長いこと行ってないし、一度、こそっと村を見に行くか?、と好奇心でH氏を誘って、バンコクのホテルからお忍び訪問を企てたのは、2013年10月のとある日だった。
ランシットまでは路線バスに乗り、そこから定期便のロットーに乗った。
運河はクロン12と13との間、というのは40年前から覚えっていた。そして運河の向こう側(右側)には樹木の繁みからイスラムのモスクが見える、それが私の目印だった。運転手や周りの人にも「クロン12と13の間で降ろしてくれ!」と伝えていた。
クロンを3つ目4つ目、8つ目、9つ目、と数えていた。クロン12を過ぎて俄然、私はそわそわしてきた。車の左右を見回す。「あっ!モスクだ!」、自力で到着できた!と直感した。でも、あれから道路は3倍以上4車線の高速道路状態になってるし、一面が田園だったランシット、タンジャブリーも工場ができ、学校ができ、しかも大学まででき、換金作物関係の農園が増え、都市近郊型の景観にすっかり変わったのだ。変わらぬものはクロンだけといってよかった。
「ここで止まってくれ!」と叫んで、二人は私が訪れるであろう辺りで降りることに。村の雑貨屋の前で降ろされた。昔は、こんな雑貨屋もなかったなあ、と感慨にふける。さて、車を降りて村に来たが、私が目指すソンブンの家はどこにあるのだ?まったく浦島状態だ。高床の広々とした家が道路から見えていたのに、そうした様式の家がそびえたっているようなエリアはどこにもない。平屋や雑木が点在しすっかり姿は変わっている。
雑貨屋の若女将に「すみません、この近くにサーム・ピロンポーンというお家はないか?」と聞いてみるが、この女将、よそから入って来たのだろう、「さあ」という表情だ。そうなんだ、村は40年も経てば変わるのだ、地縁共同体ですら都市型になっていくのかもしれない。
と、そこにバイクで中年の男性が物を買いにやって来た。そして、日本人と雑貨屋の女将とのやり取りに関心を持ってくれて、近寄って来た。そして何気なく私を見て、その時「キムラ!」「キムラが来た!」と叫んだ。女将はポカンとしていたが、近くにいた稚児たちがなぜか「キムラ!キムラ!」と言い出した。そしてついてきた。私は、そうなんだ、キムラ本人は知らないにしても「キムラ」という名前は、多くの村人の中では生き続けているのだ、と直感した。
その中年の男性をみて、私も思い出した。沿道のサーラでビールを飲んだ時の若者の顔、それが40年経っても面影が濃厚に残っている。真っ黒の顔で口角が張り、肌がぎらぎらし、目が澄んで、そしてビールをいれたグラスで私のグラスと乾杯してたあの時の満願の笑顔の面影がそのままなのだ。「キムラ、俺について来い!」と言って雑貨屋からややバイクを引きずって後戻りしてピロンポーンの屋敷まで案内してくれた。そして屋敷の繁みに向かって「キムラだ!キムラがきたぞぉ!」と叫んでくれた。
屋敷の方では、もう私が知らない世代の子ども達が遊んでいた。その叫びに呼応する者はいなかった。それでも、私が道路からその屋敷に入ろうとしたその瞬間、「オーイ!キムラ!キムラ!」という女性たちの声が遠くから聞こえる。2人の女性が道路の向こう側のクロン側から、渡ろうとしている。激しく行き来する車の間をぬって駆け寄って来ようとしている。甲高いは、聞き覚えのある、あきらかにソングシーの声だ。
胸がジンとした。隠密で来たはずの村で歓迎の爆発が始まろうとしているのだ。後ずさりできない。ソングシーと一緒に道路を渡って来たソンブンが「キムラ、何日いる?泊まっていけ」といきなり叫ぶ。これも40年前に耳にした同じセリフだ!私は無条件で涙腺が緩んだ。目頭が熱くなって目をこすった。そして手を取って握り合った。
ソングシーも泣いていた。
思い返せば40年の月日は長い。しかし、40年前の思い出はそのままお互いの心に残り生き続けている。その時の瞬間瞬間がまざまざとよみがえって来る。40年前、私が村を去る前夜はみんな家族や親族は黙りっこく、ある意味で不機嫌になっていた。「キムラ、いつ帰ってくる。」と聞いて来る。そうだ「飛行機が飛ぶ音を聞くとキムラが来たな」と思う、という者もいた。
その間には、お互いではあるが、亡くなった人もいる。結婚してどこかへ行った人もいる。そして、ここに住んで家族をもって子どもも設けて、さらに孫までもいる。洪水で溺死した主婦もいれば道路で車に轢かれた子どももいる。当時、唯一、中学に学び、先生から英語ができる、と褒められていたソンブンは突如、迷い込んだキムラの通訳という役目になった。