知らないタイを歩いてみたい!

タイの地方を紹介する。関心のある方の集まり。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

タイ・ユング旅行 ⑬ノンカイとの別れ  -’86 夏ー

2020-12-11 17:18:15 | ノンカイ
 せっかくノンカイหนองคายに来たのでラオス産の民芸品を少しでも買っていようと思いイミグレーションオフィスの付近をうろうろしたが閉店時間も近かったのか「買って行かないか」といった店子の積極的な売り込みもなくじっくりいな定めすることもなくUターンしてしまった。途中、イミグレーション・オフィスの中をガラス越しに改めて覗くとラオスへ帰る農民らしき一家ががござの上に無表情に寝転んでいるのが見えた。そばには大きな段ボール箱の荷物も見える買出しに来たのだろう。異様にその光景が目に焼き付いた。同じ血のつながった同胞たちが国境という線で離されてしまった、もっと自由に行き交える日はいつ来るのであろうか?”形式としての不自由”といったものを感じた。しばらく見入っていると中から警察官が私に気付きいったい何者であるか、といぶかるようにこちらに近づいてきたのでその場を離れた。あらためて考えれば私の場合は”形式としての自由”しかないのだが。
 ノンカイの夜は本当に暗い。夜8時半出発のバスに乗るべくステーションに向かった。途中バンコクから到着したトラックが朝刊の包み束を販売店に放り投げている光景に出くわす。最近になってその日のうちにノンカイという最北端の町まで新聞というマスメディアが入ってくるようになったのである。ここノンカイでは各戸に配布なのか新聞少年が集まっていた。そういえばここのところバンコクポストなんか読んでみると北部、東北部の記事が随分増えた感じがする。
 頭に入れた地図でバスステーションに向かって歩き出したがすっかり暗闇で様変わりたどり着けない。あと20分くらいしかない。少し焦りが出てくる。この道だろうと確信して進んでみるとますます人家のない細い道になっていく。どうしようか、と不安な気持ちで後戻りしようといた時に私を目で追っていたらしい夕涼みのおばさん連中が「どこへ行くのかェ!」と声をかけてくれた。「バンコク行きのバスステーションまで!」と答えると「ここじゃないよ。もっと東だよ!サムローでいったほうがいい。3バーツだよォ!」と親切にも声をかけてくれた。渡りに舟とはこのことだ。こうした窮地に追いやられた時の人々の簡潔な助けは後々まで明確に覚えているものだ。サムローのお世話にならなくてもと思ったがとにかく時間が迫っている。ギーギーと静かに音をたてて目的地まで乗せてくれた時にはバス出発5分前だった。
 バスに飛び乗り、前から3番目の指定席に座る。少しエアコンが効きすぎるし座席がやけに狭い。お尻が痛い。痛いのは当然だ。今日は8時間余りのバスの旅をしてきたのであろる。更にこれからノンカイ~バンコク10時間のバス旅の延長戦だ。あれやこれや気分はマイナス、ネガティブに向かっているようだ。しかし、まずは間に合ったのだ。
 窓越しにだれか都に行く肉親か親戚を見送る人たちが手を振っている。ブルーバスはゆっくりとノンカイに別れを告げた。660キロの真夜中の旅がいま始まったのである。ふとこんなイメージを持った。「ノンカイが口腔部分でイサーンの道中が食道でバンコクが胃袋。そこに食べ物として落ちていく自分。」地図を見れば確かにそんな感じもするが変な連想をするものだ。
 途中、昨年お世話になったアピチャート校長先生のいるウドムタニーを通り過ぎあの時の楽しかった思い出に少し気分が高揚した。
 午前2時頃にナコンラチャシマーのドライブインに降ろされ夕飯なのか朝飯なのか分からない、しかも匂いが極めて異文化を感じさせる食事が提供された。当然、胃袋は受けつけなかったが意識は覚醒させられた。それ以外は再びみたび意識はもうろうとなりバンコクまで気が付かなかった。朝の6時に到着。




タイ・ユング旅行 ⑫ノンカイの僧院にて  -’86 夏ー

2020-12-09 05:33:03 | ノンカイ
 メコン川に出てみた時には夕陽がラオスの森の中に沈もうとするところであった。少々のほろ酔い気分で迷い込んだところはワット・ハイソックというノンカイでは最大級の寺院であった。なんだか根がぶら下がったような大樹の下で黄色い衣をまとった僧たちが夕陽に向かって自由い時間をくつろいでいた。私もそのそばに座りメコンの夕陽をカメラにおさめた。ラオスの町の建物に白色が目立つのはフランスの影響だろうか?その白色が夕暮れに冷えびえとしていた。
 思えばナコンパノムではメコン川を隔ててラオスの切り立つ山並みから登る朝陽を拝み、いままた同じ日にその太陽をメコン川を隔ててラオスの山並みに夕日として拝む。不思議なことである。日がいずる、そして日が沈む国ラオスかな。もし「太陽が東から昇り、東に沈むのを見たい。」なんて願う御人がおられたらメコン川北上の旅をおすすめする。
  高僧とおぼしき僧に共に写真撮影を乞うた。何かのガイドブックには僧にカメラを向けてはならない、とか書いてあったので念のためにと思ったのであるが、「オーケー、オーケー」と高僧は笑顔でポーズをとり私とともに被写体になっていただいた。さらに近くにいた若僧やデクワット(小僧)にも加わるように指示して近くを通りかかったバイクの若者を呼び止めシャッターを切らせた。今でも高僧の智業にたえた威厳のある笑みを忘れることはできない。写真撮影が終わると高僧たちは寺院に引きあげていかれた。残った若い層や町の一般の青年たちが私の周りに集まってきた。彼らの関心は私のカメラであったりウォークマンであったり、または虫よけスプレーであったり、いわゆる物質文明である。そしてテクノロジーへの崇拝は万国共通で特に若者はすごい。
 パヨンという20才の若僧は少々英語が喋れるということで話しかけてくる。英語は小学校5年生の教科で習ったといい、それ以来好きになりあとは独学で練習しているとのことである。立派なものである。彼の家族のこと、お寺での修行のことなどの話を聞くことができた。彼自身は小学校を終えるとデクワットとして同じノンカイ内のシーサケットという寺に入り、そこから中等学校に学んだそうだ。タイの地方において経済的に困難な子とも達がさらに高い教育を受けたいとするときの一般のスタイルはお寺へ修行にはいることである。ただし、男の子だけであるが。タイの伝統的な初等教育はもともとお寺がその社会的機能をはたしていたのである。日本でも寺子屋の類であろう。「このハイソック寺には僧侶が11人いて、デクワットは36人いるそうでみんなノンカイ出身」だそうだ。私もできれば一度こうしたノンカイの寺院で修行生活をしてみたいものだとふと思った。
 私のまわりに集まった若者たちとの貴重な時間を過ごすうちに夕日もラオスの森の方に収まってしまった。いとまごいも残念であったが「バスの時間があるので」と手を振ったのは午後7時半を過ぎていた。ただ、パヨンとは住所を交換し、今後、文通で交流しよう、そして修行があけたら彼の村へも一緒に行こう、なんていう約束をした。彼にとっては私が外国へつながるツールと見えたのだろう。









 

タイ・ユング旅行 ⑪ノンカイの夕暮れ  -’86 夏ー

2020-12-08 05:59:23 | ノンカイ
 407パッタナというバスの会社のオフィスへ。私が外人だとみて事務員が奥で食事をしていた女学生を通訳として呼んできた。感謝と言っても家内企業のようだ。彼女は英語で話しかけてくるので切符の予約以外にノンカイでの短期観光の仕方も尋ねてみた。バンコク往きは夜の8時30分、170バーツ。時計を見ればあと4時間残っている。炎天下の中長時間のバスの旅だったのでまずは静養兼飲食だ。涼しいレストランを教えてくれ、と。「パッタウィーホテルのレストランがいいでしょう。」と相成った。短時間の見学ポイントとしては「メコン川に沿って夕陽を眺めるのが最高ですよ。」とグッドアドバイスを受けて3バーツのサムローに乗る。川辺の長方形の邑なので地形的にはだいたい方角は分かるのだが念のために女学生はタイ語版の地図を書いてくれ「これをサムローにみせてください。」と心配りをしてくれた。
   パッタウィーは町の西はずれにあった。夕方にはやくまだ客足はなかった。広いレストランの空間に私一人であった。テーブルのメニューは手作りで面白いことが書いてある。「いま、あなたが食べようとしている魚は昨晩までメコンの川底に眠っていたものです。」と。いかにも新鮮そのものではないか。そしてその後に料理方法まで書かれている。「ニンニクと胡椒を使ってフライにする。チリソースでフライにする。甘味、酸味のスープにする。」メコン漁料理が売りのようだが、トムヤムクンと白飯だけを注文する。しめて45バーツ。このレストランのウエイトレスは全く陽気である。他に客がいないのと私が日本人だという珍しさからか食事を勝手にさせてくれない。「オシン」、「タナカユウコ」、「キモノ」、などなどテレビメディアの話題でたたみかけてくる。持ち合わせのメコンウイスキーをリュックから出して氷をもらってチビチビやる。一時間近くウエイトレスたちと談笑した。
 ナコンパノム、ノンカイいずれの町もメコン川に付着したように伸びるせいぜい1キロ平方キロの横長の町である。そしてこうした町の産業や生活 の強く影響している求心力といったものは、ずばりラオスとの交易である。そうした歴史的な流れがあったにも拘わらず、1975年の共産主義革命以降は全く往来、交通が遮断されたままであり、往時の盛んな活況は見られない。現在の姿は民芸品を売るタイ辺境の田舎町といったイメージしか感じられない。
 こうした地方の町々をスケッチしてみる。町の中央に時計塔がある。日本には中央にあることはないだろう。そして時計塔の針はたいてい止まっているかあらぬ時刻を表示している。森のようなところにワット(寺院)がどっかと空間を占め高い仏塔を競い、近代的な商店街の裏通りには商いと社交と人々のコミュニケーションの場を兼ね備えたタラー(市場)が自然発生的に形成され町の鼓動を感じさせている。また、近代的な学校施設も教育にかける意気込みを感じさせる。町を成立させている共通点はどこもこんな感じである。そしてバスに数分間乗れば人家は減っていきやがて数分間もたてば荒野の真ん中に放り出される、といった感じである。若い男が昼間からラムヤイを食べ合っている社会、人間が人間をいたわり、関心を示す社会の有る領域、そしてその領域を決して拡大する様子もないムアンの世界、東南アジアの内陸の「小宇宙」として町は静かに息づいて存在している。










タイ・ユング旅行 ⑩ノンカイへ  -’86 夏ー

2020-12-07 15:27:32 | ノンカイ
 8時半に出発したバスは9時25分タウテン、11時過ぎバンタドカンに着く。このころ洗面器をひっくり返したような大雨に見舞われる。メコン川を時折右手に見ながら平均速度40キロ位でバスは北北西に進んでいく。バーンペーンには昼の12時35分に到着。ノンカイまではあと136キロの標識が見える。午後1時15分バンピーの田舎町に。この辺りは検問が何回も繰り返される。その度に許可をもらいポールを挙げて進んでいく。ラオスとの相当の密貿易があるのか治安上の悪化のせいか?午後2時ノンカイまであと88キロの標識が見える。今度の検問はバスの下に積んでいる荷物のチェックである。乗客も行商人が圧倒的であることからしていわば闇の経済圏地帯なのであろう。3時過ぎにバンバッカパを過ぎ児童生徒がバスに乗り込んで途中で降りる下校すうる光景に移る。ノンカイまであと36キロ。それまでは一帯が疎林の原野かまばらな水田の景観であったがだんだん人家も増えてきて役所のような建物が見えてくると完全にノンカイ文化圏に入った感がする。バスもぎっしり混みだしてきた。初めからの乗客は私だけだった。
 ノンカイのバスステーションに着いたのは午後4時を少し過ぎていた。腰が非常に痛かった。8時間余りの長旅笠道中ではあったがすわノンカイバスターミナルに着けばバスから降りる乗客は次のメカニズムに向かって点々バラバラ跡形もなく霧散してしまった。思えば生活を抱えてない漂泊者は私だけなのだ。
   たいていの町でそうなのだがバスが着けば入り口まで「どこへいくんだ。」とサムローが取り囲んでくる。「バンコクだよ。」と答えれば「乗れ乗れ。」とバックと腕を引っ張る。まさかバンコクまでサムローで、という訳ではないだろうが「どこまで連れて行ってくれるのか?」と問い返せば「ノンカイ駅へ行けばいい。今からは汽車しかない。」と答える。汽車の旅も面白そうだがなにせ時間のない旅なのだ。何度か来ているノンカイでの見物はほどほどにして一気にバンコクへ南下しなければならない。「ブルーバスのオフィスに連れて行ってくれ。」と言うと「今日はバスはもうないよ。」と答える。先ほど降りたバスの男車掌の一人が私の方にやってきて「まだバスはあると思うがあそこの案内所で確かめたほうがいい。」と親切に教えてくれ、どこからか警察官も加わってブルーバスのオフィスを案内してくれた。この結末でサムローの運転手たちはサアーッと消えてしまった。ま ん が である。