ハンガリー革命はソ連の軍事介入により、ハンガリー国民17,000人、ソ連側1,900人の犠牲者と20万人の難民を生むという惨憺たる結末を迎えました。ハンガリー国民の側に立ってソ連に抵抗したナジ・イムレ首相はソ連側に逮捕され後に処刑されます。このようにハンガリー革命を軍事力で圧し潰したソ連でしたが、さすがにミニスターリンのラーコシを復活させることはできませんでした。ナジ内閣の国務相で比較的改革派であったカーダール・ヤーノシュ(1912年~1989年)を説得して「臨時労農革命政府」を組織させます。カーダール自身、ラーコシの指図によりÁVOに逮捕され手足の生爪を全部ペンチで剝がれるという残虐な拷問を受け、その後終身刑の宣告を受けるという大変な経歴の持ち主でした。カーダールの下で、国民の信頼を完全に失ったハンガリー勤労者党(共産党)は解散し、新たにハンガリー社会主義労働者党(現在のハンガリー社会党)という名称で再編されました。この時から1988年までの32年間、カーダールがハンガリーの最高指導者となります。カーダールは、先ず自分を残虐な拷問にかけたÁVOを解体し二度と復活させませんでした。ソ連の指図に従う気も実際には余り無かったので、市場経済の部分的な導入を図り一種の混合経済体制を構築しました。農民に人気の無かった農地集団化も積極的に進めようとはしませんでした。「ドナウの真珠」の異名を持つブダペスト(上の写真です 注)を観光資源にインバウンドを推し進め西側からの観光客の誘致にも成功しています。こうした施策は一定成功を収め、ハンガリー国民の生活水準は大幅に向上したと伝えられています。一方、ソ連に亡命していたラーコシは二度と祖国に戻ることはできず亡命地で一生を終えます。
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