知らないタイを歩いてみたい!

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タイ・ユング旅行 ②ウボンラチャタニー到着  -’86 夏ー

2020-11-28 05:04:42 | ウボンラチャタニー
 ラーマ四世通り近くのホテルに逗留する。ホテル近くのメデアインターナショナルという観光オフィスで東北タイのフライト便を探す。明日の便、ただ一便コンケン経由ウボンラチャタニー行のみ。飛行機で東北タイは似合わないが、悲しいかな時間がない。とにかくウボンまで1300バーツで購入する。いよいよ駒が動き出した。
 翌朝、気の良いタクシードライバーが「誰よりも安く送ってやる。」と驚異的な料金で空港へ連れて行ってくれる。なんと180バーツ。それも40分少々で飛ばしてくれる。まだ涼しいそよ風を肌に感じる7時、国内便に搭乗する。
 東北タイの人々にとって交通手段といえばバス、時として汽車であって料金がその10倍もする飛行機は大衆の足ではない。そんな機内にどんな人たちが乗り合わせているのだろうか?興味あるところである。機内を見回してみる。地方官僚、中国人商人、といった風采の人半分。あと幼児を連れた母親、髪をにグロにしてジーパン姿の女性、黄衣を身にまとった高僧数人といった取り合わせである。日本人はもちろんいない、旅行者風の乗客もひとりもいない。
 あるガイドブックにはウボンについて次のように触れている。「「ウボンはラオス、カンボジアの近くにある、一般の外国人観光客はまず訪れることのない辺境のまち。。。。」「ホテルと言えども蚊に刺されるとマラリアになる危険性もある。」云々。空港まで送ってくれた運転手も「あんたも変わった所へいくな。あっちのほうは絶対現金など持ち歩くなよ。」と警告してくれ仏陀のお守りをくれたくらいだ。
 障子の桟の目のような広大な中部水田デルタが雲間の彼方に見え隠れするころ機内食が出ておぼろげな意識は遮断される。コーヒー、オレンジ、チョコレートケーキ、それにサンドイッチ。つつましい満足感を味わう。国内線はいつも愛想のいいスチワーデス達である。まどろみの後、窓から下界を覗けば赤い土壌が朝陽に深く焦げ、血のように鮮やかである。土壌に付着している自然林が植樹林に入れ替わるころ、コンケン経由TH202便は行へ気ままに蛇行する川を抱くウボンの地に滑り込んだ。午前9時半である。
 空港は軍事機密があるので写真撮影は禁止。なんだか西部劇に搭乗するバラックのような建物だ。空港到着フロアには送迎のための地元民がパラパラ。そよ風がオフィスを筒抜けていく。タイ特有の「俺のタクシーに乗れよ!」といって群がる運転手は一人もいない。拍子抜けの感である。空港という存在はウボンの庶民の生活とはそれほど縁がなさそうである。
 花の名前は判らないが可憐で鮮やかな朱色の花が目に焼き付く。こうのようにあっけらかんと人々から無関心でいられるのも旅の者にはよし悪し、いや少々疲れるのも確かである。
 やがて遠くの木蔭から農婦が近づいて来る。「何か用かね?」のんびりと尋ねてくる。「少し町を見たいのだが。」情景はまったくスローで転回する。農婦は遠くへ向かって「オッエ!」とか叫ぶと小型トラックが穏やかに近づいてきて「とにかくこれに乗りな!」となる。日本の軽トラックに荷台にホロをかぶせたものである。運転席に飛び込んで「ウボンを見学したい。」と要件を告げる。出来る限り時間を切り詰めて今日中にメコンを北進したい。だから午後早くにも次の今日の宿場町ナコンパノムへ行っておきたい。そのためにここではチケットをもとめてとりあえずバスステーションへ直行する。
 疎林の高原の間をぬって10分ほど走るとウボンの街である。辺境の街という感じは全くしない。よくあるムアン(邑)の類の町である。ショーウインドを備えた洋服店もあれば、自動車会社も電気屋もある。タラート(市場)も映画館も中華レストランも活況を呈している。文字通り現代ムアンである。次なる目的地へのバスは午後2時出発である。エアコン付き座席指定。とりあえず次に駒を確保できたのである。
 バスの切符を買った後、残り4時間の行動計画と案内料を決めるためにステーション隣の茶店に入る。実をいうとウボンについての知識は何もないのである。そんな時は必ず私のオーソドックスな切り札を出す。それと現地ガイドの推奨の地と混ぜ合わせてプランが捻出される。①農家が見たい、できれば昼ごはんはその農家で。②川が見たい。毎度、国際線機上から見下ろしていたウボンラチャタニーの沼のような川が見たい。③ひとびとのエネルギーに触れたい。それはタラート(市場)に限る。臭い、喧騒、熱気、見たこともない動植物、タラートはその町の活況のバロメーターである。④もちろん寺院もはずせない。ウボンで一番由緒があるといわれる寺院はぜひ訪れておきたい。⑤おっと落としてはならないのは学校である。地方の教育機関の実態は見ておきたいところだ。ガイド兼運転手は一瞬私の要望に不安と驚きともとれる表情をしたが「了解。」と答える。しめてガイド料は250バーツ。当地では決して安くはないであろう。

 


タイ・ユング旅行 ①旅の決断原則  -’86 夏ー

2020-11-25 06:34:46 | ウボンラチャタニー
 今年の夏もタイに行くことができた。大阪でもドムアンでも空港発着時にはたくさんいた日本人乗客も実際の私の10日間のタイ視察旅行には一人も出あわなかった。
 つまり、この10年来の私のタイ行きもそのパターンが段階的ではあったが変化してきたことによる。タイ人ガイドとの観光的システムにいやがおうでもつき合わされた初期のパターンからタイの農民や教師らと知り合っていくなかで最近は彼らの普段の生活空間の”流れ”にまかせたり、一人でのんびり地方探索にひたったり、いわば肩に力の入らない旅ができるようになった。必然的に日本人を見かけることもなくなったのである。
 日本ではまず紹介されることはないであろう生きとし生けるタイの庶民達との出会いをたとえ10日余りの滞在であっても毎年繰り返せば彼らの時間の流れの中で彼らの実態象がみごとに写し出されのも事実なのである。私のその意味でタイに何年いたとかという時間論よりも短期間であっても、誰とどんな風に関わってきたかという様態こそがその国の心底を真に捉えうると言いたい。
  本稿では、はじめに今回の単独探訪記を書き記し、その後、先ほど述べた視点をもってこちらの意識を相手の意識構造の流れの中に近づけた場合何が見えたのか、その一端を具体的に述べてタイの現在の姿を理解する一助としたい。
 とはいえ10日余りの日程では行ってみたい地域、毎度言っている地域いずれもこころゆくまで回ってみることはできない。東北タイのメコン川バス北上の旅、北部の国境の町メーサイ再訪、南部鉄道の旅、どれも魅力的である。あるいは今回はバンコクの大学のキャンパスに身を置いて思索してみるのも魅力的だ。中等学校の教師カニヤさんにも、中部農村の女学生ソンブーンにも会ってみたい。
 いろいろ具体的に計画を練ってみるがどれも削るのはつらい。裏返していえば衝動はあっても策がない、というものだ。バンコク到着してからもどこへ行くべきか適地の選択に迷っている。だが、いつまでもそうは言っておられない。
 到着翌日、決断原則をたてて気持ちの整理をする。①時間のかかるコースをまず進む。もし少し後で行きたくなっても時間的に取り返しがつかない。②現地に来て、そうすることが億劫になっている、エネルギーがかなりかかる、が、日本にいるときには一番行きたいと思ったところ、そこははずせない。③タイの友人、知人には必ず会っておくこと、等々である。
  タイへ来てこんな理屈を考えるのも楽しいものだ。とにかく私はタイの流れに身を置いたのだ。原則に沿ってまずは当歩期待、メコン川北上のバス紀行、残りはタイの友人たちの訪問ということに落ち着いたのである。


 
 


【今夏、タイで考えたこと】(1988年)

2020-11-25 05:01:39 | ハノイ
 日本人はエコノミックアニマル。隣国C国、K国はポリティカルアニマル、それじゃあ、東南アジアのタイ王国はどんなアニマル?私はほんのジョークで「サイコロジカルアニマルだね。」と思いついた。サイコロジカル、つまり「心理的」大国がタイ王国だと思ったのである。
 タイ王国には数え切れないほどの友人がいる。そしてその友人すべてが「もう一度会ってみたい。」と私に思わせる人々だ。彼らは何回会ってみても私の旅を本当に心地よいものにするテクニックを持っている。
 何日の何時にドムアン空港に着く、と知らせたとする。その友人ばかりでなく友人の友人たちが大勢で迎えに来てくれて誰かの車にお世話になりバンコクの路地裏の屋台で夜を通して歓迎パーティーとなる。その場には約二十人は居合わせる。友人ばかりでなく家族、親せきの人もいる。通りかかった人もいたことがある。
 最初の方は私も外国人(日本人?)ということで結構相手にされるのだが途中から興が長ずるに及んで私なんかほっぽり出された格好になる。程よい無関心もまたいいものだ。
 タイ王国の農村でも行こうものならこうした歓迎パーティーが村全体のものとなり村長さんとの会見も設定されることになる。私はタイ語はそれほどできないが彼らはそんなこと一向に気にかけない。日本の民謡を二、三曲歌っておけば彼らは大拍手。手拍子もうまい。そしてお返しに彼らからカラオケなしの肉声のタイ歌が夜通しプレゼントされることになる。こうした友人の一人一人に会いたくなったらまたタイ王国に来ることにしている。今夏で十回目を越したか。
 タイ王国の仏教教科書はタイの子ども達の行動規範に大きな影響を与えている。その中には「人間が何かの行為をするときの基準」がたくさんかかれている。ある章に「友人成立の法」というのがある。「楽しく暮らしていくためには人と仲良く付き合っていくことが大切である。これがなければ糸を抜き取った着物、ニカワを剥がしたノートのようなものでバラバラになってしまう。」とある。人と人との間の情によって人間社会は緊密に構成されている、と教える。そのために人間は「有形無形の施し」を、「相手をおもいやること」を、¥目上の人に礼節」を、「いたわりの言葉」を、といった実践面での行動規範が教えられている。つまりは「心を鍛えている」のだ。
 今夏もタイ王国で数人の友人と語らっているときに彼らは「鍛えられた感受性」があると実感したのである。
 タイの人々は「サイコロジカル」に日本人である私をタイ中毒にしてしまった。でも、私はあまりタイ王国の農村へ行くのはよそう、と思う。なぜなら私が逗留している間は人々が農作業をストップするからである。(1988年11月の稿)