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タイ・ユング旅行  ㉔ タマサート大学日本研究センター訪問後記 -’86 夏ー

2021-01-15 06:41:03 | ランシット
のちほどバンヤット先生をインターネットで検索していたら疋田正博という方が1994年8月に「タイにおける日本語研究」と題して論文を書かれていた。当時の日本とタイとの関係の潮流が垣間見れる。ここではその中のタマサート大学関連の内容を抜粋してコピペをさせていただく。

*******引用*******
歴史的概観
日本とタイの交流の歴史は、400年前のアユタヤ王朝の首都における日本人町にさかのぼることができる。経済関係は、今世紀の初頭にさかのぼることができ、戦中・戦後も日本とタイの関係は、他のアジア諸国と日本との関係よりも良好であった、といえる。
しかし、1960年代から、日本の商品が急激に流れ込み、日本からの企業進出も著しく増加した。そのことへの反発と不安が、経済独立主義の主張となって、タイの知識人・学生の間に広まり、1972年の日本製品不買運動、1974年の田中首相訪タイ反対運動という形であらわれた。
反日運動の原因であった対日貿易不均衡や日本製品の氾濫は、今日いっそう拡大しているが、日本からの巨額の経済援助や進出企業の現地における配慮もあって、近年親日的なムードが続いている。日本のテレビ番組「ドラエモン」「大奥」「おしん」などが人気をあつめ、新聞は日本のことを詳しく報道するようになった。日本語学習もブームと呼ばれるほど希望者が増加してきている。
タイにおける日本語教育は、日本の外務省により、日本研究講座寄贈プログラムとして、日本人教授を派遣して、1965年タマサート大学、1966年チュラロンコン大学において開始された。両大学はタイ国を代表するエリート大学である。そのうちチュラロンコン大学ではいちはやく日本語がメジャー化され、専攻科として独立したため、そこから日本研究者や日本語教師を多数輩出した。その他の大学では、選択科目(マイナー)として教えられていたが、1982年にタマサート大学、1983年にカセサート大学でメジャー化し、続いてチェンマイ
大学でもメジャー化がなされようとしている。

タイにおける日本についての社会科学的関心は、日本タマサート大学教養学部の日本語教育は、日本研究講座寄贈計画で、最初の対象校として選ばれたが、専攻科として日本語科が成立したのは1982年である。タイの専任教員5人と、日本からの派遣教員1人、ほかに非常勤講師が数人いて日本語教育を中心に、日本文学、日本文化を講義している。
同大学の政治学部、経済学部には、日本留学の経験をもつ社会科学の学者が11人もおり日本研究のポテンシャルは高い。これらの日本研究者の活動拠点として、東アジア研究所日本研究センターTheJapaneseStudiesCenter,InstituteofEastAsianStudies)が1981年に設置された。このセンターはタマサート大学の日本研究の活動拠点であるばかりでなく、タイ全体の日本研究の情報センター、トレーニングセンター、交流センターとしても機能することを目ざしている。所長代理はバンヤット・スラカンウィット経済学部助教授である。そのための建物は、日本から11.5億円の供与を得て、同大学の郊外新キャンパスに建設され

課題と展望
歴史的概観で述べたように、タイにおける日本語教育は日本からの寄贈講座として開設されて20年が経過した。その間にタイの大学で日本語を学び、日本の大学院に留学した若い学者が今育ちつつある。
しかしそのうち、日本の研究水準で研究する能力を有するものはごく少数で、第1世代が持っているタイ社会における発言力とインパクトをもつほどには育っていない。また日本関係の大学教員の大部分は教育に忙殺されていて、日本の大学教員のように研究に従事する時間が与えられておらず、サバティカルの時に日本で研究することを強く希望しているが、日本側の招聘プログラムは必ずしも十分ではない。またタイにおいて、英語をマスターしたうえさらに日本語をマスターして研究をするような研究者もほとんどいない。
ということは大変に困難な課題であることは認識しなければならない。各学問分野の少壮の学者が、日本語を完全にマスターしなくてもある程度日本のことも研究できるようなさまざまの手だて、たとえば語彙数の豊富な日タイ・タイ日辞典がないしタイ語や英語による日本研究参考図書なども全く不足している。
したがってタイにおける日本研究の振興のためには、日本側として従来の努力に加えて、日本の有力な学者をより多くタイの大学に長期派遣してタイの日本研究者に刺激を与えること、日本研究者が日本に滞在して研究する機会をふやすこと、タイにおいて日本研究者が共同研究できるよう奨励すること、日本についてのあたらしい研究書やレファレンス用図書の完備した図書館をつくり、日本研究者は誰でも利用できるようにすること、語彙数の豊富な日タイ・タイ日辞典の編纂を急ぐこと、日本語教育のための質の良い中級教科書や教材を開
発し、学習者に安く提供できるようにすること、タイ語による視聴覚資料や劇映画などをより多く提供すること、などが必要である。

タイ・ユング旅行  ㉒バンヤット先生の提言 -’86 夏ー

2021-01-13 12:44:50 | ランシット
 今年2月に私の家に「日本タイ教育交流協会のキムラさんですか?タマサート大学の日本研究センターのバンヤットと申します。」と流ちょうな日本語で電話があった。この日本タイ・・協会とは私が数年前から個人的な思い付きで発足させ細々と活動している組織である。「現在、会員の方は何人ぐらいでしょうか?」と続く。あってなきがごとしの協会なのでこの協会の詳細は別の機会に触れる、と言っておくがバンヤット先生は日本研究センターの所長さんで今回のに訪日の目的の一つが日本にある民間のタイ関係の団体とできれば横のつながりを持つよう当センターもそのための側面援助をしたい、との趣旨であった。身に余るご提案であるが私の側の協会に一言でも語れるようなものもなく今度タイへ行った折に説明させてもらいたい、という段取りになったのである。
 こまごまとした我が協会の活動記録の載ったニュースレターのコピーを携えてドムアン空港近くのタマサート大学ランシットキャンパスを訪れるという事態になったのである。
 ホテルを9時頃に出て当研究センターに着いたのは昼近くになっていた。チャオプラヤーデルタのど真ん中、その水田の赤土を埋め立てた広大な空間である。その敷地にタイ市中どこでも目にするワット(寺院)風の建築物こそがタマサート大学ランシット学者である。その入り口の正面に日本研究センターが位置していた。バンヤット先生はこの時は午後の授業が入っており残念ながらこの昼休みは90分くらいしか対面するチャンスはなかったが先生から学生ランチをいただきながら伺い聞いたことを少し記しておきたい。話の中心はこのセンター設立の経緯についてであった。タイ知識人の間ではこのセンターの設立にはかなり反対があったそうである。ひも付き研究所であり、その役割は日本経済の進出(侵略)の情報拠点化する、という危惧だったそうである。先生によれば半日経済運動が下火になり、「日本とアジアの季節」を謳いあげた福田ドクトリンのアジア重視の外交が打ち出された。その具体化として援助資金が今後何にどのように使われていくのかを注視していく必要があると考えた。援助資金は自分が反対していても誰かのところへ流れて行ってしまう。反対だけしても有効性がない。そうであるならばそれを自分たといで大いに利用しない手はない。そんな考えからセンター作りに関わるようになった、とのことである。
 毎月日本側から予算が送られてくるそうだが、先生によればその予算のタイ部分が日本人学者へ支払う経費に使われるとのこと。先生の給料は約8万円(タイでは高額)、一方、日本人学者へはその10倍が払われるとのこと。この露骨なギャップは日本とタイとの経済ギャップなのであろうが両国の相互の研究にはあまりプラスにはならない感じがした。先生が私に熱っぽくお話しされたことはこうした予算をもっと中等学校レベルの先生や学生生徒間の交流に生かせれないか、という内容であった。日タイ双方の交換制度も考えていきたいというプランも聞かせてもらう。短期間日本から中高校レベルの教師を招へいしタイで日本語履修を行なっているいくつかの高校で日本語を教える。交換としてタイの英語教師が日本で英語を教える、という交換制度の提言である。こうした交換制度を組み立てる場合予算面は当センターやら日本の文部省レベルではことの運ぶ話と思われるがいざ実施となると各都道府県の委員会が一つのネックになる。まず、そこへの働きかけが必要ではないか、ということだった。
 高等教育のことは比較的よく紹介されているが日本の初等中等教育、特に教育現場は殆ど知られていない。このあたりのことを英文論文でまとめて送ってくれないか、という依頼もあった。「来年、4月と9月には日本タイ交流百年記念セミナーを開催します。都合がつけば参加してください。」と最後にお願いがあった。現職で日本の学校の4月は想像を絶する忙しさである・残念であった。
 日本の教育機関の中にも教科指導の中にもこうしたタイを含めたアジア理解を目指した試みや視点はおそらく皆無であろう。臨教審の答申の一つに「国際化」への対応の重要性がうたわれてはいるがその根底のコンテキストは一面的すぎないだろうか。その補完的な意味合いからこうしたバンヤット・プランこそ本腰で導入され行かされるところに「国際化」の原点があるように思うのだが。早く気が付いてほしいものだ。(断章)