知らないタイを歩いてみたい!

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「モン」の村へ訪問する記録

2024-06-21 06:21:46 | ラーブリー
書架を整理していたら、1992年(平成4年)6月14日の国際郵便が出て来た。今から32年前の手紙だ!

差出人は、アンパイ・カッカマンとある。ラーチャブリ、バンポンのパッカド小学校の女性教頭先生からである。アンパイ先生自身もモン族であり、モン文化を保存しようとされている方である。

なんとか、モンについて極めてみたいと現地へ行ったり、資料を集めたり「知」の散歩をしていた頃の手紙である。

内容である。「こんにちは木村さん。元気ですよ。いま、学校もはじまり楽しく勤めてます。日本の天気は最近いかがですか?タイはとても暑い!政治もまた熱い!先月、木村さんもテレビで見たとは思いますが、我が愛する賢明な王の裁定で、突然、事態は好転しましたよ。現在は、アナン・パンヤラチュンというやる気のある首相になりました。

了解です。木村さんの学生とその一行は我が村へお越しください。村の指導者とお寺の住職に交渉します。指導者はサマンさんに折衝しました。彼女は一人暮らしで、地元の役場から表彰をうけるような人物です。

彼女の家には、美和(高橋美和)が修士を取るフィールドワーク中ずっといたとおですよ。現在は、シラパコン大学の先生方がサマンさんの家に滞在して、シリキット王女生誕60周年記念事業として、地方博物館振興事業を進めている。残念ながら彼女の家に泊める部屋が現在ないということ、申し訳ない、tおっしゃってます。

そこで第二の候補地としては、ワット・ムアンはいかがでしょう?サマンさんの家に非常に近い。

現在、お寺の周りでは博物館ホールの建設、橋の建設、火葬場建設などたくさんの事業が進行中である。

日本から来た男性が、修士論文作成のためにお寺に寝起きしている。

住職は皆さんの宿泊を許可してくれるが女性は本堂には泊まれない。よってベットのない台所で寝てもらうことになる。女性には気の毒だ。住職は日にサンドの食事を出してくれる。

第三の場所としては、ワット・ポソパラムはいかがでしょうか?
(以下、手紙が紛失)

1992年7月6日

こんにちは、木村さん、あなたがたご一行が村へやってこられる日を楽しみに待っています。住職に確認しました。ワット・ポソラムに部屋を確保しました。住職は万事準備がととのった、と言っています。まったく心配はいりません。何人来ますか?彼は準備万端だと言ってます。

みなさんは、まず私の家に来てください。村の中で、あなた方の希望する場所へお連れします。それで前もって計画を教えてください。

さて、タイの政治、民主主義は、以前のブラック・メイ悪魔の時代までは後戻りしないと思います。チャムロンが主導する群衆は純粋な力です。彼らは権利を求めて戦ってきた。彼らが戦っている間に、食料、飲み物、テッシュ、紙、兵からの隠れ場をも分かち合ってきた。しかし、後になって悪党の代表者たちが悪い権力を使い、こうした社会を壊してしまった。現在、彼らは取り調べを受けっている。彼らがやったこと、その内容を。

私を訪れる時間が決まったら連絡してください。地図の上のガソリンスタンドの所で待つことにします。では、
楽しみに待っています。<地図>


1992年7月27日

こんにちは、木村さん。
私は元気です。あなたはいかがですか?学生がこの村に来ることを中止したことわかりました。大丈夫です。あなたのご一行を歓迎する準備は整っています。村人にも知らせました。みんな興奮してます。

まず、私の学校でお昼にするのはいかがでしょう?
私たちは週3回、水、木、金曜日は学校で食事を作ります。どうか、8月6日は12時頃に学校に到着してください。バンポンバス停留所で皆さんを待っています。村には公衆電話ありませんので、バンコク出るときに、あのお喋りのパンティップ先生に電話をしてください。英語の先生です。032-21423へ。
訪問することに何も遠慮しないでうださい。すべて準備してあります。まあ、質素な生活かもわかりませんが、幸せを感じるひとときになるでしょう。

バンポンでのスケジュール(8月6日)
12:00学校でランチ
13:00モン村へ出発
13:30私の家に
14:00宿舎となるワット・ポソパバンへ。住職と村の指導者に会う。
14:30メークロン川両サイドのモンのお寺やモンの村を観る。モン語を教えている現場も観る。
16:30シャワーを浴びる。
17:00夕食
18:00村のモンを話題にお話しする。
19:00お寺の御堂で僧侶たちとお経を唱える。
20:00自由時間
21:00お休みタイム

1992年12月20日
木村、お元気ですか?
お寺の御坊さんたちはいつもあなた方について尋ねますよ。あなた方も彼らを懐かしく思い出しますか?
あのなくなったカメラでてきませんでした。ムアン寺の住職も私もとてもお気の毒に思っています。

ワット・ムアの博物館も来年1993年2月26日にオープンします。シリントン王女を迎えます。モン村では催し物を行ないます。その時の写真はまたお送りします。






タイ・ユング旅行 ㉒オーバープレゼンスの反動 -’86 夏ー

2021-01-11 06:46:57 | ラーブリー
 ’70年代前半東南アジアは日本の経済進出の抗議して反日暴動が吹き荒れた(今も構造的には殆ど変わっていないが)。エコノミック・アニマルという言葉が全盛期の頃である。やがてその反省に立って日本は相手に理解されるにはモノばかりよりココロ、文化を伝えねばという機運が起こった。ボランティアの海外活動もこの頃より盛んになった。
  つまりアジアにおける日本、オーバープレゼンスするその顔は紛れもない自動車、電気製品、高級消費雑貨品に至るまでの「モノ」でしかない、というのが内外から批判されたのである。これではいけない、ということでこれではいけない、もっと日本の素顔、文化を発信せねば、という日本の「こころ」発信に強調がなされだしたのである。’80年代に入ってからである。
 私に言わせれば日本のアジアにおけるオーバープレゼンスの問題は棚上げされてる。いや最近では日本のココロを知らせるよな振りをしてますますモノの進出を促進しているようにみえる。このココロの紹介の動きも真のものとならず日本のコマーシャルペースに乗ってしまいタイ側のテレビ局の大衆娯楽指向とタイアップしてしまい「ドラえもん」、「忍者服部くん」、「一休さん」などのコミック文化の紹介に一変してしまったのである。つまり、ココロまでもタイのココロの中にいや応なしに進出していったのである。その陰で草の根的民間活動も文字通り草の根で頑張ってきた。私の知り合いのTさんなんかは「日タイ草の根教育交流協会」なるものを立ち上げ農村で日本の素晴らしい児童名作映画の上映活動なんかもがんばってきたが、大手の日本文化進出には及ばなく衰退せざるを得ない状況である。こうしたマスコミを通したタイにおける西欧型近代化、大衆世俗化の一役を両国の利益集団が利用してしまったのである。陰にいるものは儲からないことはしないものである。従ってそうしたテレビ番組は娯楽の機能は果たしてきたのであるが日本の本当のココロを紹介したわけではなかった。あにはからんや、こうしたすりかえは「日本の文化までがタイに侵略するのか!」という批判を誘引したのである。だが現実にはいったん取り外した日本企業の宣伝用看板は再び所狭しと林立し、日本のテレビ娯楽番組も全土でブームとなっている。経済が入るとなんでもエコノミックになるのである。
 しばらくのタイの生徒達との談笑ではこうしたマスコミの話題が中心になるということを初めて体験した。彼らの年齢に応じた興味関心は自ずとテレビや漫画など身近なテーマになるのが現状であろう。最後に一人の女生徒が一輪の造花をみんなの前でプレゼントしてくれた。カニヤ先生の配慮だろう。タイのココロとして大切に日本へ持って帰ろう。
 カニヤ先生が午前中の最後の授業に出かけた後、特に彼女と親しい同僚のウライという先生と野外活動(彼女たちが独自の児童劇団の活動をしている)のことや英語授業のことなどフリートークをした。その中で一つ気になる話が出た。「カニヤ先生大変困っているんですよ。先週は眠れなかった日もあったようですよ。」とウライ先生。ええ。その話に少しふれてみると、、、毎週土曜日の2時間はパレードの集団訓練がグランドで行われるのであるがその主導は軍の役人であること。そこで外国語科の一部の先生がこれは本務でなし、といってボイコットするケースが出てきたとのことである。当然、理事長は教科主任(外国語科長ではない?)を呼びつけてその対処を迫ったそうである。私は今タイ社会の外面ではおよそ計り知れない静かで緩やかではあるが一つの動きが水面下で興っていることをわずかながら知ることができた思いだった。
 廊下の風通しの良い学校食堂で1人8バーツという昼食をウライ先生が給仕してくれてカニヤ先生、古典音楽の先生等と食べる。わずか4時間足らずの学校訪問であったがどの見聞も忘れがたいことばかりだった。カニヤ先生のバイクの後ろに載せてもらってバンポンのバスステーションへ行き、「それじゃあ」と言ってバンコク行きのエアコンバスに乗って別れた。


タイ・ユング旅行 ㉑ 学校教育の中身 -’86 夏ー

2021-01-10 09:55:15 | ラーブリー
 カニヤ先生が現在教科会議で図って妙案を生み出さんとする取り組みに「アカデミック・エグジビション」なるものがある。生徒たちの英語学習への動機付けになりかつ現代的意義を持った企画をやりたいということであった。
 昨年は「イングリッシュ・イズ・ファン」というスローガンで寸劇やらヒロシマの写真やらポスターを使って反核平和キャンペーンに取り組んだとのことである。なかなか社会的なテーマを扱って日本の英語教師にはあまりない発想だ。そして今年はサウンド・ラボの実演を企画中とのことであった。こうしたイベントは例えばタイ語科ではタイの民芸品制作、農業科では農産物展示といったふうに全教科が参加して行われ学校行事としてはかなりビッグなものである。このイベント1回の予算であるが各教科に1万バーツ、全体で10万バーツを要するということで毎年はやりにくく2年に1回実施するところなど学校によるらしい。「2日間の展示にこんなに予算をかけてやる値打ちがあるのかしら。」ともカニヤ先生は言う。うらやましい気もする。
 やがてカニヤ先生も自分の授業が始まる。「キムラさん、教壇にたってみますか?」と彼女の提案でにわか教師になる。日本列島(地図)の紹介やら日本語のしくみ、日本の高校生の生活について英語でしゃべってみた。特に家庭でのテレビやパソコンゲームのはやり、おしゃれ感覚などの話は、目の前の生徒たちにどれだけ伝わったかは??である。
 あと、再び校内を案内され、特に面白いなあと感じたのはタイダンス(古典音楽、踊り)の授業を見た時である。みんな赤い布を巻いて、素足で天空に納豆の糸を曳くがごとくに手と指先、腕を上げたり下げたりする振付を練習している。一人の女先生が細い声でメロデーを添えながら手拍子しながら教えている。生徒は縦列に並び少数の男子ははずかしそうである。あのバンコクのディナーショーでよく見かけるダンスの部分的な基礎練習である。話によれば古典音楽、踊りは週3時間履修し他に伝統楽器の練習もしているとこことである。自分の国の伝統的な文化を取り出して今の若者に伝えていく、そうして自分たちのアイデンティティーの継承発展のために大切にされた時間である、と心が強く惹かれたのである。
 休み時間になって職員室に戻ったとき、何人かの生徒がやってきて日本の事などを聞きに来てくれた。こうした生徒の世代としては日本のテレビ番組への人気からくる話題も多く、特に「おしん」とか「トットちゃん」、「タナカユコ」などを媒介とした話題が花開いた。タイでは以前から日本のオーバープレゼンスが批判されてきたが、こうしたテレビ文化も海外侵略しているのか、という論調が聞こえないことはないが、なんでも物事には文脈があることも忘れてはならない。


タイ・ユング旅行 ⑳ カニヤさんの学校  -’86 夏ー

2021-01-06 05:28:13 | ラーブリー
 昨年夏に会った時、彼女の服装はいわゆるタイの官吏の制服のカーキ色であったが、今年の彼女は白のブラウスと模様入りフレアといったまったくラフな服装であった。時代が変わったのか、たまたまそうだったのか、はたまた昨年よりフォーマルな日であったのか。タイの学校では生徒も教師も服装はかなり厳格と思っていたのであるが。(*実は、タイではほとんどの学校で曜日により制服、私服、ボーイスカウト服、民族服などを使い分ける、ということが後ほどわかった。)
 彼女の運転するバイクの荷台に乗せてもらって中央通りをまっすぐに西へバンポン駅に突き当たりそれを右に折れてしばらく行くと線路の対側に彼女の中等学校ラッタナラタバンルアン校が現れた。先ほどの線路に沿って広いグランドがありその西側一帯を校舎が占める。校舎から校庭の眺めはすばらしい。周りは深い森に囲まれその繁みの間から鮮やかな黄金色の色彩でワットが目に飛び込んでくる。校庭の大樹の下のベンチには何十人もの生徒が自習をしたり談笑したりしている光景はなぜか長閑である。タイの学校ではこうした校庭の植樹林は大切な学校施設である。サバーイ(心地よい)な涼み場所であると同時に落ち着いた伝統を醸し出す学校環境となっている。
 さて、バンポンには中等学校は公立が2校、私立学校が2校、職業学校が1校ありこの学校もその公立の1つである。1920年代に創立された伝統ある学校である。ほぼ11才から18才の生徒が現在2,500名在籍し教職員は120名の大規模校である。
   学校組織体制について少し触れておこう。我々の場合は校長をスクールマスターとかプリンシパルと呼ぶが彼らはダイレクターと呼んでいる。となれば「校長」というより「所長」とか「理事長」といったニュアンスが感じられる。つまり経営者の側面である。その下に教科部門、サービス部門など4部門があり、その代表者として4人の副理事長(副校長)が置かれる。カニヤさんはその教科部門の外国語科の主任である。ついでながら彼女の英語会話力は見事である。
 職員室は教科単位で分かれており日本の多くの学校のように学年や分掌中心の配置ではない。ダイレクターの呼称といい、職員室の配置といい、日本とタイとの教育現場での国民的要求の相違を垣間見た感じがした。カニヤさんにこうした職員室を案内してもらう。
 まずカニヤさんの所属する教科部門の職員室に連れて行ってもらい教科部門の副理事長氏に挨拶する。教科は社会、理科、数学、外国語、工芸、芸術、タイ語、体育であるが選択で農業や美術に特色があるという。次の昨年にお会いしたタイ語科の女性の先生、理解の主任の男性の先生にも挨拶を兼ねて巡回して回る。途中、ダイレクターにも偶然会い、後に挨拶も兼ねて校長室に寄ることになる。
  ちょうど授業が始まるところなのでいろんな先生とゆっくり話し込むことはできなくて残念であったが私の性格上なのだが「ここにいる」という実感や感動は目にするもの出会う人々すべてを忘れがたく懐かしくさせた。
 カニヤさんがいる外国語科の職員室に入ると若い大学生風の男女20数人がなんだかワイワイ雑談している。聞くと教育実習生の控室になっているという。カニヤさん達もその実習生への対応に・・・・・だなあ・・・・いずこの国とて。タイでは一般系大学の学生の実習期間は1学期間(約4カ月)が課せられており教育系の大学生は2カ月が課せられているという。日本の2週間とは比較にならない長期間である。現在、この外国語科にはナコンパトムのシラパコン教育大学生を中心として英語又はフランス語科目の女子18名、男子3名の実習生が緊張の中にも陽気そうに待機していた。

タイ・ユング旅行 ⑲ カニヤさん  -’86 夏ー

2020-12-24 05:41:13 | ラーブリー
 カニヤさん
 赤いヤマハのバイクでカニヤさんが私の宿舎に迎えに来てくれたのは翌朝9時であった。
 私はタイでは多くの文字通り親切な人々に巡り合ってきたが、その中でも最高に他人に対して気持ちを察するしなやかな心を絶えずみずみずしく備えている人と言えばまず「カニヤさん」と断定したい。そしてあんなこころやさしい人物がタイには「無尽蔵」に存在するならその地にていざ死なん、と絶賛したくなる。そんなカニヤさんのパーソナリティーの一端を紹介しておこう。ある時、私の日本の友人(独身女性)がタイへ行きたいがはじめてなので一人では不安である、なんとかならないだろうか、という相談であった。いろいろ無難で安全な観光コースも知ってはいたがタイへ行ってタイ人と関わらないほどつまらない旅はないと常々痛感しているので、思いついたのが「カニヤさん」の助っ人である。こちらの事情をしっかり連絡すれば必ずや安全に十分な満喫を味わわせていただけると信じ、カニヤさん以外はないと思った次第。さっそくその旨を連絡してみた。返事がすぐにはこないので忙しいのだろう、と思っていた。2週間後に「キムラさんの友達なら私の友達でもあります。あらゆる日本の友人、さらに世界のあらゆる人々と我々はいつでも友人になれるのです。今回のあなたの友達の旅行についてはなんの心配もいりません・」といったこちらのこころを知り抜いた気持ちの染み入る文面の手紙である。さらに続けて
「ただあなたの友人が休日に来られないのが残念です。その期間は私は勤務が忙しくいろいろ案内して歩くことができないのです。」「でもそんなことは心配はいりません。あなたも知っているようにタイには至る所に親切な人がいます。」心憎いばかりである。この他人愛的な突っ込みこそタイが心理的先進国の証である。「私の友人にお願いしましたからあなたの友人は思い通りの所へ喜んで案内してくれますよ。こうしたプランが彼女を喜ばせるものかどうかあなたから聞いてください。そしてすぐに私に連絡してください。」とまあ、こんな具合であります。読者諸氏、こんなカニヤさんの配慮こそカール・ロジャーズの言う「無制限の受容」と思われないか?
 2週間も彼女から返事が来なかった理由はこうした彼女の温かい受け皿作りにあったのである。彼女の内面のこまやかさ、繊細さについては言葉では言い尽くせるものではない。どこまでもしなやかで、あたたかく、相手を受け入れようとするしっかりした芯がその底に根付いている、とでも言っておこう。なかなか自我が肥大しつつあるどこかの国ではなかなかこうした人には会えない。
 さて、感嘆はこれくらいにして彼女の勤める学校の話に戻そう。