「東南アジアで考えたこと」
一、『質しい」ところ
私はここ数日東南アジアを旅しているものです。一 人でリックを背負って農村から農村を歩いているものです。時々、なんでこんな ことをしているのだろう? と不思議に思いながら。
一度でも東南アジアに かれた方はその「食しさ」,「不衛生さ」「不能率さ」 強烈に印象に残り「もう、あんなところはいかない!」とお考えになる方が多いでしょう。
私も確かに日本と比べてみるとその通りだと思います。空港に降りれば怪しげ な業者が数多くたかってきて、配車からホテル宿泊から観光地の手配までしつこく迫ってきます。
一歩街路に出れば簡易バスに人が鈴なり。信号が赤で停まれば就学年齢の児童が花を売ったり新聞を売ったり。掘り起こされた建築現場でも幼い少年までも泥だらけになって働いています。
観光巡りと称して運河でもめぐれば「俺のボートは安い!」と腕を引っ張る。運河は褐色に濁っている。その水で顔を洗い、洗濯をし、米をといでいる。
東北タイの方へ行けば、干ばつで米は獲れず、野山の木の芽や虫を食べてるところもあります。ラテライトの赤茶けた土が素足で学校へ向かう児童たちの後から煙のように舞っている。
その児童たちの多くは、読み書き算ができれば小学校の途中であってりも止めて働くのです。どんな勉学の意志があっても。
ですから、東南アジアの人々は確かに「貧しい」し、生活は「不衛生」なのです。そんな現場からは目をそらしたり、あまり関わりたくない、と考えたくなるのも事実でしょう。
二、本当に賛しいのか
しかし、と私は言いたいのです。しかし、私は アジアの姿をそうした基準のみでみてあとほったらかしていていいものだろうか と思うのです。結局そうし た日本人のおおかたの認識の仕方が気になるのです。つまり、経済的な見方が我々には肥大化しているのです。お金という尺度で、商人の目だけで世界を見て いくことは文化的、歴史的 人間の財産を切り捨てることにつながるのです。そこ には人間中心のっ座標が当然 ねしまげられるのです。
タイの農家に泊っているとおかみさんか朝早くから起きて食事の用意をしてくれます。子どもたちが近くの市場まで料理の材料を買いに行ってくれます。稲刈りの仕方を周り若者が教えてくれます。夜は村の人たちか 唄をうたってくれます。彼らのだれでもが「楽しいか?」「面白いか?」と聞き返します。
相手が自分たちの村に来て「本当に楽しんでいてくれるのかを一番気にするのです。そうです!「安逸」であるかどうか、このことが彼等の視座にあるのです。そこには、デレビやマイコンの豊かな物質的な基準を持たない、人間中心の本来の幸せを求めていこうという空気がいっぱいにあるのです。貧しくあっても。
私は東南アジアの高床式農家にいると、日本が寒々とした列島にみえたり、日本人が黄色い西洋人に見えたりするのです。
(山城高校育友会新聞(昭和59年12月20日)