り替えたり、赤ん坊をあやしたりなんだりで、一度はふっくら太ったように見えたマキはみるみる痩せていった。マキは出産予定日の六週間前から産休に入ったものの、<ベルサイユのはなや>の事務所からは連日電話がかかってきた。パソコンで帳簿をつける操作がわからなかったりと、とにかく種々雑多なちょっとした業務について、わからないことを質問されてばかりいた。また、電話では埒があかないような時は、大きいお腹を抱えて会社まで行かなくてはならなかったし、子供が生まれてからは――自身、六歳の息子を持つ専務の娘が、マキが仕事をする間、貴史の面倒を見てくれるというので、会社の裏手にある佐藤家と花屋の事務所をマキは何度も往復するということになった。

 

 もちろん、君貴は息子の誕生した約二週間後に、赤ちゃんの服や靴下、あるいはおもちゃなど、色々なものを手にしてタワーマンションの最上階までやって来てくれた(そしてマキは、そうしたものを持たせてくれたのもレオンであるとは一切知らない)。ゆえに、マキが仕事に復帰したのはさらにその約六週間後ということではあるのだが……君貴はとにかく赤ん坊と触れ合うのを恐れているらしく、慣れるのに随分時間がかかっていたものである。

 

 その恐縮しまくった及び腰の態度を見ていると、(すぐに息子に会いに来なかったのは、これが原因ね)と思い、マキは溜息が洩れたものだった。ようするに、『いい父親の振りをしようと、無理をして演技しているのが透けて見える感じ』というのだろうか。それでも、おっかなびっくり息子を沐浴させる君貴を見て、マキが幸福な気持ちを味わったというのも事実であり――彼が義理と義務の業務を果たしているといったような態度であっても、そうしたことについてはあえて言及しなかった。とにかく、生まれた子供に会いにきてくれたというだけでマキとしては十分であり、それ以上の子育てに対する父親参加といったことについては、一切期待してなかったといってよい。

 

(仕事を理由に帰れるとなった時の、あの人のほっとしたような顔……母親が子供を産んだ瞬間から母親なのと違って、父親のほうはだんだんに父親になっていくものだ――なんていうけど、やっぱり人には向き不向きがあるってことなのかしらねえ)

 

 その証拠にと言うべきか、君貴は最初に自分の息子と対面して以来、二か月も彼が愛人に買い与えたマンションのほうへは寄りつきもしなかったのである。しかもこの時、彼はうっかり舌を滑らせ、『レオンが色々うるさく言うもんだから会いに来たんだ』と言っていた。マキは危うく、『そういうことなら、もう二度とここへ来ないでよ!』と怒鳴りつけ、戸棚の上のものでもなんでも、彼に対して投げつけてやりたい衝動に駆られたものである。だが、どうにかグッとこらえた。経済的に面倒を見てもらっている弱い立場だからではない。単に君貴が胸に抱く赤ん坊が、なかなか泣きやまなかったそのせいである。

 

 息子が泣きやんで寝息を立てるのと同時――冷静さを取り戻したマキは、君貴にこう言った。「べつに、いい父親の振りをしようとなんてしなくていいのよ」と……。

 

「正直わたし、赤ん坊の顔を見たら、あなたが演技でなくもっと自然な感じで喜んでくれるとばかり思ってたの。でも、君貴さんくらい演技をするのが無理って感じだと――むしろ、きっぱり諦めがついていいくらいだわ。わたしにしても、貴史がもっと大きくなってきた時に『ぼくのお父さんはどこにいるの?』って言いだしたら、あなたにはたまーに来てもらえればいい……みたいに、先に言ってあったものね。もういいわ。それで手を打つから」

 

「おまえは何か誤解してるんだ、マキ」

 

 自分の息子が眠ると、まるで赤ん坊など存在しないかのようにあたりが静かになって、君貴はほっとした。何故あの子は自分が抱くと、いつでも激しく泣きだすのだろう?

 

「俺は……まったく感心してるんだ。おまえに対してはな。あんなガキを抱えて職場で仕事をしてるってことに対しても。メシは毎日ケータリング、あるいは家政婦を雇って週に何回か来てもらうってのでもいいって言ったのに――相変わらず、大抵のことはなんでも自分でやってるんだものな。マキは俺が無理してるとか演技してるとか言うが、そういうことじゃないんだ。ようするに神々しいって話さ。赤ん坊を抱っこしておっぱいやってるマキを見てると……おまえと息子のためになんでもしなきゃならんような気持ちにはなるが、何分あの子は俺が抱いたり何かするたんびに、『おまえなんかパパじゃない!』とばかり、泣いてばかりいるんだからな」

 

「赤ん坊はとにかくよく泣くのよ。たぶんわたし、あのまま意地を張って前のアパートに住んでたら――隣近所から虐待でもしてるんじゃないかって疑われてたかもね。その上、こんなに豪華なタワーマンションの一室に住めてるんですもの。あなたに文句なんて言う気はないわ。でも、もしあなたが毎日仕事から帰ってきてこの家にいたら、そんなのも無理でしょうね。『なんでわたしばっかり!』とか、『あなたももうちょっと何かしてよ!』みたいにヒステリックになって、あなたはそういうわたしを見て、一気に気持ちが冷めて嫌気が差す……何かそんなところじゃない?だから、あなたがいないのは確かに寂しいけど、そんな贅沢なこと言ってたらそもそもキリがないっていう話ですものね」

 

「マキが物分かりのいい女で、ほんと助かるよ」

 

(どういたしまして)と言うのも変な気がして、マキは諦めきった心境により肩を竦めた。レオン・ウォンのほうでは、東京の愛人に子供が出来たと聞いても――今度は嫉妬に狂うでもなく、極めて冷静なままだったという。それどころか、父親である自分よりも母であるマキのことや赤ん坊のことを気にかけていると聞き、マキは不思議な気持ちになったものだった。

 

「レオンさ、そのうちマキさえ嫌じゃなかったら、貴史に会いたいんだって。マキが送ってくれる写真を見ながら、俺以上に『可愛い!』とか言ってひとりで騒いでるよ。マキさ、あいつとの間にひとりくらい子供作ってやれば?」

 

「なっ、何言ってるのよ!もしレオンさんが子供を作るとしたら……ただそれだけが目的だとしたら、わたしみたいな遺伝子の劣った女じゃなくて全然いいわけでしょ?ほら、アメリカとかだったら、そういう代理出産とか請け負ってくれる業者があるって聞いたことあるし」

 

「まあな……あっ、今のはマキが劣性遺伝子の塊だって認めたわけじゃないぞっ。ただ、ゲイのカップルが子供が欲しいって時に、ふたりのうちのどちらかの精子と、ふたりが選んで「この女性がいい」って判断した女性の卵子で受精させたりすることも出来るっていうだろ?俺もさ、まさかあいつがこんなに俺の子供のことで興奮するとはまるで思ってなかったんだ」

 

 マキは、赤ん坊が寝ている間に一休みしようと、お茶を入れることにした。部屋のほうは、シャンデリアの下がったリビングルームに、子供のための部屋、他にゲストルームとベッドルームが三つずつあり――普段、マキと息子のふたりで暮らすには、広すぎるくらいだった。しかも、三十七階という高さの場所で見晴らしが素晴らしいだけでなく、もし犬を飼ってたら遊ばせるのに十分な広さのテラスまで付いている。

 

「そうねえ。もし君貴さんが頑張って貴史の面倒を見てくれるとかっていうんなら、ロンドンでもニューヨークでも、貴史のこと、連れていってもいいのよ。でも、そういうわけにもいかないとなると……」

 

「おまえ、レオンとまた顔を合わせるのは嫌か?」

 

 君貴は、自分が持ってきたボンボンショコラを食べつつ、マキの入れてくれた紅茶を飲んだ。ちなみに、ジャン=ポール・エヴァンのものである。

 

「わたしがどうこうっていう問題じゃないでしょ!それに、今となってはあなたを間に挟んで、レオンさんとも顔を合わせつつ、貴史の面倒まで見るなんて……おかしいわよ、そんなの。わたしだって、どんな顔して会っていいかわかんないわ。何分、君貴さんは普通の人じゃないから、レオンさんにわたしとの間にあったこととか色々、全部話してるっていうし」

 

「その点は何も問題ないよ。ほら、なんていうのかな。俺とレオンのあれは……双子の弟が兄貴に、『おまえの愛人最近どう?』って聞いて、『赤ん坊におっぱいやってるマキは、女神みたいに神々しいよ』とかなんとか話してるってだけの話だからな。おまえがあれこれ気にする必要はない」

 

(だから、それが一体どういうこと?っていう話なんでしょうが!)そう思い、マキとしては呆れるのみだったが、もしレオンのほうで都合がつくなら、貴史に会うこと自体はまったく構わない……といったようには言っておいた。

 

 だがもちろんマキは、君貴がそのことをレオンに伝えた翌月には――まさか、君貴から借りた合鍵で、本当に恋人の息子に会うために世界的ピアニストが自宅までやって来ようとは、想像さえしていなかったのである。

 

 

 

 >>続く。

 

 

 

 

 


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