知らないタイを歩いてみたい!

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イサーン見聞記8  フィールドノートより

2022-04-06 07:22:10 | コンケーン
長い間、眠ってたフラフカードを整理してみた。
当時の調査内容を綴ったものである。
*****
一応、中部タイのフィールドワークに一区切りをつけたので次なる農村を探して東北タイへ向かった。1980年8月1日のことである。
<スタート>
筆者が初めてタイへ行った時からパイアラットという運転手兼通訳にお世話になっており、彼が「東北タイ(以後、イサーン)へ行くなら俺はカムナン(郡長)を知ってるコンケーンにしよう」と提案してくれた。にべもなくそうすることにした。
イサーンのはじめての旅である。

<バンコクから>
チェントアという会社のバスに乗りバンコクを午後11時20分に出発した。出発に当たって車内サービスとして音楽が流されるのに深夜であるにも関わらず気を良くした。「コンケーン、ここはコンケーン、イサーンの中心だ私のふるさとだ。私はコンケーンとともにある。忘れない」と通訳は歌の内容を訳してくれた。バスはラーマⅣ世像を右手に北へ向かっていた。

<パクチョン>
少しうとうとしたかと思った時、バスはゆっくりと方向を左に曲がり一時停車に入った。午前2時だった。パクチョンという町のパーキングエリアである。笹に包まった匂いのきついハムを少しと水を食す。イサーン料理なのか分からないが辛そうなもの塩味のきついもの、干したものと思われるもの多々あり。

<夜明け前>
バスは不思議の国の森の中をただひたすらに走り抜けていったようだ。そしてやや東の空が白み始めてきた。車窓から見える黒ずんだ塊は森だと、うっすらと識別できるようになった。すべてが自然であり、とても豊かである。道路の端は粘土質のような土壌が赤茶けて見えるようになる。そして水のない田圃も見えてきた。
緑と赤、これがイサーンの色だ。豊かな自然のようで荒涼としている自然、西部劇でも連想させる。

<コラート高原>
薄暗い夜風に丘陵で木が揺れている。遠く彼方に極楽浄土でもありそうな、白雪姫の魔女でも棲んでいそうな森、九州のヤマナミハイウエーイを連想させる高原地帯。
そうだ、コラート高原の入り口だ。赤みの土壌はラテライト土壌だ。
 *小学館・ジャポニカより「タイ北東部にある高原。西をドン・プラヤ・エン山脈、南  をドンレク山脈、北から東をメコン川に囲まれる。中生代の砂岩が水平に横たわる構造平野で、標高は100~200メートルと低い。岩盤の表面には薄くラテライトが堆積(たいせき)している。山地に囲まれているので降水量は少なく、年800ミリメートル以下の地域がある。大部分はメコン川支流のムン川の流域だが、雨期と乾期で流量差が大きい。乾期に水を供給するために、メコン川総合開発の一環としてムン川にダムが建設されている。おもな都市にはナコン・ラチャシーマー、ウドン・ターニ、ウボンなどがあるが、いずれも小都市で、タイではもっとも開発の遅れている地方である。[大矢雅彦]1984~1994刊
<夜明け>
自然の山並みに人間の手が加わった人工加工物が一つ二つと増えてくる。空がすっかり明るくなってきた。景色の中にカラー色がくっきりしてきたのである。田圃はあくまでも濃く緑に静寂で、道路は赤みが目立ち始める。

<コンケーン到着>
5時50分、バスターミナルに到着。気温22℃。バスを降りて、そばにいるミニバスに乗りとりあえずすごろくのスタートに立つべし、通訳パイアラットの友人と称する学校の先生を訪ねるべし「コンケーン・コマーシャル・カレッジ」に向かった。学校はまだ開いてなく校庭でバスケット早朝練習をしている学生にその先生の下宿先をたずね再びミニバスに乗り込んだ。

<友人、パッチョン氏>
31才。胸にイレズミが冴える。クメール文字だといい、1年前にウドムタニで彫ったという。「ブッダよ、たすけたまえ」と刻まれている。3か月前に離婚した、という。

<交渉>
「どこか田んぼが見せてほしい。できたら宿泊もさせてほしい。そんな農村へ連れて行ってくれ。」とミニバスの運転手(スーテン氏)に切り出す。
「オレのうちは20ライの農家だ。うちでもよかたら来てもいいぜ。」となった。
さあ、筆者の好奇心、冒険心は最高潮に達する。コンケーンの朝はここちよい。とても涼しい。
荷台に飛び乗った。走り出す。僧侶の隊列がビンタートに向かう、朝市が見える、そしてコンケーン大学の池が過ぎる。
スーテン氏「大歓迎だ。日本から来た客人、バンコクから来た客人、イサーンはどこでも客人を泊めるよ。」と.。

<村>
中心部から10キロほど南下し、そこで東(つまり右)おれして10キロほど行った道路をまた右(北)折れして3キロほどしたところを左に直角(西向き)1キロ走ったところにスーテン氏の家があった。
コンケーン県ムアン郡バントム地区(大字)ムーバーン?が行政単位である。
ムアンとは県庁所在地のアンプー(郡)のことである。県には17のアンプーがある。
アンプームアンには2つのタンボンがある。バントムはその一つのタンボン(大字)である。さらにバントムには9つのムーバン(村)がある。



スーティン氏の小字(ムーバーン)はムー10で正式には「ノーンバーン・ルンパー・マイサワーティ」村と呼ばれている。

<人口>
コンケーン県には約150万人の人口がありだいたい8割が農業、2割が非農業(会社経営、勤労者、公務員、自営業など)らしい。
タンボン・バントムは700戸あり、人口は4000~5000人だそうだ。ムー10は269戸で1345人が在住している。耕作面積はざっと2000ライとのこと。

<スーティン氏の仕事>
農家に宿泊できる、足回りは彼のミニバスという前提が整った。彼のドライバーとしての一日はすべて差し引いて約200バーツの稼ぎとのこと。筆者がその日割りでその代金を支払うことになった。となると、月に5000~6000バーツを稼ぐ。しかし月に2000バーツは車のローンで返済するそうだ。彼は24カ月、つまり2年間で完済しなければならない、と言う。こうしたミニ・バスで稼ぐ者は村では5%位はいるようである。

<村の農業外収入>
ところで彼は一年間、このミニバス運転手をしているわけではない。まず、農繁期には20ライの水田稲作耕作がある。それとこの地域では多くの家で養蚕業も営んでシルクを作っている。こうした家内作業と農閑期にはミニ・バス業や町の市場で働いたり、男なら工事現場へも出稼ぎに行く。男の75%はこの現業職らしい。すべて最低賃金は40バーツ/日だそうだ。

<村人の生活費>
ずばり聞いてみた。スーティン氏 1日40バーツで家族を養っている。
隣人ファン氏も40バーツ、プー・ヤイ・バンは50バーツ、副村長も50バーツは必要という。

<スーテン氏の家>
村の様子を見るためにスーテン氏宅を起点にカメラをもって歩いたり、実際に村はずれのスーテン氏の田圃をスケッチしにいったりした。その内容は別頁で述べたい。

イサーン見聞記7

2022-04-06 05:30:36 | ハノイ
夜行バスで眠られなかったせいか、または た安心感のせいか、新着の異郷の土地にもかわらずたっぷり午睡ができました。床下でがやがや話す声で目を覚したのは午後三時をまわっていました。
まだ気温は三十度ありますが暑かった日差もやや弱まり、樹々の地にさす影も濃さを増してきたようにみえます。

ガイドのパイラット氏が木製の階段をあがってきました。「キムラさん、朝会ったコンケーンコマーシャルカレッジの先生たちが来てくれましたよ。」 彼のうしろから二人の男性と一人の女性があがってきました。 午睡起きでボーッとしていた私の意識も嬉しい訪問者が目の前に来たという状況を確認してにわかに活気づいてきました。イサーンの先生と話ができる!このことは私にとって感動的な事なのです。あのタイ映画でみた 「クルー・バン・ノーク」 (田舎の先生)が私のミミズのネットワークに出現したのです。 イサーンの教育事情、特に子どもたちの勉強の様子や 暮しの実情、先生たちの教育観などどうしてどうしても聞きたいと思っていました。ここで面識をつくっておけば、今度日本へ帰ったあとも教育交流はできるはずです。イサーンの先生と 話すことー今回の大きな目的のひとつでした。

さっそくパーティの準備です。スーテン氏 の奥さんが手際よく手料理を作ってくれまし た牛肉と野菜を炒めたものでヌーヤム・ナ ム・トクという料理でレモン汁につけて食べ るのだそうです。ガイド氏も手際よくアルコ ール類やジュースを持ち込んでくれました。
人来たりなばアルコールはいづこの国も同じか。 タイウイスキー(中瓶で二十パーツ)、 メコンウイスキー(小瓶で六十パーツ)、氷 (一キロ八パーツ) (※一パーツ約九円)が 並べられました。テープレコーダー、カメラ、ノート、メモ用紙、私のフィールドワー クも準備OKです。 やがてスーテン氏の隣人、友人、親戚の人も車座に加わってくれました。いよいよアルコールを口にしながら談笑することになりました。

ガイド氏が連れて来た男性二人は先生、女性の一人はその友達です 一人は今朝、町に到着直後に訪れたガイド氏の「助っ人」のトン チャイ先生。少し赤ら顔でやさしそうです が、野武士のような精悍な面持です。生まれも育ちも首都バンコックで五年前に教師とし てイサーンにやってきたという変わった経歴 二十九歳、商業を担当しているとのこと。 女性はこの先生の友達。ラオス国境の町ノン カイで生まれ、現在コンケーンの自動車会社のOLのエーイさん、二十五歳です。 もう一人の先生はバンテュー先生でコンケーン生まれで教育もコンケーンで受けた生粋のイサー ン子。彼の奥さんは南部タイの人で学生時代 に知り合い結婚したとか。 彼の教科は英語。 私の英語で話しかけるのですが、お互いにナマリのきついせいか意志疎通がうまくいきま せん。ガイド氏なして生の声が聞かせてもら えると期待したのですが無理でした。

私の一番の関心事はイサーンの人が常日頃 イサーンを、コンケーンをどのように考えて いるか、ということでした。とにかく車座になった人々に順番に聞いてみることにしましました。

まずはトンチャイ先生。「僕は五年前にバンコックからここに来たがイサーンはいいね。特にこのコンケーンは大きな問題もないし、住み心地がいいね。
初めてここに来た時は大きなビルも会社もほとんどなかった。随分変わったね。」

それではパンテュー先生はいかがですか。「ぼくはイサーンに生まれたことをとても誇りに思っている。 二十年前にタイの首相になったタナラットはここから二百キロほど北に行ったナコンパーム県の出身だが、彼はイサーンを次々に開発してくれた。ナコンバーム、コンケーン、ウドン、コラートは大都会になったね。今、トンチャイ先生が言ったようにコンケーンだけ考えてみても、ほとんど電気は普及したし、テレビ、ラジオの中継地もでき大いに普及しつつある。新聞もその日のうちに入るようになったし、 今年から電話もバンコックから直通になったよ。 バスなどの交通網もよく発展し、バンコックも近くなったね。もうすぐバンコックと 同じくらい発展すると思うね、いや、将来は タイの中心になるよ、きっと。」 すごい自信と誇りなのです。「人々は生活も楽になった し、不平不満を言う人もいない。ものを盗む 者も全くいない。」とパンテュー先生の礼賛の弁舌は止むところを知りません。<バンコックと同じようになる>と彼が言うことには少々戸惑いをもちますが、この五年間の町の発展ぶりは確かなようです。

エーイさんはいか がですか。「わたしが六年前に来た時は 何もなかったのに、本当に変わりましたね。」スーテン氏も奥さんもおばあさんのタイオン さんも同じ意見のようです。 スーテン氏の叔 父に当るカイ氏 (四十八歳)。 「そうだね、わ しもみんなと同じ意見だよ。ここで生まれた しコンケーンが一番だ。特に盗人がいないこ とがいい。これからますます発展すると思う よ。」
それでは隣人ファン氏(四十四歳)は? 「カイおっさんと同じだね。 昔とくらべてみ んなが学校へ行くようになってそれだけ男の 子 女の子がかしこくなったね。 田んぼに出 たがらんのが問題だがね。昔、町に行っても あれほど多く車もなかったし、会社、オフィ ス、銀行、市場、映画館なんてものもなかっ た。十年前とくらべると夢のように変っちまったよ。今後もどんどん発展して良くなると 思うよ。」最後のインタビューはパチョン氏 (三十一歳)。 スーテン氏の幼な友達です。 話はここで少し横道にそれますが、男連中は皆 上半身裸なのです。

このパチョン氏も裸なの ですが、首下にみごとなイレズミをしているのです。図柄はアンコールワットのようなお寺院の模様で、その下にはクメール文字があり、「仏陀の御慈悲を!」と刻まれているそうです。
一年前にウドンタニの僧に彫りつけてもらったとか。話を元に戻して彼の言は「ここはイサーンの中心だね。 今後もどんどん発展していくよ。だけど、新聞で読む限りタイはまだまだ多くの問題をかかえているよ。最近はコミュニストの問題が深刻だね。」である。 少し辛目のコメントか。でもここに集ま
ってくれた先生、会社員、農民、運転手、みんなイサーン人として一様に郷土に誇りと自信を持っていることは確かです。
そして、おの原因がここ五年、十年の産業、経済の圧倒的な発展にあるようです。

タイは一九六一年より「国家経済社会発展計画」を実施し、この年は第四次五か年計画の大詰とか。その主目的である「経済活動の地方分散化」、「後進農村地域の貧困除去」、さらには「都市農村の所得格差の縮少」などの政策はここコンケーンでは確かに浸透してきているようです。いや彼等の言葉を借りる限り目を見張るものがあるようです。が、こうした経済開発が真にそこに住む人々すべて幸せをもたらすかどうか未確定ですし、イサーンにおける急速な発展の影に予期できぬ魔手が潜んでいないとも言えないでしょう。



イサーン見聞記6

2022-04-04 06:16:08 | ハノイ
朝にしてはやや暑い日射しがバナナの葉陰 からこぼれてチーク板の縁先に照りかがやい ています。スーテン氏の家はこの村では標準的な大きさでしょう。床の高さは大人の背丈 くらいあってその階段をのぼるとまず一畳く らいの広さの炊事場兼洗面所があります。そこには水がめが四個、ポリバケツ一個などが棚 に並べられています。

その隣りに全体の半分くらいを占める広さの居間(というより多目 的広間)があります。 その奥が右から台所、 子ども部屋、スーテン夫婦の部屋、祖母の部 屋と区切られています。
ここで大人三人、子 ども三人の毎日の衣食住がおこなわれている のです。


屋根は痢を除いてトタン板の屋根になって います。村の大部分がトタンのようです。このトタンの下で昼寝をしたのですが、暑 いこと暑いこと。35℃は越しているでしょ う。実は後になってわかったことですが、 家の人たちが寝をする場合には床下の床台 の上でやるのです。

そうなのです。 昼寝、糸 つむぎ農具の手入れ、夕食の準備、子守 り、雑談、すべて昼間の仕事、生活は床下に 移るといった方が正しいようです。 私も翌日 からは昼間は床下に逃げたのです。

でもなぜ安価に入手でき断熱作用にもなる茅葺き屋根をやめてしまったのか。こんな不 合理なことはないなあ、とその時、思ったの ですが、しばらく滞在するうちになるほどと 思ったのです。

一般的には取り付け、扱いは 簡単であるし、耐久性もあるでしょうが、実は雨水の関係なのです。 天の覚みの雨水の一滴も粗末にしてはならないという哲学のあら われなのです。 トタンに降った雨水は軒の雨どいをつたって下におかれた水がめに使れる落ちるという仕組みなのです。 一瞬に降り、一瞬 に止む雨水を一滴でも多く獲得し貯蔵しなけ ればならないのです。そこでトタンの役割り は圧倒的なものになったのです。 水、特に雨水に対するイサーンの人々の感覚は想像もつ かない程鋭敏なものです。

家の造りに目をやると、寝室や倉庫には、 バナナの皮で編まれた囲いがありますが、そ れ以外居間にも台所にも壁や囲いになるもの がありません。荒削りの丸太の柱、細かいと ころは竹ざお、といった実に簡素な造りで す。外から丸見えですし、よく幼児が床か ら落ちないものだと思いました。村の中を見 しても、大なり小なりこの型の家屋です。 大きな虫籠といった感じです。

床下は牛小屋 、ニワトリ小屋だったり、 養蚕場だったり、また農具、生活具の格納場に なっています。 特に目につくのは、竹製品の多様さ、豊富さ。クラドン(てっつき)、コンカオ(めしびつ)、カツテツ (大きいこめびつ)、 ファンヌンカオ(蒸し器)、農具、鳥籠など がや床下に吊されています。 すべて自家製とのことです。 

家の内部を見渡すと 壁には親族のものらし写真の入った額縁が吊さ れています。国王の顔つきのカレンダーも 貼り付けてあります。 しかし私のいる居間には ほとんど家財類がありません。 無造作に畳まれた蚊帳が 釘にかけられてあったり、床の上 には私のためのござが敷いてあるくらいでが らんとしています。

 私はやっぱり中部タイと 同じイサーンも蓄積の少ない "go through(移動可能)の文化だなと思ったのです。も ちろん米、穀物、天水、絹 、竹製品などは中部タイより貯蔵された伝統的農村ではありま すが、それは自然の厳しさの結果なのです。 どうして "go through" 文化であるか。 その 原因としては比較的浅い歴史しか持たない開拓村の宿命であるかもしれないし、生活の関心が水と稲に集中している結果かもしれない し、決定的貧困によるのかもしれません。

あ るいはタイ人全般が持っている家屋というも のに対する価値観の投影で
あるかもしれませ ん。 いずれにせよよそ者にとっては建物を見 る限り出入りが実に気楽にできる造りである し、住人にとっては家財をたたんで次なる天 地へいつでも移動できる家であると見受け ました。

スーテン氏の奥さんがいてくれたゴザに 仰向けになりイサーン特産の色どりあざやか な枕を頭にあてると「やっとイサーツへ来たな」という満足感が改めて湧いてきます。
どこからか「クルッー!クルーッ!」とノッカウ (山鳩)が鳴いています。 私は今、東北タイ (イサーン)の空気の中に漂うサバーイ(安逸) のただ中に入ったのです。

奥さんの母タイオンさん (54) の一日の主な仕事は養蚕です。若夫婦が野良仕事に出て いる間、家の留守番役をかねて日二~三回の給桑をします。 涼しい床下が蚕の館です。 床台の上に木と竹で組まれた棚に直径50センチくらいの平底の竹かどが、5個、それぞれ衣 にしっかりつつまれて飼育されています。 一 かごには二百五十~三百匹がおり、糸にして 二グラムくらいの絹がとれるそうです。 

タイ オンさんの所には全部で10かごありますから順調にいけば月に二十グラムの生糸がとれる ようです。 桑の発育が順調で害虫(主にア り)がつかなければ年に十回は孵化するそう です。 タイオンさんは床下から一かごもって
きてくれてカイコを実際に見せてくれまし た。もうすぐ孵化する成虫ですが日本のよ り一まわり小さい感じがします。 繭は黄色で いわゆる「山繭」というのでしょうか。現地 ではトーモンと呼んでいます。黄色のは繭は蒸すとけむりで白色にかわるそうです。 日本の 一化性蚕の繭より小粒で皮薄く粗野なもの です。 イサーンの自然の厳しさ、不毛さを感 じさせる繭でした。 

奥さんが寝室から一枚の 絹織物を持ってきて見せてくれました。 ピン クと白を基調とした格子縞です。 銀色に輝や いている宝物のように見えました。縦50セン チ、横一メートルの衣ですが、 パンコックで は三千円以上するそうです。ガイドのパイラ ット氏が「安い! 一枚わけてほしい。あん たも買った方がいいよ」と勧めてくれるので約千円で一枚買っておきました。 夜通し蛍光灯 をつけて蚕を活動させています。

外がま だ暗い早朝からタイオンさんは桑をござにひ ろげていました。このあたりは五軒一軒の割で養蚕を副業にしています。 こうしてイサ ーンで産れた絹はパンコックにいきタイシル クとかマットミーシルクと呼ばれて商品化するのですが、タイオンさんは「こうした絹は あまり売らない。 晴れ着を作ったり、飢饉な どのまさかの時の交換用品にするのです。」 と説明してくれました。

蚕の話が一段落したところで奥さんが食事 を用意してくれました。食事はカツテツ (飯 つぼ)に入った冷えたカオニャ(もち米)。これが主食でそれぞれが手でつかんで小さく 丸めて食べます。 おかずはプラカオとかカテインと呼ばれる塩辛いへしこです。 塩とぬ かに二年間漬けたものです。 カオニョは日本 のおこわと同じような味だし、へしこも塩か らさが倍ではあるがカオニョによく合う。 あ とコップとかキャットといったカエルの炒っ粉 になったおかずもおいしい。 中部タイの 食事より日本に近い味です。

緊張も空腹もともこうしたもてなしですっかり 消えて知らず知らずにまどろんでいました。



イサーン見聞記5

2022-04-03 11:41:41 | ハノイ
これまでは「見聞記」というよりイサーン に関する書物の断片的知識の引用が中心にな ってしまいました。この辺で私の目で見たイ サーンの情景や、私が実際に出逢うことので きた人々の暮らしやら、その人々の声をミクロに書き進めていきたいと思います。

とは言っても私がこれから書こうとするとことはタイの村について客観的に、かつ実際的に記したものではないことは当然で す。 ことばを換えて言いますと次のようであ ります。 私のやり方は「一人の旅人が一つの国の一つの場所(その国民の全体にもよく知 られていない所)にまよい込み、村に入り、 ある農家に寄寓し、その高床の上から、限ら れた時間内に限られたインフォーマントとい う制約を受け"”むら”のことどもを私の目と いうサーチライトで一隅一点を照らしてい くことでありますから、人類学で言う直接参与 方法だとか帰納的手順だとか言っもそこに写し出される映像は乱雑、中途半端の誹は免れません。

にもかかわらず私もその人たちも今生きて いるという共感から、たとえ断片的であって も私はむらの人々にいろいろ聞いてみた いのです。自分の住みつづけている地域につ いてどう考えているのか、今一番の関心事は 何か、日常のサヌック(楽しみ)は何か、子 どもに何を期待するか、等々。こうした聞き とりのみから私の見聞記は成り立ってい ると思うのです。その中で学間的手続きをと っていなくても「どこのグレベエ」がかく語 り、そのダレベエの唾汁かかった記述が少 しても出来ればそれこそが私にとっては唯一 の自負できる寄る辺であります。

余談ですが私の見間作業は無理に歩きまわ るのでもなく、立ち上がるのでもなく、 全方 位に目をやるのでもなく、無為に地面にベタッと這いつくばってやっているものですか ら、これは「ミミズ」 的だな、と思うのです。予め調査場所を探す必要も感じませんし、インフォーマントに当たり外れがある訳でもありません。雨、水、土、木虫、人、 などのエコロジーに少しでもひたって小さく呼吸 さえさせてもらえれば満点だと考えている 「ミミズ」なのです。

またまた脇道にそれてしまいましたが、私 はこんなたわいもないことを遂行するため深 夜バスに乗ってパンコックからイサーンにむ けて北上したのです。

バスの中はイサーンの人がほとんどのよう です。一般に中部の人がイサーンに行くこと はまずないようです。 長年ガイドをやってい るパイラット氏も実ははじめてなのです。で すから「コンケーンあたりの農村に入ろう」 数日前から打ち合わせていたのですが、ガ イド氏にしたら多少の準備が必要だったよう です。その大きな一つが現地での「助っ人」 探しだったのです。ガイドのガイドが必要な のです。そんなことでバスに乗った時には一 種の緊張感がありました。

イサーンの人々がさかのぼる日々に都会へ 生業を求めてやってきてある人は成功をおさ め、またある人は失意の中を故郷へ帰ってい ・・・・・・バスの中はそんな人々の情景があるの かもしれないと思ったのです。 出発したばか りのバスの天井スピーカーからポンポン太鼓 のリズムにのって歌が流れています。「コンケーンはすばらしいよ。 イサーンの中心だ。 わが町コンケーン」といった文句の歌 です。なんとなくものうとしい響きでした。

バスは朝五時すぎに高原の地コンケーン県 に入りました。 乾いた田畑が道の両方に見え る他は人工的空間などありません。 やが 地が丘段状に散在し異様な景観でした。 今 から百三十年ほど前にこの地に踏み込んだフ ランスの科学者探偵察アンリ・ムオはこの 地の描写として「この辺の空気は温調で、不 健康で息苦しい。 私は、ラオス人やシャム人 が地獄と呼びならわしている森の入口にい る。この死の国に棲む悪魔たちは、この厚い のもとに深く眠る多数の哀れな旅人の骨 をまき散らすのだと言われている」 と不気味 な表現をしていますが、 太陽が顔を出すま でのイサーンの一面を言いあらわしているよ うです。うっすらとした夜明け前。丘段の疎林、 竹藪の「黒」と、水田・荒池の「白」と 路ばたのラテライトの「赤」、これがイサー ンの景観の色彩だな、と思いました。

六時少し前コンケーンの町に到着しパスを 降りました。 まず軽トラック改造ミニバスを 一台貸し切りガイド氏の例の「助っ人」を探 ねることとなりました。 その助っ人とはコマーシャルカレッジの先生である、という ことだけが手掛りでした。その学校を訪れ、 学生に先生の住所をたずねたり、その先生の フラットを訪れるまでのドライブで私はミニ バスの荷台の幌の中から朝日に輝くコンケー の町並をあちこち眺めることができまし た。気温は22℃を示して涼しいかぎりです。

コンケーンの早朝はとても活気があります。 市場へ行く人、荷車、自動車、バイク、サムロ が砂ぼこりの中で騒々しく行き交います。 黄衣の僧の行列がなんとも言えぬ落ち着 きを与えてくれます。 二〇〇メートルの海抜 の高原は熱帯といえども気に満ちあふれた 快適な朝の情景を提供してくれます。 夜明け前の「死の国」のイメージは全くありません。

さて、どうやって“むら”に入るか。どん な"むら"が待ちうけているのか。 ミニバス のドライバー氏に私の目的を告げる。 「うち も二十ライの水田を耕している。うちでもよ かったら来てくれ。」と誘ってくれる。 さあ、 はるばる私をここまで連れてきてくれた私の 好奇心はここで最高に達したのです。 この旅 行も八割は成功した気分です。 ミニバスは私 ガイド氏二人を乗せて西方にむかってフル スピードで走ります。 「助っ人」 ガイド氏は午後来てくれることになっています。 朝日が 背中に追っかけてきます。 コンケーン大学の ハス池やら美しい森などが目に入ります。 空 は澄み車が切る風はますます爽かです。

三〇キロほど西に進んだところに小さな町 パントムがあり、そこを右に折れて三キロほ 北上したところにわがドライバー、スーテ ン氏の村が我々を待ち受けていました。村の 赤味をおびた街道に女性や子どもが水くみ作 業をしています。 あるものは天秤棒でバケツ をかつぎ、あるものはリアカーにポリ用器を 積んで。中部ではあまり見かけなかった早朝 の風景です。 高床も中部より若干高いようで す。 その床につづく階段をのぼって左手の一 角が私の寄の場所となったのです。 「お世話になります。」とスーテン氏の奥さん、お 母さんに挨拶をする。 「こんなところまで日 本人やバンコックの人が来てくれてこちらも とてもうれしい。」とスーテン氏がニッコリ とする。 パイラット氏も重費から解放された のかすぐに水浴衣を借りて朝のシャワーをあ びる。私ももちろんです。こんな調子で私は コンケーン県ムアン郡パントム区のむらにミ ミズの目をセットすることになったのです。 (つづく)