せっかくノンカイหนองคายに来たのでラオス産の民芸品を少しでも買っていようと思いイミグレーションオフィスの付近をうろうろしたが閉店時間も近かったのか「買って行かないか」といった店子の積極的な売り込みもなくじっくりいな定めすることもなくUターンしてしまった。途中、イミグレーション・オフィスの中をガラス越しに改めて覗くとラオスへ帰る農民らしき一家ががござの上に無表情に寝転んでいるのが見えた。そばには大きな段ボール箱の荷物も見える買出しに来たのだろう。異様にその光景が目に焼き付いた。同じ血のつながった同胞たちが国境という線で離されてしまった、もっと自由に行き交える日はいつ来るのであろうか?”形式としての不自由”といったものを感じた。しばらく見入っていると中から警察官が私に気付きいったい何者であるか、といぶかるようにこちらに近づいてきたのでその場を離れた。あらためて考えれば私の場合は”形式としての自由”しかないのだが。
ノンカイの夜は本当に暗い。夜8時半出発のバスに乗るべくステーションに向かった。途中バンコクから到着したトラックが朝刊の包み束を販売店に放り投げている光景に出くわす。最近になってその日のうちにノンカイという最北端の町まで新聞というマスメディアが入ってくるようになったのである。ここノンカイでは各戸に配布なのか新聞少年が集まっていた。そういえばここのところバンコクポストなんか読んでみると北部、東北部の記事が随分増えた感じがする。
頭に入れた地図でバスステーションに向かって歩き出したがすっかり暗闇で様変わりたどり着けない。あと20分くらいしかない。少し焦りが出てくる。この道だろうと確信して進んでみるとますます人家のない細い道になっていく。どうしようか、と不安な気持ちで後戻りしようといた時に私を目で追っていたらしい夕涼みのおばさん連中が「どこへ行くのかェ!」と声をかけてくれた。「バンコク行きのバスステーションまで!」と答えると「ここじゃないよ。もっと東だよ!サムローでいったほうがいい。3バーツだよォ!」と親切にも声をかけてくれた。渡りに舟とはこのことだ。こうした窮地に追いやられた時の人々の簡潔な助けは後々まで明確に覚えているものだ。サムローのお世話にならなくてもと思ったがとにかく時間が迫っている。ギーギーと静かに音をたてて目的地まで乗せてくれた時にはバス出発5分前だった。
バスに飛び乗り、前から3番目の指定席に座る。少しエアコンが効きすぎるし座席がやけに狭い。お尻が痛い。痛いのは当然だ。今日は8時間余りのバスの旅をしてきたのであろる。更にこれからノンカイ~バンコク10時間のバス旅の延長戦だ。あれやこれや気分はマイナス、ネガティブに向かっているようだ。しかし、まずは間に合ったのだ。
窓越しにだれか都に行く肉親か親戚を見送る人たちが手を振っている。ブルーバスはゆっくりとノンカイに別れを告げた。660キロの真夜中の旅がいま始まったのである。ふとこんなイメージを持った。「ノンカイが口腔部分でイサーンの道中が食道でバンコクが胃袋。そこに食べ物として落ちていく自分。」地図を見れば確かにそんな感じもするが変な連想をするものだ。
途中、昨年お世話になったアピチャート校長先生のいるウドムタニーを通り過ぎあの時の楽しかった思い出に少し気分が高揚した。
午前2時頃にナコンラチャシマーのドライブインに降ろされ夕飯なのか朝飯なのか分からない、しかも匂いが極めて異文化を感じさせる食事が提供された。当然、胃袋は受けつけなかったが意識は覚醒させられた。それ以外は再びみたび意識はもうろうとなりバンコクまで気が付かなかった。朝の6時に到着。