宗像教授異考録---星野之宣
高校生の頃だったか、映画「2001年宇宙の旅」について友人とアツイ議論を戦わしていたら、突然同級生のS君が割り入ってきて、「2001夜物語」という、本家取りした傑作があるのだ! と高らかに言うのであった。読んでみたら、第1巻の最終話に収められた「魔王星ルシファー」のエピソードの圧巻ぶりにくらくらきた。これ、ハリウッドで映画化すればすごいことになるんじゃないの? と本気で思った。
やがて、社会人になって、今度は隣の席の先輩となぜだか「邪馬台国論争」になり、そしたら「ヤマタイカ」というものすごく面白いコミックがあるのだ、と翌日それを貸してくれた。最後に富士山が噴火して「ねぶた」の狂騒が首都圏を蹂躙していくところのカタルシスは、なんだか古来から眠る自分の血が目覚めたかのようだった。そういえば、僕は伊福部昭の音楽も大好きなのである。
そんなわけで、星野之宣という漫画家には、一種畏敬の念を抱いている。当然「宗像教授伝奇考」は全巻揃えていた。
が、続編が始まって、単行本も次々出ていることに全く気付いていなかった。書店で並ぶ背表紙だけ見て、「伝奇考」ではなくて「異考録」になっていることに気付いたのがつい最近。完全にぬかった。
「伝奇考」と同じ題材をもう一度使っていたりしながらも(「隕鉄」や「海彦山彦」など)、「異考録」のほうがオカルティズムが増したような気もする。そのあたりを大胆不敵とするか勇み足とするかは評価が微妙だが、しかし山本勘助をして、たたら製鉄衆のボスであったと仮説をたてたり、語り継がれている巨木建築である出雲大社神殿は、実は闇に消えた別の巨木建築の「穢れなきコピー」であったとするロジックあたりは、面白い着眼点だと関心した(聖徳太子の一族がキリスト教信者だったというのはさすがに・・)。物部氏や秦氏に関する考察はあながち的外れでもないような気がする。
これはあくまでマンガなわけだけれど、民俗学には多分にこういう荒唐無稽さと紙一重なところがある。それがどうしても歴史学型の文部省史学教育カリキュラムにはめこまれにくい。議論の多い近代史の解釈云々の話ではなくて、それ以前の時代にしても、歴史学というのは支配者側の推移を文献資料と発掘調査の積み重ねで迫る学問が中心になるので、口碑や風習から導き出す庶民の生活史みたいなのが相手にされにくい。まして、理系の領域である地球科学や薬学の領域に因果が及ぶような話は、縦割りのセクショナリズムも作用してしまう。
一言で言うと、「『記録』と『記憶』」のどちらをエビデンスとして優先させるかということになると思うのだが、我々が無意識のうちに行うような所作や日常言語、あるいは地名なんかに潜むふかーい歴史なんかは、まさしく「記憶」そのものである。これらの探求に関しては、未だにオカルトやB級雑学といった色眼鏡で見られることが多いのは惜しいと思う。
高校生の頃だったか、映画「2001年宇宙の旅」について友人とアツイ議論を戦わしていたら、突然同級生のS君が割り入ってきて、「2001夜物語」という、本家取りした傑作があるのだ! と高らかに言うのであった。読んでみたら、第1巻の最終話に収められた「魔王星ルシファー」のエピソードの圧巻ぶりにくらくらきた。これ、ハリウッドで映画化すればすごいことになるんじゃないの? と本気で思った。
やがて、社会人になって、今度は隣の席の先輩となぜだか「邪馬台国論争」になり、そしたら「ヤマタイカ」というものすごく面白いコミックがあるのだ、と翌日それを貸してくれた。最後に富士山が噴火して「ねぶた」の狂騒が首都圏を蹂躙していくところのカタルシスは、なんだか古来から眠る自分の血が目覚めたかのようだった。そういえば、僕は伊福部昭の音楽も大好きなのである。
そんなわけで、星野之宣という漫画家には、一種畏敬の念を抱いている。当然「宗像教授伝奇考」は全巻揃えていた。
が、続編が始まって、単行本も次々出ていることに全く気付いていなかった。書店で並ぶ背表紙だけ見て、「伝奇考」ではなくて「異考録」になっていることに気付いたのがつい最近。完全にぬかった。
「伝奇考」と同じ題材をもう一度使っていたりしながらも(「隕鉄」や「海彦山彦」など)、「異考録」のほうがオカルティズムが増したような気もする。そのあたりを大胆不敵とするか勇み足とするかは評価が微妙だが、しかし山本勘助をして、たたら製鉄衆のボスであったと仮説をたてたり、語り継がれている巨木建築である出雲大社神殿は、実は闇に消えた別の巨木建築の「穢れなきコピー」であったとするロジックあたりは、面白い着眼点だと関心した(聖徳太子の一族がキリスト教信者だったというのはさすがに・・)。物部氏や秦氏に関する考察はあながち的外れでもないような気がする。
これはあくまでマンガなわけだけれど、民俗学には多分にこういう荒唐無稽さと紙一重なところがある。それがどうしても歴史学型の文部省史学教育カリキュラムにはめこまれにくい。議論の多い近代史の解釈云々の話ではなくて、それ以前の時代にしても、歴史学というのは支配者側の推移を文献資料と発掘調査の積み重ねで迫る学問が中心になるので、口碑や風習から導き出す庶民の生活史みたいなのが相手にされにくい。まして、理系の領域である地球科学や薬学の領域に因果が及ぶような話は、縦割りのセクショナリズムも作用してしまう。
一言で言うと、「『記録』と『記憶』」のどちらをエビデンスとして優先させるかということになると思うのだが、我々が無意識のうちに行うような所作や日常言語、あるいは地名なんかに潜むふかーい歴史なんかは、まさしく「記憶」そのものである。これらの探求に関しては、未だにオカルトやB級雑学といった色眼鏡で見られることが多いのは惜しいと思う。