知らないタイを歩いてみたい!

タイの地方を紹介する。関心のある方の集まり。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

ムクダハンで出会った農夫

2024-01-13 12:27:35 | ムクダハン
 令和5年(2023)の5月に、一般のツアーの方々と別れて一人で、ウボンからムクダハンに行きました。これまでもそうであったように、ムクダハンにはどういう人が何を考えて暮らしているのか少しスケッチして見たかったわけです。

 まずは、ムクダハンで農業をしている人と会ってみたいと思い立ち、ムクダハンについてベンツ君に会うなり、「どこか農家へ連れて行ってくれ!」ということで観光のお寺周りを切り上げて田んぼに向かうことに。

 ベンツ君と気楽に言うがムクダ高校の日本語の先生である。今日が初対面であるがオンラインでは顔を会わせていた。気さくで笑いの絶えない青年である。本来は彼の学校を見学したいところだが、以前からムクダハンという土地で暮らす人と話がしてみたかったのである。

 彼の車で市内からやや南の方へ車を走らせた。ベンツ君であるが、トヨタの車である。国道離れて、すぐに森の中の道に入る。南に走っている。やや丘陵地帯の起伏があるところで畑もあれば田圃もある。民家や小さな雑貨屋さんも見える。さらに20分ほど走って道路がやや細くなってまさしく周りは林や畑の田園地帯だ。

 どこか野良仕事をしていてあまりお邪魔にならない農夫を探す。「いた!あそこへインタビューに行こう!」と運転手兼通訳のベンツ君に頼む。道からそれて50メートルほど左奥の竹やぶの周辺で農作業している夫婦がいる。

 ここぞとばかりに、つかつかっと近寄ってみる。ベンツ君が先に行き、日本人が来ている、農村の話を聞きたいといった交渉してみる。作業の邪魔をしてはいけない。ベンツ君は「オーケー」のサインをして手招きしてくれる。私はタブレット、豆ノートと筆記具を取り出しながら近寄っていく。

 気さくそうな農夫である。竹藪を一つの田小屋のように使っている。藪の中で女性がもえき(竹?)を集めて束ねている。奥さんだそうだ。
夫、マナット(シーサップチャナート)50歳、妻 スラダー45歳

 住んでいるところは近くのムアン内ロンエン村パーポーンポーンという村である。毎日、野良仕事に来る。朝、7時に出て夜6時頃帰る。推測だがこの辺りの牛飼いは牛に時間を合わせているようだ。奥さんともどもこの村で生まれ育つ。自分の親も同居である。

 今は農閑期であと2か月後に米を植える。水田は30ライ持っている。
3ヶ月で稲刈りである。だいたい毎日7時頃から夕方6時まで野良仕事をしている。今日の仕事は、妻は、家で使うまきを切って束ねる作業、自分は田んぼの整地をする。


 子どもは娘3人いる。上が27才で家事手伝い、真ん中が22才、工場で働いていたが現在は失業中、下が18才、高校を卒業して家にいる。親としては家にいずに、どこかの工場で働くことを希望している。

 お米以外に畑では甘藷(芋)を作っている。いろんな農家から集めて農業センターへ持って行く。マムアンも作っている。ユーカリ、ゴムもやっている。牛も飼っている。この地帯の典型のようだ。やはり日照りが大変である。ソンクランからずっと雨が降っていない、とマナットさんは言う。

また、会いましょう!というと、「田植えが終わったら暇になる。

一緒に飲みましょう!」というムクダハンの親戚となった。いつか行けるかな?


派遣事業報告会の挨拶

2024-01-13 06:18:13 | ナーン
私は過去、数十年間、日本の子ども達をタイへ連れて行きました。とてもたくさんの数です。

なぜ、連れて行ったのか?

それは子ども達が変わるからです。大きく成長するからです。
子ども達は、とても豊かで敏感な感性を持っています。

例えば、友だちができるのかしら、言葉が通じるのかしら、と日本の現実から判断して、タイにまいります。結論から申し上げますと、友だちから逃げたいほど多くの友達ができます。言葉よりも、笑顔や行動がすべてのコミュニケーションだと知ります。


もちろん、そうでない子もいます。でも極めて少ないです。
また、タイへ連れて行くことのみで大きく成長するわけではありません。他にもいろんな方法があるでしょう。

でも、日本で40年近く学校で教師をしてた私としては、<タイで成長させたい>という願望が捨てきれません。

なぜか、タイでは、日本ほど時間に追われることなく、ある意味で時間を楽しんでいる、時間をとても有効に使っている、そんな姿を垣間見る、ことも大切だと思います。

また、伝統舞踊を嗜んだり大切にしていること、つまり伝統を生かしていること、仏に手をあわせること、おじいちゃんおばちゃんを、家族を大切にしていること、こうしたことは空気のように当たり前のこととして漂っている。学校で教えて出来るものではありません。相手を気遣ったり、もてなしを行動に移す姿を日本の若者はタイで目の当たりにするからです。


今回の旅行のねらいは、まさにそこにあります。

今日は彼らが体験したこと、見聞きしたことを、彼らの言葉で発表してくれるものと期待しています。もちろん、こうした宝物は、言葉で言い尽くせることはわずかだと思いますし、今、どうこう、というよりも、今後、彼らが人生を生きていく中で、ふつふつと思いだされ、生きる上での指針になっておくものだろうと思います。


幸いにして、今回はスタッフが3人随行してくれました。期待している者は私だけでない、と証明されたのではないか、とひそかに豪語しております。

ありがとうございました。2024 1/20  


「タイをなぜ歩くのか}

2024-01-12 11:50:54 | 旅行
昭和55年9月30日発行(1980)
「タイ」のこと (英語科)
―タイ語雑感

「英語さえやっておけばなんとかなる」といって英語会話熱は日本でも盛んである。なる程英語は 国際語になってしまったから世界の人々と語らう場合の最低条件あろう。また進んだ国々の文化 知識を吸収するのにも英語が読めることが必須条件であろう。

ところが面白い話を聞いたことがある。中東のある国に毎年数名の駐在員を送っているある企業の 人事担当の人の話である。毎年英語が堪能な社員を選んでその国に送っていたのであるがある年にち ょっとした事情でタイ語を修めた社員を一名その駐在員に含めたのである。その一名の加入で現地で の経営がそれ以前よりも随分うまくいったという。もちろんその社員の個人的資質にもよろうが、そ れ以後人事担当者は何故かタイ語 に精通した駐在員を毎年加えているそうである。アラビア語とタイ語の関連性は 全くないと言っていい。タイ語より英語の方が会話は通じるのは自明の理である。であるのになぜ現地の人々とスムーズに意思疎通ができて企業にとって成功するのあろうか。

私はタイ語に固執するつもりはない。インドネシア語でもクメール語でも朝鮮語でもいい。すべて世界的に見ればマイノリテ な言語である。そうしたマイノリティの言語を知る事は今日的に大きな意味があるような気がするのである。

そこにはお互いの意思が記号的に通じる以上にある文化を真摯に 理解しようとする態度が体得され ているのではなかろうか。マイノリティ言語圏はほとんどが開発途上国 か中進国である。物質文明などの点からみれば確かに日本より劣っている。しかしそんな国の言語をやっても「益にならない」あるい は「儲からない」と打算的見地立った上での言語観はおかしい。

自分の国の文化が絶対的に優れているんだという認識は正しくない。また欧米さえ知っておれば事 足りるという認識も今日的状況の「中では正しくない。物質文明、科学的知識の面から見れば西欧が断然すぐれていようが、事前の中で自然の恵みをうまくコントロールし、自然と人間がほどよく暮らしていける知恵を持った文明という観点から見れば西欧が一番とは言い切れない。

紙面の都合ではなかなか具体例はあげられないが、私はタイ農村を歩く中で、そうした知恵という ものを数多く見てきた。文化とは 相対的な価値観で見なければならないということを痛感している。その風土にに適したその国での合理的な文化がしっかりと形成されている。

話を元に戻そう。「英語さえやおけば」という発想でいろん国に接する事は英米の精神文化やその価値観のみで世界を知ろうとする態度で、本当のその国の人々の襞まで知ることは不可能である。英語で割り切れない所に本当の人々の気持が散らばっている。そうした心を切りてる武器としてその発想はマイナスに働くことがある。その点を留意しておく必要がある。

もちろん英語に精通する意味は決定的に大きい。また、英語圏を理解する場合は特にそうである。世界の人々に接する最低条件であることも事実だ。しかしあくまでその国の言語はその国の精神をバックボ ーンとしている事も十分知っておく必要がある。さらに英語や、過去においては中国語も世界的にみれば巨大優位言語であり、いわゆる我々にとっては「上ばかり」見ている外国語の吸収様態でである。
自分より劣っていると見なす言語は全く無視する傾向が日本にはあるのである。本来の外国語得の 意味はこの様な様態にばかりあるはずはないのである。

この事は生き方、考え方の問題として私に大きくのしかかっているのです。だから自分が自分を間 う問題として私はタイ語を含めてタイを調査しているのです。


日本の高校生を三日間、ウトラデット・ダルニー学校へ連れて行く。②

2024-01-12 06:51:55 | ウタラデット
二日目月曜日
テウ先生に7時過ぎにホテルへ迎えに来ていただく。ホテルはドゥ。タラ。インという。後ろのドアをあけると、一面にナン川がやや忙しく左に流れているのが見える。東映映画村のようなうす暗い、侍がいてもおかしくない道路事情。学校へ向かうバイクが目立つ。今日は制服はサンタの服装でもいいそうだ。メリークリスマスの挨拶や服装や。何人かに「メリーキスマス」といいながら飴玉をもらう。また、腕に自分で家で作ったという白い紐を巻いてくれる生徒も。うれしいね。
講堂で待機したあと午前8時前に運動場の正面の掲揚台のある晴れ台に。3千人の生徒たちが動いている、座っている、歓声をあげている。校長先生の挨拶「今日は特別のお客様、日本から来てもらった。」との紹介で、一人ずつバナナで作った花をいただく。通訳はテウ先生、ノット先生が。私は「日本タイ教育交流協会の代表です。6人の高校生を連れてきました。協会は日本とタイの青少年の未来の懸け橋作りでやってきました。3日間、日本の文化とタイの文化で交流することを楽しみにしてます。どうぞよろしくお願いします。」と言っておいた。サワディーカップ、私はタイ語が話せません、とタイ語で言って笑いをとる。あとはスタッフの自己紹介や、生徒たちの挨拶に聴衆は歓喜。ワーという雄たけびが沸き起こる。感動感激の瞬間である。終わって講堂へ移動する。


歓迎の式典、上段に校長先生が登壇し、花壇では副校長先生が、解説。終われば校長先生のご挨拶。そして日本人10人と先生方の記念写真。そして、歓迎のタイ舞踊。解説ではアユタヤ時代の日本とタイの親交の証として踊られたものとか。タイ衣装と浴衣姿の生徒たちが10人ほどで踊ってくれた。本当のタイ舞踊をみたければ少し物足らないかもしれない。あと、6つのグループに分かれてろーいかとんの踊りを丁寧に習う。左手右手交互に動かす練習を十分繰り返しラムオンの曲で輪になって右回りに輪を作って踊りだし。私も入るとカメラがずっと追っかける。
やがて我々の番である。リハーサルなしの本番を見せることに。さくらさくらと上を向いて歩こう、日本の高校生はどうも集団で歌うという経験は少ないようだ。これはびっくり。我々は一緒に歌うことはある。彼らはイヤホーンで聞くか、カラオケでも一人でマイクで歌う。こうした合唱のようなことは全く苦手のようだ。仕方ないのでユーチューブで聞くことにしたが、それが今やっている歌詞と違うのだ。まあ、タイの皆様には楽屋裏を見てもらい、ひらかなの練習程度でこの全体発表は終了。次は各個人の日本の文化発表だ。これはなかなか見せてくれるものが多かった。日本の日常生活や高校生活を映像や動画で紹介する。また圧巻は家族の紹介だった。その中で、ペットがいて、夜は自分の家に、朝はおじいちゃんの家にいるという紹介があった。家族のすばらしいありようがあって日本人の私も考えるものがあった。最後は6つに分かれで日本文化の体験交流。着物ゆかた男用女用、お茶、金平糖のお菓子付き、にわかスタッフの書道教室、そろばんみんな輪になってそろばんをやっている。10個くらい持参しての大盛況。そしてドラえもんやトトロのスマホを使った歌や踊りをまあ、それなりにやっているグループ、そして英語を流ちょうに駆使して、音楽に合わせて見事にけん玉をこなす小春さん。生徒たちもワーワーキャーキャーと言って自分でやってみるがうまくいかない、じゅずにできたいずれの場合もギャーキャーの歓声。そのルーティンで時間的に消化不良だったが十分満足できる時間だった。
お昼になり、生徒たちは食堂へ消えていた。先生方は講堂の片隅でゆっくりとガパオや果物をいただいてなごむ。
午後は4時までは数学や日本語の授業に参加する。我々は見学させてもらった。生徒たちはタイの生徒とすっかり同化していた。我々はフライディーとかいう商業施設の横にあるマッサージに2時間、疲れを癒した。
4時半ころから、大きなレストランのムーカタパーティーとなる。3人のタイの生徒が上手な日本語で挨拶をしてくれた。敬語も使えるし起承転結もあるしみごとな日本語であった。だれが教えたのであろうか?そのあと日本人がひとりずつ挨拶をした。私にも順番が回ってきたが協会の招聘事業やスピーチコンテストのことに触れておいた。8時前にホテルへ帰宅。

大きな宝物をいただいたような気がします。
いまはその宝物が何かを十分説明できないけれど、皆さんの笑顔やもてなし、思いやり、のあたたかい心が日本へ帰ってからじわじわと思い出され、いま日本では欠けているところのこころにずしんと教えてくれる素晴らしいこころを豊かなものを得ていく気がします。タイに来なければ得られなかった素晴らしいかけがえのない宝物をいただきました。ありがとうございます。