あ、今回の前文はほんと、はっきし言って、かなりのとこどーでもいいことです♪(^^)
今回のトップ画はアンネ=ゾフィー・ムターさんのベートーヴェン・ヴァイオリン協奏曲だったりするのですが……この車、実際のとこリムジンかどうかわからないものの(笑)、↓の本文にある>>「バックが黒でレオンの顔がアップになっているリスト曲集、ピカピカに磨かれたリムジンから、彼が笑顔を覗かせているモーツァルトのピアノ協奏曲全集などなど……」という部分の、車から笑顔を覗かせている部分というのが、ムターさんのこのジャケットから来ているという、ただそれだけの話です(^^;)
いえ、実際のとこわたし思うんですけど、ムターさんの名前がなくて、ベートーヴェンのヴァイオリン・コンチェルトっていう文字もすべて抜いたとしたら――クラシックに興味ない方にとっては、「なんか綺麗な金髪のおねいさんが微笑んでる♪」くらいなものなんじゃないでしょうか(「いや、ムターくらい、誰でも知ってるだろ」という意見はよっこしておいて!笑)。
そんで、ですね。クラシック音楽におけるジャケ写問題(?)なのですが、大体いくつかパターンがあるような気がしたり。その時代の作曲家と関連した絵画を使う場合もありますし、ヴァイオリニストの方の場合やっぱり、ヴァイオリンを片手にしている場合が多く、ピアニストの方の場合はピアノのどこかに片肘ついてポーズ取ってるとか……ただ、特に容姿の美しい方の場合、もはやヴァイオリンもピアノも写っとらんやんけ!!というジャケ写が結構あったり(笑)
何を言いたいかというと、レオンのジャケット写真もたぶん、アトゥー氏が>>『おまえのスタッフは、ファンの子にジャケ買いさせる術をよく心得てるよな』――と指摘しているとおり、そうしたのが多いのだろうなと思ったという、そのような次第です(^^;)
いえ、自分的にクラシック音楽だけでなく、ロックでもポップスでもなんでも、ジャケット写真はアートだと思ってるので、時に「おお、なんと神々しい……!!」とか、「尊いーっ!!」と思いつつ、そうしたジャケ写に見入ることになるわけですが、レオンのファンの子たちもきっとそんな感じに違いないと思ったというか(笑)。
ではでは、次回も確か「世界的ピアニスト、ゲイの恋人の愛人の部屋へ転がりこむ」……の続きだったと思います(^^;)
それではまた~!!
↓本編とまったく関係ありませんが、なんとなく。アンネ=ゾフィー・ムターさん、お美しい♪(^^)
ピアノと薔薇の日々。-【16】-
『あいつは、おまえが貴史に会いたいのであれば、顔を見にくること自体は構わんとさ』
君貴はあっけらかんとそう言い、東京の愛人を住まわせてるマンションの合鍵をレオンに渡した。
『絶対に変だよな、こんなの』
レオンとしてもなんだかおかしかった。君貴が彼にだけぺらぺらしゃべる本音によれば――彼はマキに会いに行っているのであって、赤ん坊はその副産物に過ぎないということだったからだ。
また、もし仮にレオンの立場が本妻といったものであったとしたら、夫の愛人と生まれたばかりの彼との間に出来た子を見学に行くようなものであり、そう考えるとレオンは笑えるような気のするのが不思議だった。
『つまりだな、マキにはもれなく俺の子がついてくるってわけで、これはやむをえない事情として受け入れざるをえない。そもそも、俺がその原因を作っちまったって意味でもな。けどまあ、あそこが俺の心の聖域(サンクチュアリ)だってのも、一方で本当のことではあるんだ。だが、俺は聖なる特別な場所ってのは、そうたびたびお参りして、生活の垢で汚すのが当たり前みたいな場所にしたくないんだよ。そうだ、そうそう!俺が父親失格なのは間違いないが、そういう部分だって確かにあるんだ』
『随分勝手な言い分だね。まあ、確かにおまえは昔から言ってはいたよな。それが異性同士のカップルでも同性同士のカップルでも――お互いの間に生活の垢を持ち込んだ時点で、恋愛関係はある瞬間に死ぬって。だけど、女性にしてみたら毎日赤ん坊の父親がそばにいてくれるっていうのが、一番の幸福なんじゃないのか?』
『そんなこと言ったって、どのみち俺、仕事仕事で早々日本の東京になんか行けねえもん!』
仕事を盾に取ればなんでも許されると思っている男の言い分だが、レオンはただ肩を竦めるに留めておいて、それ以上は何も言わなかった。そして、ペテルブルグとモスクワでのコンサートを終えてのち、彼はシェレメチェボ空港から日本の成田空港へ降り立ったわけだが――タクシーの運転手に君貴から教えてもらった住所を伝え、車で移動中も、レオンはどうにも笑いがこみ上げてきた。
(これから恋敵のいる、しかも恋人が愛人に与えたマンションのほうへ向かおうというのに……こんなことのためにわざわざ時間を作ったりして、僕も本当に何を考えてるんだろうな)
もちろん、レオンはマキの迷惑についても考えた。もしかしたら君貴が前もって、『そのうちレオンがそっちへ行くから』と伝えてある可能性もある。だが、突然息子の父親のゲイの恋人にやって来られて嬉しい女性など、まずもっているはずがないのだ。
モスクワから東京までの飛行機の所要時間は、約十時間ほどである。ファーストクラスの座席でぐっすり寝てきたとはいえ、タクシーが一度渋滞に嵌まり込んだのにはイライラしたものである。それでも、三十七階建ての<ピュリス東京>とマンション名の刻まれた建物にようやく到着した時には――レオンにしてもほっとしていた。
(それにしてもピュリスか。まあたぶん、ギリシャ神話のピュリスには関係ないんだろうな。あれはあまり縁起のいいような話じゃないし……というか、東京の下町あたりにいくと、アパート名なんかを見てるだけで面白いものな。プレジデント・ハイツという名のボロ屋とか、GO!GO!シャネルっていう名前のオンボロっちいアパートなんかがあって――それを見た時にはどういうネーミングセンスなんだと、僕も目を疑ったものな)
文字の中になんらかの意味性を常に探してしまうのは、人間の悲しい性だ……そんなことを思いながら、レオンは暗証番号を入力して、エントランスを抜けた。エレベーターで三十七階まで上がっていくと、そこには鏡張りになった玄関口があり、そこのロックもレオンは先のとは別の暗証番号を入れて通過した。そしてさらに鍵でドアを開け、ようやくのことでレオンはマキの住む部屋のほうへ入ることが出来た。
玄関のところには、シューズボックスの上などに色々な蘭の花が置いてあった。オレンジュームやシンビジウムやデンドロビウムなどなど……株分けして増やしているのかどうか、廊下の端のほうにズラリと鉢植えのほうが並んでいる。間にところどころ観葉植物が挟まっているとはいえ――全体の配置として、あまりバランスのいい感じではなかった。
(まあ、赤ん坊がいれば、そんなものかもな。そんなにのんびり花の世話なんかしてもいられないだろうし……)
このあと、レオンは一通り、トイレ、バスルームからはじめて、次にリビング、子供部屋、ベッドルームやゲストルーム……といったように、順に部屋のほうを見ていった。もっとも、レオンが冷蔵庫の中を開けてみたり、キッチンの戸棚を何かのチェックでもするように見ていたのは小姑根性からではない。
レオンがこの部屋に足を踏み入れて最初に気づいたのは、そこはかとなく空気中に漂う、花の香りだった。トイレのほうはミントの芳香剤の匂いがし、バスルームはマグノリア石鹸の香りがした。リビングのほうは、レオンが直感的に<赤ん坊の匂い>だと感じるものが漂っている。甘いお菓子のような、あるいはタルカムパウダーの混ざったような香りだ。そしてそれは、子供部屋のほうがより強く染みついているような気がした。
(ふうん。もし、僕が泥棒なんかだったとして……あの、玄関口の二重ロックを解除できた場合、中に入ってきたらこう思うんだろうな。金持ちの幸せ夫婦が赤ん坊と一緒に暮らしてる、みたいに)
もっとも、レオンは知っている。マキは乳飲み子とふたりでここに住んでおり、父親はたまにしかやって来ないということを。
レオンは、ベビーベッドが置かれ、その他子供がもう少し大きくなったら遊ぶだろうおもちゃやぬいぐるみのたくさんある部屋に背を向けると、マキの花だらけの部屋に暫しの間足を止め、本棚に並ぶ本のタイトルをなんとなくチェックした。それから、CDの棚に自分のショパンピアノ全集があるのを見て――少しばかり皮肉な気持ちになった。彼女はこれを、パリでのあの夜の前に購入したのか、それともそのあとに買ったものなのか、判断がつきかねたからだ。
しかも、あるのはショパンの全集だけではない。『おまえのスタッフは、ファンの子にジャケ買いさせる術をよく心得てるよな』と君貴がからかってよく言う、バックが黒でレオンの顔がアップになっているリスト曲集、ピカピカに磨かれたリムジンから、彼が笑顔を覗かせているモーツァルトのピアノ協奏曲全集などなど……(まさか、前から僕のファンだったとかいうことはないと思うんだけどな)と、レオンは首を傾げていた。
その隣の部屋は、おそらく君貴が来たら泊まっていくのだろう。置いてある絵画や彫刻、インテリアの趣味などから、レオンはそのことを感じ取っていた。そして、さらにその横に位置する部屋のドアを開けて――レオンはそこに自分の荷物を置くことにした。荷物、などと言っても、キャリーバッグがひとつにボストンバッグがひとつ、といったところではあったのだが。
その部屋には、ヤマハのピアノが一台置いてあり、キャビネットやタンスの上などにプリザーブド・フラワーやリヤドロの高級陶器がいくつも置いてあった。その天使や、ギリシャ神話に題材を取った陶器人形を見ているうちに……何故だか突然にして、レオンは気が滅入るものを感じた。果たして、もし逆にマキのほうがチェルシーにある君貴とレオンの愛の巣といっていい場所へやって来たとしたら――彼女も同じような気持ちになるのだろうか?
とはいえ、レオンが一種のそうした気分障害から立ち直るのは早かったといえる。彼はここに遊びに来たわけではなく、週に六日働いているという感心な愛人のために、家事手伝いと子育ての援助にやって来たのだから……。
ゆえに、マキが仕事中、会社の裏で専務の娘に預かってもらっている貴史のことを受けとり、自宅のほうへ帰り着いたのは、すでに夜も七時を過ぎる頃だったのだが――玄関のドアを開け、廊下からリビングの灯りがついているのに気づいた時、マキは驚いたものだった。
(もしかして、君貴さん?)
マキはそう信じて疑いもしなかった。もちろん、『そのうちレオンがそっちへ行くかもしらん』といったようには、君貴の口から聞いてはいた。けれど、まさか彼が合鍵まで渡していようとは想像だにしていなかったのである。
だから、マキはこの時驚いた。長方形の白いテーブルいっぱいに、夕食のご馳走がすっかり並んでいるのを見て……。
「ああ、お帰り。お仕事、ご苦労さま」
レオンがオーブンから鶏肉の香草包み焼きを出すと、それまでにもリビングいっぱいに漂っていた料理のよい香りが一層強まった。マキはまず、上機嫌に声を発して笑う貴史のことをソファの上のほうへと下ろす。
「あっ、あのう……君貴さんから、そのうちあなたが赤ん坊のことを見にくるかもしれないとは聞いてたんですけど……」
「ああ、うん。ごめんね。前もって連絡したってよかったんだけど……なんか、『一体何しにくるの』みたいな感じで、警戒されるかと思ったんだ」
テーブルいっぱいのご馳走と、レオンの敵意のない微笑みによって、もちろんマキは彼に何か悪意のようなものがあるとは思わなかった。君貴もこう言っていたものだ。『あいつ、絶対おかしいと思わねえか?俺は基本的に、あいつの前で赤ん坊の話なんかするつもりなかったんだ。それなのに、俺以上に写真で顔見ただけではしゃいだりして……』、『子供が好きなの?』、『よくわからんがな。だが俺と同じく、ガキなら誰でもいいってわけでもないらしい』――このあと、マキにもわかった。レオンは貴史の顔をじっと覗き込むなり、彼なりのやり方で赤ん坊のことをあやしていたからだ。
「こりゃ可愛いや。写真や動画で見る以上だね」
「抱いてみる?」
「いいの?」
このあと、マキは貴史のことを再び抱っこし、『こんなふうにするといいわ』というふうに見本を示してから、レオンの腕に息子のことを抱かせた。すでに半年を過ぎ、首も据わっているため、心配なことはない。
「ふう~ん。いい子だな、おまえはあ~。パパがいなくて寂しくないかい?おお、よちよち……」
マキはレオンが――というより、天使のような美青年が自分の子をあやす姿を見て、頬を赤らめた。こんなことが果たしてあっていいのだろうか?あの、世界的ピアニスト、レオン・ウォンが自分の赤ん坊を抱っこしている……いや、恋人がよそに作った女との間に出来た赤ん坊を可愛がっている、そう形容したほうがいいのだろうか?
暫く、貴史は上機嫌にレオンにあやされるがままになっていたが、そのうち火がついたように突然泣きはじめた。うろたえるレオンから息子を受けとると、マキは子供部屋のほうへ行き、ベビーベッドの上でオムツを交換しようとした。
「良かったら、教えてもらえる?一度覚えたら、次は僕がマキのかわりにやるよ」
「えっ!?ええっと……」
マキ自身には、恋人の赤ん坊の顔を見たら帰る――くらいのことしかなかったが、そのことをあれこれ考える前に事件が起こった。オムツを外した途端、赤ん坊のおしっこがぴゅーっとばかり、レオンのいるほうへ飛んでいったのだ。
「きゃっ、キャッーーーっ!!ご、ごめんなさいっ。たぶんなんかブランド物っぽいセーターにおしっこのシミがっ!」
マキは貴史のオムツのことより、この時はレオンのセーターの染み抜きのことのほうが気にかかったものである。けれど、レオンの笑顔はまるで変わらなかった。
「いいんだよ、べつに。たかがエルメスのセーターだ。それより貴史、おまえは大物だなあ。もしかして、ママを奪いによそから男がやってきたとでも思ったのかい?」
このあと、マキが手早く息子のオムツを交換すると、レオンはそれを覚えて、「次は僕がやるよ」と言った。「うんちしてたら、お尻を綺麗に拭けばいいんだろ?そういう道具とかある?」
「ええっと、お尻拭きシートは、確かそこらへんに……」
(世界のレオン・ウォンが、うちの息子のうんちの始末を……)そう考えると、マキは再び頭が混乱しだしたが、一応彼の知りたいらしい情報については伝えておいた。子供部屋の戸棚のところに、オムツその他、必要なものは大体置いてあるということを……。
このあと、貴史が眠るのを見届けて、ふたりは再びリビングのほうへ戻ってきた。まずはレオンにセーターを脱いでもらい、マキはバスルームのほうでそれを手もみして洗っておいた。とりあえず、シミにはならずに済みそうだと思い、心底ほっとする。
「なんか、ごめんね。仕事で疲れてるのに、余計なことしちゃったね」
「ううん、全然よ。こういうアクシデントなら大歓迎!っていうか、むしろレオンさんこそ、気を遣わなくてよかったのに……」
ここでレオンは再び笑った。(レオンさんか)と思った。
「レオンでいいよ。君貴のことは君貴さんでもいいけど、僕のことは呼び捨てで十分だ。それより、レンジで温め直したから、そろそろ食事にしよう」
食事の間中、マキとレオンはそんなに深刻な話はしなかった。ただ、レオンの作ってくれた鶏肉料理やパスタ、サラダのことなどを褒めちぎり、「こんなに美味しいもの食べたの初めて!」と、マキは無邪気に笑いながらムシャムシャ食べるのみだったといえる。
「ほら、もう毎日、仕事して子供連れて、くったくたになって帰ってくるでしょ?そしたらもう、自分が食べるもののことなんかどーでもいいっていうか……母乳のこととか考えると、ちゃんとバランスの取れた食事をとか色々思ったりするんだけど、最後は結局茶色い帝国っていうか」
「茶色い帝国って?」
レオンは、マキが自分に対して腹の底で思うところがないらしいのを感じ、そのことを心から喜んだ。自分とは違い、<心の清らかな娘>というのは、過去のことをネチネチ根に持ったりはしないのだ。
「あ、ほらっ。日本のスーパーじゃ、惣菜コーナーっていう場所があるの。そこでは魚のフライとか、トンカツとかコロッケとか、全般的に茶色い揚げ物が多いのね。そういうのをいくつも買ってきてごはん炊いて食べるっていう意味なの」
「へえ……トンカツは僕も好きだよ。美味しいよね」
「あっ、ほんとっ!?じゃあ明日、材料買ってきて、作ってあげるっ」
マキがあんまりニコニコして嬉しそうに言うので、レオンはあらためて良心が疼くものを感じた。あの大晦日の夜――自分は相当ひどいことを言った。それを、忘れているはずなどないのに。
「いや、いいんだよ。君貴からマキは、月曜から土曜まで、暴力的な経営者に朝から晩まで働かされてるって聞いたんだ。そいつはヤクザみたいな奴で、部下に有給休暇を与えることさえなく、法の目をかいくぐってるとかって……」
マキはここで、思わず大きな声で笑ってしまった。どうやら情報の伝達に、誤解があるようだ。
「えーっと、まあ、社長はちょっと、顔が軽くコワモテ風って気がしなくもないけど……日本じゃ、小さな会社だと有給休暇を取れないなんて結構普通だったりするのよ。朝から晩までって言っても、朝の八時四十五分くらいから、夕方の六時くらいまでってことよ。本当は五時半で終わりなはずなんだけど、結局六時くらいまで会社にいて、その分の残業代なんて出ない、みたいなね」
「そっか。確かに、花屋で働いてるって聞いたのに、変だなとは思ったんだ。でも、訴えたりしないの?他の従業員と結託して、ストライキ起こすとか……」
「う~ん。まあ、日本はそういうことより、人情が上に来ちゃってダメなのかな。小さな会社だから、従業員同士助けあわなきゃいけない分、割と仲がよくて、人間関係に軋轢とかもないし……わたしね、割と事務所でひとりで仕事してることが多いの。だから、大して人目を気にせず自分のペースで働けるし、そういう意味では週に一回しか休みがなくても、まあ仕方ないかなっていうか」
ここまで話すうち、マキはだんだん何かが恥かしくなってきた。自分は世界のレオン・ウォンに対して、何故こんなしみったれたことばかり話しているのだろう?
「じゃあ、その間、子供は?どこかの施設に預けてるってこと?」
「え~っとね、うちの花屋の裏に、花屋の経営者さんのおうちがあるのね。で、そこの娘さんが去年だったかな……離婚して実家に戻ってきたの。今、六歳の息子さんがいるんだけど、わたしが仕事してる間貴史のことを見てもらって、十時休み、十二時休み、三時休みとかちょくちょく見にいって、向こうでも何かあったらすぐわたしのこと呼んでくれるし……だから、こんな恵まれた環境、ちょっとないくらいなの」
「そうなんだね。だけど、その人だって毎日ってわけにもいかないんじゃない?僕、暫くの間ならマキに色々習って貴史の面倒を見ようかなと思って来たんだけど……」
(アユミちゃんが用事でいない時は、専務が代わりに見てくれるから大丈夫なの)という言葉は、マキの喉から出てこなかった。代わりに「ええっ!?」という、驚きの声しか洩れない。
「そのために、仕事とか色々整理してきたんだ。それでも、雑誌の取材とかインタビューとか、少しはあるんだけどね。断ろうと思ったら、向こうから、それなら東京のスタジオを押さえてもいいって言われて……それならまあいいかと思ってね」
「でっ、でもそんな……わたし、よくわからないけど、コンサートとか色々あるんじゃない?そりゃ、レオンさん……じゃない。レオンの気持ちは嬉しいけど……」
「うん。ピアノのほうはね、なんか僕、最近調子悪いんだ。だから、少し休もうかなっていうのは前から思ってたことだしね。まあ、マキにとっては迷惑か。第一、確かに考えたらおかしなことだもんね。君貴の子を、ゲイの恋人の僕が面倒みるとかいうのも……」
レオンがしょんぼりしているのを見て、マキは胸がきゅんとした。それは恋愛における胸キュンというより、女性が母性本能をくすぐられた時の胸を締めつけられる感覚だった。
「えっと、わたしはべつにいいんだけど……っていうか、むしろ助かるくらいではあるけど、なんていうか、『もう飽きた』とか『疲れた』、『嫌になった』と思ったら、正直にそう言ってね。君貴さんなんて、ここに来るといつもなんかビクビクしてるくらいなの。火中の栗を拾うっていう諺の意味じゃなくて、ほんと、貴史に対して焼けた栗でも抱っこしてるみたいに、『一体どうするんだ、こんなものっ』ていう感じで接してるから」
「あいつ、絶対頭おかしいよね」
レオンはくすりと笑って言った。鶏肉料理やボンゴレ・スパゲッティ、海鮮サラダなど――マキは本当に美味しそうに食べていた。口に合わなかったどうしようと心配していたのだが。
「だって、そうだろ?自分の子供が出来たっていうのに、ここに来るのなんか月に一回とかそこらだって聞いたもんだからさ。むしろ、僕のほうが貴史に会ってみたくて仕方ないくらいだったんだ。そりゃまあね、あいつがそんな感じであればこそ、僕らの仲も続いてるのかもしれないけど……」
「い、いいのよっ。確かにわたしも、そういうことはたまーにちらっと思わなくもないんだけど……どうしても産みたいって言ったのはわたしのほうなんだし、こんな立派なマンションにもただで住まわせてもらえて、感謝しなくちゃって思ってるくらいだし」
「感謝だって?」
レオンの顔が一瞬厳しくなるを見て、マキはドキリとした。
「そんなの、むしろ当たり前じゃないか。そういやあいつ、変なこと言ってたよ。子供は平均ひとりにつき、オムツ交換が六千回必要らしい。当分に分けるとしたら、俺がそのうちの三千回を担当せねばならんところだが、マキにすべて押しつけてるわけだから、母子のためにいい住居を用意するのは当然の役目だとかなんとか。馬鹿じゃない?ようするにあいつは、そうすることで痛む自分の良心を金の力で誤魔化そうとしてるだけなのさ」
「そうよねえ。その言い方、まさしく君貴さんそのものだわ。でも、あの人がそんな感じの人だから、わたしもついなんか色々許しちゃうのよね」
レオンもくすりと笑った。それから、「わかるよ。僕も一緒だから」と彼は優しく言った。
マキが食事の後片付けをしようとすると、レオンが止めた。「いいから座ってなよ」と言って、立ち上がろうとするマキのことをもう一度座らせる。
「僕はそのために来たんだよ。あいつが父親としてあまりに不甲斐ないから……君貴の話を聞きながらマキや貴史の心配をしてるより、実際に自分の目で見て手伝ったほうがよっぽどいいと思って」
「…………………」
とはいえ、レオンのこうした手助けについては、マキは慣れるまでかなり時間がかかった。この日の夜に関していえば、レオンがずっと貴史のことを見てくれたので、マキは久しぶりにぐっすり眠った。ミルクについては、哺乳瓶の煮沸消毒の仕方その他、粉ミルクの作り方を伝授しておいたのだが――「わからないことがあったら、すぐ起こしてくれていいから」と言っておいたとはえ、どうやらレオンは最後までひとりで頑張り通したらしい。
「だ、大丈夫、レオン?」
マキは、彼の目の下にクマがあり、昨夜ずっと眠れなかったらしいのを見てとっていた。にも関わらず、自分のためにオムレツその他、朝食を用意してくれているのを見て――彼女としてはただ感動するばかりだったといえる。
「う、うん。ママっていうのは、ほんと大変だね。きのうの夜、深夜の三時ごろだったかな。急に泣きだしたんだけど、オムツもなんともないし、ミルクもあげたし……他にどうしていいかわかんなかったから、とにかくひたすらあやしてるうちにようやくのことでまた寝てくれたっていうか」
「ありがとう、ほんとに……ほら、もうベッドで横になって休んだほうがいいわ。貴史のことは職場のほうに連れてって、いつも通り専務のおうちのほうで見てもらおうと思ってるから」
「いや、僕が見るよ。コツならきのうの夜に掴んだ……と、思う。たぶん。そりゃ、マキにしてみたらこんな赤の他人が突然やって来て、大丈夫かっていう感じだろうけど、何かあったらすぐ連絡するし……」
「ええ。もちろん、そうしてもらえるのはわたしとしてもありがたいんだけど……」
(本当にいいのかしら?)と、マキが迷っていると、レオンはついうっかり口を滑らせてしまった。睡眠不足のせいで、理性による記憶の締めつけが緩んでしまったのかもしれない。
「ほら、僕……赤ん坊の時に母親に捨てられてるもんだからさ。こんなに大変なら、そりゃ育児ノイローゼにでもなって子供を捨てもするよなって思ったんだ。そういうこと考えてたら、なんか……」
マキは胸の奥がじんと痛くなり、思わずレオンのほうに近づくと、彼の頬にチュッと口接けた。このあと、貴史がすぐ泣きはじめたため――「今いきまちゅよ~」と言いながら、マキは子供部屋のほうへ向かった。まずは赤ん坊に乳をやり、それから貴史のことを連れてくると、あやしつつ、立ったまま食事をする。
「やっぱり、一番いいのはママだよな。きっとわかるんだよ。『こいつなんかママじゃないのに、人工の乳首なんかでオレを騙そうとしやがって』みたいに。それがきっときのうなかなか泣きやまなかった理由じゃないかな」
「ううん。そんなこと、これまでにも何回となくあったわ」
マキは優しく微笑みながら言った。レオンが仕事をセーブしてまでここへ来たのは、彼なりに理由があってのことなのだろうと、初めて理解していた。
「君貴さんなんて、なんて言ってたかしら?ええとね……赤ん坊は専制君主なんですって。だから自分の親のことは、言うこと聞くのが当然の家来とでも思ってるんじゃないかとかなんとか。『だが、俺は絶対王制には絶対屈しない』とか、変なこと言ってたわ」
「あいつらしいや」
そう言って、レオンも笑った。マキから貴史のことを受けとり、彼女には座って食事をしてもらうことにする。
「なんか悪いわね。わたし、毎日朝は立ったまま食事するのが当たり前みたいになってるのよ。で、きのうの残り物をチンして食べるか、ベーグル一個にミューズリーに牛乳ぶっかけて食べるとか、何かそんな感じ。あとは急いで支度して出勤するっていうね」
「そりゃ大変だな。明日からも、朝食は僕が作るから安心していいよ。あと、買い物ってここ、どこらへんに行けばいいのかな。食材がないと、僕も夕食作れないし……」
マキはまた、胸の奥のほうがじんと痛くなった。君貴など、ここへ来ても家事の手伝いなどほとんどしたことはない。つまり、簡単にいえば(一体何しに来たのかしら、この人)状態だったわけだが、マキは彼が「来てくれた」というだけで、そのことを神の訪れのように有難がっていたというわけだった。
「ええとね、一応ネットスーパーなるものがあって、うちは週二回来てもらってるんだけど……ここ、静かでいいとこなんだけどね、スーパーとかちょっと遠いのよ。だから、仕事帰りにどこかで買ってくるしかないんだけど……」
「駄目だよ!仕事したそのあとに、子供抱えて買い物なんて重労働じゃないか。マキ、次の日曜、その一番近いところにあるスーパーに僕を連れてってよ。朝、買ってきて欲しいものがあったら、僕が買ってきておいてあげる」
(本当に、いいのかしら?)と思いつつ、マキはこの日、抱っこ紐なしで久しぶりに出勤し――(ドラゴンボールの修行後みたいだわ……)などと思ってしまったくらいだった。肩がまず重くない。貴史がありえないところでありえない瞬間に突然泣きだすという不安や恐怖もない。もちろん、レオンは本来ならピアニストとして忙しい身の上だし、そう長くこんな日は続かないだろうとは思った。けれど、ほんの三日か一週間だけでも……子供を代わりに見てもらえるだけで、マキにとっては心の底から有難いことだったのである。
もっとも、「少しの間、遠い親戚の人が見てくれることになって」などとマキが専務や亜由美に言うと、彼女たちは妙にがっかりしていたものだった。花屋の従業員たちにも、貴史は何故か絶大な人気があり――それが社交辞令でないらしいことは、マキにもはっきり見てとれるくらいだったのである。
ところでこの日、レオンが(パンティまで洗って干すのはさすがに失礼かな)と迷い、(マキが帰ってくる前に、乾かして片付けておけばそうでもないぞ)と決断し、ドラム式洗濯機の中へマキのパンダ柄のパンティを放り込んだ時のことだった。ピンポーンとインターホンが鳴った。
見ると、壁に備え付けられている小型ディスプレイのところに、宅配の制服を着た中年男が立っている。レオンはこの時、マキの言っていた「ネットスーパーの人」なのではないかと思った。そこで、電気錠を解除し、中へ入ってもらうことにした。
彼は、ネットスーパーの配達人ではなかった。ただ、縦長のダンボールをレオンに手渡し、サインを求めてきた。レオンは「マキ」と受領印のところに書いていたが、配達人のほうではそれで納得したようだった。そのあと、レオンは「そういや、マキって苗字なんていうんだっけ……」と疑問に感じつつ、ダンボールを開けた。大して問題ないだろうと勝手に判断してのことである。
だが、この時レオンはそのダンボールの中身を見てハッとした。黄色いシンビジューム――その瞬間、何故玄関口から続く廊下に、こんなにもズラッと蘭の花が並んでいるのか、レオンはその意味を理解したのだ。
「入江健……?まあ、中国人ではないよな。たぶん、日本人に多い名前で読むとすれば、イリエ・タケルとか?」
だがこのあと、住所の末尾のほうに「ケン・イリエ建設エンジニアリング」とあるのを見て――レオンは名前の読みがわかった。花のメッセージ・カードのほうには、「いつも綺麗な花をありがとう。これは、ほんのお礼です」とある。
「なんだ、こいつ……もしかしてマキのことを口説いてるのか?」
レオンはこの時、胸の奥に奇妙な苛立ちを感じた。それから、自分でも不思議になる。確かによく考えてみれば、貴史のことを妊娠中も出産後も――君貴の様子から見て、マキとはそうした関係にないようなのである。彼自身、『マキはもう聖母マリアだ。俺は赤ん坊がマキの子宮から出てくるところを見たってわけじゃないが、もうそういうふうにはあいつを見られない』と言っていたような記憶がある。
(そうか。そう考えたら……もしかして、次の恋に進むっていうことが、マキにとってもいいことなのか?)
にも関わらず、レオンは何故かがっかりしている自分に気づいていた。どうしてなのか、彼自身よくわからない。第一、マキが他の男と恋に落ち、もしその男が貴史のことも込みで彼女のことを心から愛しているのだとしたら――君貴はもう、完全にマキに対する興味を失うだろう。
(そうだ。なんでか知らないけどあいつは、マキがヴァージンで、自分のことしか知らないってことに、異様なくらい拘ってたものな……)
マキはマキで、ひとりの女性としてそのほうが幸せになれることだろうし、そうすれば君貴はもう一度レオンひとりのものになる。それがもっとも望ましい形であるはずなのに、何故かレオンはこの時しっくりこないものを感じていた。
(なんでだろうな?まあ、いいや。どういうことなのかは、マキが帰ってきてからきちんと聞けばいいか)
この時、貴史が再び声も高らかに泣きはじめた。レオンは大好きなブルース・リーの真似をして、「あちょう!」と言いながらダンボールを叩き潰すと、彼にとっても可愛い息子のような赤ん坊の元へ向かった。「今いきまちゅからね~」と、マキの声の物真似をしながら……。
>>続く。