絵画指導 菅野公夫のブログ

大好きな絵とともに生きてます

HNさんの県展制作2

2012-04-24 | 県展指導
HNさんが、最終段階に入りました。



手前の枯草が入ることで、絵になると思い始めたものです。
これがないと、平凡な川の風景になってしまいます。
テーマを持たせるということは、こういうことです。

この手前の描き方で、絵が緊張したり、間が抜けたりします。
ここが勝負です。今は、やや単調な部分があります。
太さ、細さ、明暗の変化、枯れた葉の大きさ、配置、リズム、
空間の空き方、混ませ方など、をアドバイスしました。
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Fさんの県展制作

2012-04-24 | 県展指導
Fさんが、ここまで描いて見せてくれました。



下塗りは大きく分かれてしっかりしてきました。
これから、枯れ草を細かく描き込んで行きます。
空の中の青さが少しやり過ぎているかなと思います。
青空の青さと、枯れ木の塊の部分の青が似ているので、そこをどうするか、考えています。
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今日の勉強 ボッチチェリー

2012-04-23 | 美術
ボッチチェリーは、なぜ300年間忘れ去られていたのか?

ロレンツォ・デ・メヂチが43歳の若さで死んでしまった。
サボナローラの政治が禁欲主義で、ボッチチェリーの裸の絵などを焼却されてしまった。

そして、忘れられた。

ビーナスの誕生が残ったのは、郊外にあったから。

ミケランジェロのダビデはなぜ壊されなかったのだろう?
サボナローラが死刑になったのが、1498年、ダビデ像は、1504年に作られた。
時代のずれがある。

300年後に、ボッチチェリーが陽の眼を見るのは、イギリスのラファエロ前派が、ラファエロ以前の芸術に注目したため。


今日は、このことを学んだ。
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美術部の作り方3

2012-04-23 | いろいろ
生徒の意欲を高めるには、どのような刺激を与えれば良いかということが重要だ。
描いて見せられる先生というのは、意外と少ないということを感じる。

私の高校時代の古川先生は、生徒の前で30分くらいで油絵を一枚描いて見せてくれる先生だった。あんなに簡単に描けちゃうということに驚き、先生はまるで魔法使いだと思った。

教室に居ながら、外の風景画を描いて見せてくれた。こんなことは、普通の美術の先生にはとてもできないだろう。

それでも私は、古川先生の真似をしてやってみた。これにはくそ度胸が必要である。しかし、やはり難しい。ただ、自分では納得がいかないのに、生徒たちは感心してくれた。古川先生に比べたら全然ダメなのに、それでも生徒たちにとっては、一種の驚きがあるのだとわかった。

「うまく行く日もあれば、行かぬ日もある」などと冗談を言いながら、しかし、続けていると、やりながら上手くなるのを感じる。また、うまく行かない時は、先生でもこのように苦労しているんだよという姿を見せるのもいいかななどと、開き直って続けた。

とにかく、描いて見せるということはとても良い刺激だと思う。

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しかし、私のような専門家は良いとしても、美術の専門家ではない先生が教えるには、そうはいかない。もし、美術の先生だとしても、彫刻が専門だという人は、絵画をこのように描いて示すのは大変だろう。

その場合は、描ける先生を紹介したり、描いている姿が見られるビデオを購入して生徒たちに見せると良い。だが、一般に販売されているものの中には、なかなか描いている姿を撮影したものがない。それで、私は作り始めた。

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もうひとつ、美術部の作り方で、初めのうちに私がやったことは、生徒ととことん付き合うことである。一緒に学ぶという姿勢である。素人の先生なら尚更初心者として自分も学ぶという姿勢が大切だと思う。生徒の気持ちもわかるし、同じ立場で競争するという気持ちで良いと思う。それがお手本になるなら、尚更である。

ただ、必要なのは、その初心者がやるべき内容を的確にアドバイスしてくれる人がいると良い。身近にそのような人がいるなら、一番良いのだが、いないなら、私のような遠隔地にいるものでも可能である。私はそれを通信でしている。

最後は、自分のPRになってしまったけれど、利用できるものは何でも使って、より良い指導を生徒たちにしてほしいと願うものである。

私は、生徒たちととことん付き合うという姿勢で、初期の頃は、東京まで生徒を連れて映画を見に行ったこともある。黒沢監督の「生きる」を見せたいと思った。
人間の生きるということを考えさせたかったからだ。
限られた命の時間。その中でいかに生きるか?
私が作った美術部は、単なるお稽古の美術部ではない。
いわば、心の教育。その手段として絵があったということである。

もちろん、絵は一流のことを教えた。しかし、それ以上に大切なのは、人間教育であった。
その観点からすれば、指導者は素人であっても構わないのだ。












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FNさんの県展制作

2012-04-23 | 県展指導
FNさんが、かなり描き込んで見せてくれました。



もう、ある意味で完成ですねと言いました。

しかし、まだ、人形の立体感が足りません。
物に光が当たるなら、それ自身に明暗ができます。この場合、その明暗の差が他と比べて少ないのです。これは、トイレットペーパーのデッサンと全く同じことですが、物を一つだけ描いているときには、学べないことです。物と物との関係ということですね。

言い換えると、光の統一です。世界を一つにするということです。
幻想的に描くとか、舞台照明のように何かにスポットライトを当てるなどのいろいろな変化をわざと与えるなら、別ですが、自然の光の中で普通の空間を感じさせるには、この光の統一ということが必要になります。

また、他の人の指導でも出てきますが、画家はオーケストラの指揮者のような考え方が必要です。どのパートをどのくらい強めるか、弱めるか。私は、どこはどのくらいしゃべらせるか、黙らせるかという言い方もします。

その辺は、例えば、私はバラの表現が単調だと思います。バラの葉も単調だと思います。
背景の布も単調だと思います。もう少し、細部まで明暗を表現して、複雑さを出して、その後で、しゃべりすぎなら黙らせるという方法をとります。

下に敷いてある布も紙のような薄さを感じます。ほんの少し所々厚みを感じさせる表現があれば違ってきます。表面の柄も微妙に起伏をつくると布らしさが出ます。

また、植木鉢やお皿などの丸さに問題あり。これもトイレットペーパーのデッサンと同じです。目の高さとの関係もあるので、透視図法を頭に置いてほしいのですが、最も基本のデッサンでやったトイレットペーパーのデッサンがここでも関係しているのです。

それらのことをアドバイスしまた。
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