宇宙(そら)は家

宇宙(そら)へ還ろう! 
五井先生は、両手を
広げて待って
いらっしゃいます。
(リンクフリー)

神の子について(3)

2023-03-16 10:07:40 | 祈り
      (前日からの続き)
みんな、どこどこの出身とか、何歳である
とか、経験がどうであるとかいいますね。
いいますけれども、そういうものは全然
神様は頓着しない。
みんな自分の流れから出てった子どもたち
でしょ。
みんな浄化をしてゆく役割を持ってる人
ですよね。
皆そうです。
そこをまちがうと大変です。
あの人は経験が浅いから、そんなことは
とてもできないだろうとかね。
誰が決めるんでしょうねえ、そういうことを。
そんなことは決めちゃあいけないんですよ。
流れというものがあるでしょ。
気の流れというものがね。
その気の流れというものはね、時に乱暴な
ことしますよ。
この人にやらせときゃまちがいない
というものをね、何をまかりまちがったか、
全然無神経な無責任なね、一見そう見える人に
任せて、もう会が滅茶苦茶になっちゃうとかねえ、
仕事が滅茶苦茶になっちゃったとか、
ブツブツ言うような事が出てきたりしますよ。
本当はああいう人に任せときゃとか
思いますよ。

ところが、そういう事を通して神様という
のは、いろんな難しい人間の複雑な気持ちの
有様(ありよう)だとか、それから人との
付き合い方とかね、いわゆる人生の苦労
というものを味あわせる。
この世に生きてる限りはやっぱりどこか
皆人生苦労しますでしょう。
また、苦労しなきゃ駄目なんだよ。
苦労しないとねえやっぱり。
すっといって良かった良かった
めでたしめでたしだと、何の深い喜びも
湧いてこないということになりましてね。
あるいは、いろいろ悩みを持って
来られたってね、その経験がなかったら
分からないということになりましてねえ。
この何とかという本の中に五井先生が
こう書いてますから、それ読んで下さい、
私は分かりませんなんてことになる。
それじゃあ困るんですよ。
確かにね、来られてどうしましょうと
言われた時に、それは五井先生と呼んで
下さるのはいいけどね、その人は五井先生
よりも、あなた方の智恵を借りたい。
まず目の前にいる生きているあなた方の
そういう言葉を通して、何かすがりたい
訳でしょ。
ところがここに書いてありますって、もう
オロオロしちゃって本持ってくる。
持って来て下すって構いません。
その本から光が出てるんだからそれで
いいんだけど、やっぱりあなた方の言葉で、
あなた方の流れで、あなた方がこうと思う
ことを自信をもって言うというところまで、
自分を高めていってはじめてね、言葉も
生きるし、光も満ちてくる。
          
それができなきゃ駄目なんです。
講師とかね、それから、お浄めをする人たちと
いうのはね、我々ずれがというのは困る。
その我々ずれを動かしてるのは神様
なんですよね。
我々ずれがと言っちゃうと、神様ずれがに
なっちゃう。
神様をね、低くみることになっちゃうんです。
しかし、そうじゃない。
やっぱり我々ずれの内容は未熟でも、一所懸命
やればね、そこへ神様の光がいく。
そして、ああ、あの人はあの先生は親身になって
私のことを考えてくれた、何だかこう生きる
勇気が湧いてきたとか、あそこへ悩みを
置いてきてよかったとか。
あとはお任せですよ。
そこのところが皆もう一つ自信がもてない。

私というものに把われたら、それはそう
なりますよ。
絶対にそうなる。
私はね、把われるものがなかったね。
おもいは神様だけでしょ。
神様がいいようにして下さるんだから、
この世の中で皆が悪いと思うことでも、
ああと思うようなことでも、あっこれは
と思ったら、やっぱりその通りにしましたよ。
それはいろんな相談が来るから、
ああいやだなと思うことありますよ。
思うけどすっとそれが短く消える。
何故かというと、私がやるんじゃないと
思うもの。
いつも言うように、私は場所だと思うのね。
だから、五井昌久個人から智恵が出るんじゃ
ないんです。
私は場所でカラッポになってて、そこへ
空海さんだの親鸞さんだの法然さんだの
キリストだの、皆降りてきて下さって、
そこで私が、その人たちに智恵の言葉を
語るんですよね。
私は語らせてもらってるんですよね。
             (つづく)

神の子について(2)

2023-03-15 08:05:26 | 祈り
      (前日からの続き)
神の子というものはね、皆が神の子に
なっちゃえば、迷いがないんですよ。
迷う必要がないんです。
だけども迷いますね。
世の中に生きてる以上はね。

ただ何度も言うようだけれども、肉体を
持ってる我々自身を我々だと思ってしまうと、
迷うんですよ。
だから、迷ったり悩んだり悲しんだり
寂しくなったり、いろんな事がありますよね。
あるけれども、しかし、それが自分だと
思う心をちょっと横に置いて、本当の自分は
どこだろうと訪ね求める。
それが祈るということなんですけれども、
訪ね求めてずっと旅をして行くと、そこに
神様がいらして、そうして、神様に
愛されてる子どもである自分というものが
でてくる。
そして、その喜びで一杯になり祈りで一杯に
なってる時に、自分というものが消えて、
光だけになって、そこにただある。
あるいは、自分というものをなくして、
無になって、一所懸命何かやっている。
そこに神様の生命が深く働いてゆく。
その時、皆神の子なんです。
           (つづく)

神の子について(1)

2023-03-14 06:34:17 | 祈り
神様というもの、それから神の子という
もの、これはもう切り離せない。
聖書やお経なんか読んでも、仏子とか
神の子とか書いてあって、何となく
分かりにくいけれども、くだいて言えば、
皆平等に誰一人として違うということなく、
神様の子どもなんだということですね。
その神様の子どもというのはどういう
ことかといいますと、神様から流れてくる
絶えることのない生き通しの生命という
ものを受けて、働く生命なんだということ
ですね。
           (つづく)

我らのふるさと(2)

2023-03-13 12:55:48 | 祈り
      (前日からの続き)
ところで、私たちは、生まれていろんな所を
ふるさとにもっているんだけれど、で、
ふるさとを離れて過ごしている人もたくさん
いるんだけれども、私のふるさとは何か
というと神ですねえ。

神への郷愁という本を書いたけれどもね、
これはもう変わることのないふるさとですね。
神様というのはね、これはもうとてつもなく
大きな愛でしょう。
で、その愛というのは高くて、そうして
もう何ともいえない安心感、ここへ帰って
いけば間違いないですよ。
絶対に間違えっこないんです。
だから、私たちは安心して文句も言えるし、
恨み言も言える。
とにかく神様なんだから。
しかし、我々はそこへ帰るということ
だけではなくって、そこへ出発点にしてね。
そこがふるさとなんだということ、我々は
神のふるさと人なんでね。
原稿にも書いたけどさ。
そのふるさと人である我々が神様という
ふるさとから出発して、いろいろな所へ光を
撒いてるんだということねえ。
そうして、エネルギーが切れたらそのふるさとへ
戻ってね、神様お願いしますといって、祈って、
そして、光をもらってね、また働く。
こんないいことはありませんねえ。

このふるさとはなくならないですよ。
例えば、日本では、あるいは世界だって、
今土地が狭くなって、海を埋めたりとか
やってますでしょ。
新しい都市ができて街ができて、そこへ
移り住んでやってるけれども、そのふるさと
というものはね、ある時ダムに沈んだり、
いろんなことが重なって、そのふるさとの原形
そのままというのはなくなりますよね。
ところが、このふるさとはなくならないんだね。
このふるさとはなくなりっこないんです。
これは我々の魂の元の元ですもの。
神様というのはそうですよ。
我々の元の元でしょ。
その元はなくなりっこないんです。

我々の生命だって、ずっと生き通しだと
いうのは観念論じゃないんです。
本当にずっと我々は抱かれてゆくんですけど、
それはこの神様というふるさとをもってれば
こそね、我々はそういうものを実感する
ことができる。
あたたかいんですよね。
とてもあたたかい。
ちょうど私の母の絶対の信頼のようなね、
そういうあたたかさですね。
それがあるから、それを自分の体の中に貫いて
見ちゃったから、私は本当の私に出会っ
ちゃったから、だから、私はあなた方に
自信をもってね、間違いのない世界が神様
という世界があって、大きな愛があって、
それによって我々が生きているんだという
ことを語りつぐことができる。
これは間違いのない事実ですね。
それは五井昌久だけにあるんじゃない。
皆の中にあるんですよね。

そういう信仰は、五井先生だけで五井先生
ならではだと皆言うけれど、そうではない。
奈良とか京都じゃないんです。
皆が同じふるさとをもっていて、そして、
そのふるさとが絶えることがなく我々の中に
あり、我々が帰ろうと思えば、そこへ
いつでも帰ることができる。
そこを思えばね、我々のエネルギーも
何もかも新たにされていくということ
ですよね。
そこを忘れてというか、忙しくなっちゃうと
皆この世の中だけになっちゃうけど、その
ふるさとへ帰ろうと思えば祈ればいいん
ですからね。
祈って、そして、神様の名を呼んでね、
守護霊さん守護神さんの名を呼んでねえ、
やってる時にはあなた方はもうふるさと人
ですよね。
ふるさとへ帰ってる訳ですよ。
いつでも帰れる。
いつでも癒してもらえる。
そういうものを我々は皆もってるんですね。
だから、この我々の宝というもの、
朽ちることのないふるさと、神様という
ものを大事にして呼びかけて、そして、
皆が神様の愛を受けた子どもなんだ
ということを覚えてね、毎日毎日が
過ごせてゆけるように、どうぞ精進なすって
下さい。
       昭和63年8月26日

我らのふるさと(1)

2023-03-12 08:50:55 | 祈り
この間はお盆でね(講話当時)。
たくさんの人がふるさとへ向かって、
ひかり(当時)や飛行機などを使って
大移動をしましたよね。
毎年毎年あれをやるんだね。
何故、ふるさとへ向かって人間は
帰るのかなあと思うけれどもね。
なつかしいんですよね。
やっぱり、自分の生まれたところ、育った
ところ、そして、自分を快く迎えてくれる
ところ、飾りがとれるところ、それが
ふるさとでしょうねえ。

私も、新潟と東京と両方ふるさとをもち
ましたけどね。
どっちもいいですね。
私は、私の生きていた時はねえ、母の中に
やっぱりふるさとを見てましたね。
小っちゃい母でしたけどね。
いつもニコニコして、私のすることに絶対の
信頼をおいてくれてね。
あれは有り難かったねえ。
あれがなかったら、私は修行出来なかったんじゃ
ないだろうかしら。
そう思いますよね。
他の人が、五井さんどうかしたんじゃないか
とかね、気がちがったんじゃないかとかね、
いろいろ言っても、まあ心配そうな
顔しましたよ、ですけど、絶対に信じてくれた
ものね。
昌久が変なことする訳はない、絶対大丈夫だと。
だから私はやれたんだなあ。

そういう母親の信頼というものをね今
思い返してみると、これがやっぱり、神様の
愛に通じるなあと思いますねえ。
何やっても神様というのは許して下さる。
例え神様なんていないなんて悪口言ってもね、
やっぱり大きな愛情で抱きとって下さる。
揺ぐことがないんですよね。
母親の愛と同じだねえ。
あるいは、父親もそうですよね。
親の愛でもいっしょですよ。
やっぱり、そういうことが基盤になってますね。
そういうのを我々はふるさとに求めるんじゃ
ないでしょうか。
絶対に裏切られないもの。
よく人が死ぬ時が近くなると、生まれた所へ
帰って死にたいとか言いますでしょう。
死病にかかった人なんかがね、絶対に
ふるさとの土と空気と山と川、そういう所を
見て死にたいと思いますでしょ。
あれはやっぱり、そういうものに抱かれて
安心して死んでゆきたいという想いが、
自然に湧き起こるからですよ。
それが人間の自然な心というものですね。
         (つづく)