読書の記録

評論・小説・ビジネス書・教養・コミックなどなんでも。書評、感想、分析、ただの思い出話など。ネタバレありもネタバレなしも。

完全復刻 妖怪馬鹿

2008年08月07日 | サブカルチャー・現代芸能
完全復刻 妖怪馬鹿---京極夏彦・多田克己・村上健司

 一言で言えば、深夜に果てしなく盛り上がる妖怪オタクの妖怪馬鹿話である。たとえネタが妖怪でなくても、学生時分なんかの、このような延々に話が話を呼んで盛り上がることのカタルシスは誰もが持つだろう。
 逆に言えば、近年、こんな具合に「話がもりあがる」ことって少なくなったなあ。
 
 おしゃべりのもりあがりで思い出したが、昔、学校の教室での休み時間かなんか、めいめいが勝手に騒いだりおしゃべりしているとき、たまたま偶然で全員が発声をやめたタイミングが一致し、瞬間的に静寂が訪れることがあった。これなんかも、妖怪の名前がついていそうなものだけれどなあ。

 話は前後するのだけれど、京極夏彦によれば、現象や観念がキャラクターとして形象を与えられたとき、妖怪は完成するのだそうである。だから、この「教室での一瞬の静寂」のような姿形のない現象に「名前」がついて、それをどこかの誰かが形象化すれば妖怪になるわけだ。

 ただ、妖怪の形成にあたっては「都市伝説」と違って、なんらかの民俗的記憶というか同時代的かつ同地域な背景もまた必要なのだそうで、つまりは「瞬間の静寂」とアナロジーになりそうな「日本の文化」があることが必要らしい。言っていれば妖怪生成のための触媒といったところか。
 たとえば(いわゆるKYの)「空気」なんてのが使えそうだ。「教室での一瞬の静寂」は「空気を入れ替える妖怪」の仕業なのである。「空気を入れ替える」といえば、換気扇だ。転じ転じていけば「その場の気運を入れ替える換気扇」となって、だいぶ妖怪っぽくなってきた。

 「教室での一瞬の静寂」の前後で、何かの気運が入れ替わっているのである。「教室での一瞬の静寂」前にいたはずの誰かがいなくなっているとか、立場が逆転しているとか。セオリーが真逆になっているとか・・

 ・・ライトノベルくらいにはならんかな。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 宗像教授異考録 | トップ | タモリによる赤塚不二夫への弔辞 »