(前日からの続き)
みんな、どこどこの出身とか、何歳である
とか、経験がどうであるとかいいますね。
いいますけれども、そういうものは全然
神様は頓着しない。
みんな自分の流れから出てった子どもたち
でしょ。
みんな浄化をしてゆく役割を持ってる人
ですよね。
皆そうです。
そこをまちがうと大変です。
あの人は経験が浅いから、そんなことは
とてもできないだろうとかね。
誰が決めるんでしょうねえ、そういうことを。
そんなことは決めちゃあいけないんですよ。
流れというものがあるでしょ。
気の流れというものがね。
その気の流れというものはね、時に乱暴な
ことしますよ。
この人にやらせときゃまちがいない
というものをね、何をまかりまちがったか、
全然無神経な無責任なね、一見そう見える人に
任せて、もう会が滅茶苦茶になっちゃうとかねえ、
仕事が滅茶苦茶になっちゃったとか、
ブツブツ言うような事が出てきたりしますよ。
本当はああいう人に任せときゃとか
思いますよ。
ところが、そういう事を通して神様という
のは、いろんな難しい人間の複雑な気持ちの
有様(ありよう)だとか、それから人との
付き合い方とかね、いわゆる人生の苦労
というものを味あわせる。
この世に生きてる限りはやっぱりどこか
皆人生苦労しますでしょう。
また、苦労しなきゃ駄目なんだよ。
苦労しないとねえやっぱり。
すっといって良かった良かった
めでたしめでたしだと、何の深い喜びも
湧いてこないということになりましてね。
あるいは、いろいろ悩みを持って
来られたってね、その経験がなかったら
分からないということになりましてねえ。
この何とかという本の中に五井先生が
こう書いてますから、それ読んで下さい、
私は分かりませんなんてことになる。
それじゃあ困るんですよ。
確かにね、来られてどうしましょうと
言われた時に、それは五井先生と呼んで
下さるのはいいけどね、その人は五井先生
よりも、あなた方の智恵を借りたい。
まず目の前にいる生きているあなた方の
そういう言葉を通して、何かすがりたい
訳でしょ。
ところがここに書いてありますって、もう
オロオロしちゃって本持ってくる。
持って来て下すって構いません。
その本から光が出てるんだからそれで
いいんだけど、やっぱりあなた方の言葉で、
あなた方の流れで、あなた方がこうと思う
ことを自信をもって言うというところまで、
自分を高めていってはじめてね、言葉も
生きるし、光も満ちてくる。
それができなきゃ駄目なんです。
講師とかね、それから、お浄めをする人たちと
いうのはね、我々ずれがというのは困る。
その我々ずれを動かしてるのは神様
なんですよね。
我々ずれがと言っちゃうと、神様ずれがに
なっちゃう。
神様をね、低くみることになっちゃうんです。
しかし、そうじゃない。
やっぱり我々ずれの内容は未熟でも、一所懸命
やればね、そこへ神様の光がいく。
そして、ああ、あの人はあの先生は親身になって
私のことを考えてくれた、何だかこう生きる
勇気が湧いてきたとか、あそこへ悩みを
置いてきてよかったとか。
あとはお任せですよ。
そこのところが皆もう一つ自信がもてない。
私というものに把われたら、それはそう
なりますよ。
絶対にそうなる。
私はね、把われるものがなかったね。
おもいは神様だけでしょ。
神様がいいようにして下さるんだから、
この世の中で皆が悪いと思うことでも、
ああと思うようなことでも、あっこれは
と思ったら、やっぱりその通りにしましたよ。
それはいろんな相談が来るから、
ああいやだなと思うことありますよ。
思うけどすっとそれが短く消える。
何故かというと、私がやるんじゃないと
思うもの。
いつも言うように、私は場所だと思うのね。
だから、五井昌久個人から智恵が出るんじゃ
ないんです。
私は場所でカラッポになってて、そこへ
空海さんだの親鸞さんだの法然さんだの
キリストだの、皆降りてきて下さって、
そこで私が、その人たちに智恵の言葉を
語るんですよね。
私は語らせてもらってるんですよね。
(つづく)
みんな、どこどこの出身とか、何歳である
とか、経験がどうであるとかいいますね。
いいますけれども、そういうものは全然
神様は頓着しない。
みんな自分の流れから出てった子どもたち
でしょ。
みんな浄化をしてゆく役割を持ってる人
ですよね。
皆そうです。
そこをまちがうと大変です。
あの人は経験が浅いから、そんなことは
とてもできないだろうとかね。
誰が決めるんでしょうねえ、そういうことを。
そんなことは決めちゃあいけないんですよ。
流れというものがあるでしょ。
気の流れというものがね。
その気の流れというものはね、時に乱暴な
ことしますよ。
この人にやらせときゃまちがいない
というものをね、何をまかりまちがったか、
全然無神経な無責任なね、一見そう見える人に
任せて、もう会が滅茶苦茶になっちゃうとかねえ、
仕事が滅茶苦茶になっちゃったとか、
ブツブツ言うような事が出てきたりしますよ。
本当はああいう人に任せときゃとか
思いますよ。
ところが、そういう事を通して神様という
のは、いろんな難しい人間の複雑な気持ちの
有様(ありよう)だとか、それから人との
付き合い方とかね、いわゆる人生の苦労
というものを味あわせる。
この世に生きてる限りはやっぱりどこか
皆人生苦労しますでしょう。
また、苦労しなきゃ駄目なんだよ。
苦労しないとねえやっぱり。
すっといって良かった良かった
めでたしめでたしだと、何の深い喜びも
湧いてこないということになりましてね。
あるいは、いろいろ悩みを持って
来られたってね、その経験がなかったら
分からないということになりましてねえ。
この何とかという本の中に五井先生が
こう書いてますから、それ読んで下さい、
私は分かりませんなんてことになる。
それじゃあ困るんですよ。
確かにね、来られてどうしましょうと
言われた時に、それは五井先生と呼んで
下さるのはいいけどね、その人は五井先生
よりも、あなた方の智恵を借りたい。
まず目の前にいる生きているあなた方の
そういう言葉を通して、何かすがりたい
訳でしょ。
ところがここに書いてありますって、もう
オロオロしちゃって本持ってくる。
持って来て下すって構いません。
その本から光が出てるんだからそれで
いいんだけど、やっぱりあなた方の言葉で、
あなた方の流れで、あなた方がこうと思う
ことを自信をもって言うというところまで、
自分を高めていってはじめてね、言葉も
生きるし、光も満ちてくる。
それができなきゃ駄目なんです。
講師とかね、それから、お浄めをする人たちと
いうのはね、我々ずれがというのは困る。
その我々ずれを動かしてるのは神様
なんですよね。
我々ずれがと言っちゃうと、神様ずれがに
なっちゃう。
神様をね、低くみることになっちゃうんです。
しかし、そうじゃない。
やっぱり我々ずれの内容は未熟でも、一所懸命
やればね、そこへ神様の光がいく。
そして、ああ、あの人はあの先生は親身になって
私のことを考えてくれた、何だかこう生きる
勇気が湧いてきたとか、あそこへ悩みを
置いてきてよかったとか。
あとはお任せですよ。
そこのところが皆もう一つ自信がもてない。
私というものに把われたら、それはそう
なりますよ。
絶対にそうなる。
私はね、把われるものがなかったね。
おもいは神様だけでしょ。
神様がいいようにして下さるんだから、
この世の中で皆が悪いと思うことでも、
ああと思うようなことでも、あっこれは
と思ったら、やっぱりその通りにしましたよ。
それはいろんな相談が来るから、
ああいやだなと思うことありますよ。
思うけどすっとそれが短く消える。
何故かというと、私がやるんじゃないと
思うもの。
いつも言うように、私は場所だと思うのね。
だから、五井昌久個人から智恵が出るんじゃ
ないんです。
私は場所でカラッポになってて、そこへ
空海さんだの親鸞さんだの法然さんだの
キリストだの、皆降りてきて下さって、
そこで私が、その人たちに智恵の言葉を
語るんですよね。
私は語らせてもらってるんですよね。
(つづく)