当時(昭和31年)の日本人は、このハンガリー革命をどう見ていたのでしょうか?このことについては、中部大学の小島亮教授の著書『ハンガリー事件と日本』(中公新書 1987年/現代思潮新社 2003年 上の写真です)に非常に詳しく記述されています。同書によりますと、戦火のハンガリーから逃れ出た難民を救済するため、社会党右派の西尾末廣、自由民主党の芦田均らが中心となって「日本ハンガリー救援会」が組織され、救援物資や義捐金を届ける活動が行われたそうです。また中曽根康弘衆議院議員(当時)は、この事件に強い関心を抱き、事件後の1957年にハンガリーを訪問していたそうです。ただし当時の日本政府はソ連政府の支持を得て国際連合への加盟(1956年12月18日に加盟)を果たそうとしていたため、絶対にソ連政府を刺激したくありませんでした。このため日本政府としては上記の救援会活動を支援するようなことは一切しませんでした。また日本社会党や日本共産党などの左派も、ハンガリー国民の蜂起を「社会主義体制への敵対」と見なして著しく冷淡でした。日本共産党が、この事件の12年後に起こったチェコ事件(1968年に起こったソ連軍の旧チェコスロバキアへの軍事介入)ではソ連政府の行動を侵略として糾弾・非難したことを思えば、このような同党の対応は不可解でしたし、少なくない党員・支持者から批判を受けることになります。この時同党の対応を批判した人々(例えば黒田寛一)の中から、後に新左翼として知られるようになる革マル派、中核派、第4インターなどの様々な政治的潮流が生まれました。なお同党自身は、ずっと後の1988年になって、この時の同党の対応は間違っていたと自己批判しています。
このように1956年のハンガリー革命は当時の日本社会にも少なからぬ政治的影響を及ぼしました。