知らないタイを歩いてみたい!

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ノーンタカ村(9)小学校 その二

2021-12-07 17:59:23 | ウドンタニー
 「教室の配置は日本ではどうなってるか?」「どう配置すれば学習効果はより上がるのか?」、「アドバイスをくれないか?」と校長先生のアピチャート氏は職員室の左側にある下級クラスの開き戸をあけながら教室に通してくれた。
  硬いチーク材で作った二人掛けの机や一人用の机が教壇の方を向いて並べられている。これなら日本と同じです。私はこの点での知識がないので、よくわからない、と返答しておいた。余った机が南側に寄せられている。机の右上には紙の名札が張り付けてある。名前を覚えさせるためなのか、指定席で指導上の配慮なのかわからない。教室の中は壁は白く塗られているが窓は狭く、電燈もなく昼間から暗い。明暗よりも外気の温度や暑さを遮るための暗室のようである。床と床の隙間から光が差し込んでくる。
 正面の壁には国王、軍人の写真が掲げられ、タイの三色旗の国旗も吊るされている。また、壁に限らず黒板の端、柱などに花の絵、世界の衣服、日本の絵葉書などが所狭しと飾られている。英単語がマジックで書かれた白い模造紙も張られている。田舎の十分な文明文化が行き届かない小学校での児童用のミュージアムのような機能を演出しているのだ。バケツで作った植木鉢もおいてある。壁にはスコップや鍬鍬、馬鍬、かごなども吊り下げてある。それぞれにタイ語でその名称が書かれている。あらゆる空間が様々な工夫を凝らしてあり、どうすれば児童生徒が知識理解を通して意欲を出すのか、学習効果があがるのアピチャート氏の精一杯の児童生徒への創意工夫に感服する。
 職員室の右側には3,4年生の教室、そして保健室、図書館が共用する。保健室と言っても竹製のベット一個とカボック製の古汚い枕が置かれているだけだ。国連から寄付されたという医薬品が小さなビンに入れておいてある。図書館を観る。古ぼけてカバーのない書籍が2,30冊棚の上に積まれただけである。日本で読み捨てられた児童書、児童雑誌をぜひ機会があれば寄贈したいものだ。今は休校中だが、できれば一度授業も観てみたいものだと思った。
 昼間であるが教室は異様に暗く異様な静けさであった。
 ふと思った。田圃で水牛を追ったり、ニワトリやアヒルにエサをやったり、幼い赤んぼうを背負って家の世話をしている子ども達にとって、この学校こそがすべてもの広い視野を身につけ、社会に向かって世界に向かって準備する知識や技術を教わっていくセンターなのだ。この白いちっぽけな建物は、この辺りにとっては世界へいざなってくれるセンターなのだ。また、思った。教師たちは、どういう工夫や指導法でこうした子ども達に少しでも興味を持たせ効果の上がる授業をしているのか? 
 
 私はそうした授業風景に接することはできなかったが、あるアンケート調査を持参してきたのでアピチャート氏にお願いして実施してもらうことにした。(現在、手元にデーターを保管している)結果は別の機会に触れることにする。
 


ノーンタカ村(8)小学校 その一

2021-12-07 15:42:52 | ウドンタニー
 アピチャート先生の勤める学校は村人により40年ほど前に創立された。設立費用の総額がどれくらいだったか判明しないが、公的な支援は2500バーツぽっきりだったというから余りはすべて村人の捻出によるものである。
 現在、先生は5人おり、すべてが男性で、アピチャート氏が校長である。「あと2名は教師がほしい」と彼は言う。全校児童数は153人である。(1年から6年まで)。
 教科は、タイ語、算数、地理、社会(歴史)、芸術、農業があり、上級生には英語がある。農業は最近、導入されたらしく校庭の一画に菜園をもうけて作物実習をさせているとのことである。
 始業は8時半、午後3時までの6校時ある。
私の訪れた7月下旬は村が農繁期であり、田植えシーズンであり、7月20日から15日間、休校であった。面白いことに、休校は学校ごとにいつからかは決めるようだ。その年の雨の具合で、その雨を貯めて田植えをする、その時に休校を決めるそうである。

 翌日、アピチャート氏、奥さん、ガイドらと彼の勤める小学校、ノンタクライ小学校へ行ってみた。

 昨日通ったデコボコの水牛道を再び車で走ったが出会う人はいない。学校までは約1キロくらいな道である。両側の田んぼと言っても段々状の比較的小さく狭い田圃であり、その数百メートル先は低木が繁る草原、その向こうは鬱蒼とした森である。やがて上半身裸の男の子二人が町へお使いに行くのに出会った。遠くカノンという木のそばに水牛に乗っている若い農婦が見えた。しかし、ほとんど大自然の中を行くようで閑散としていて不思議の森を走っているようだった。森の中に池が見えて、その周りに5~6軒の農家が現れた。村である。
 さらに奥へ入っていくと朽ち果てた木の棒が点々と立ち並び牧場の柵ので囲まれた草だらけの広場が現れた。これがノンタクライ小学校の運動場であった。運動場には数羽のニワトリが餌をついばんでいる。運動場の一番奥にトタンぶきの白い校舎がややヤシの木に隠れるように建っている。その右側にもう一つ高床でない白い建物が現れた。作業棟とのことである。校舎は民家よりも少し大きめの高床式の建物である。運動場を右手に50メートルほど行った所に校門がある。入り口にはコンクリート板に「ノンタクライ小学校」という校名版が横書きにしっかりと設置されている。校門を入って先ほどの白い校舎にたどり着く。その校舎の屋根はトタンであり、コーナーごとにブリキの雨どいが下がっており、その下には数個の水タンクが置かれている。銀色にやや錆びかけたタンクには「2514」という数字が書かれている。タイ仏歴の年号であり、1971年の設置だと判る。このタンクの水が児童生徒の飲料水となるのであろう。その白い建物は中央から見ると協会の様にも見える。中央に木製の階段があり、昇りきったところの部屋が職員室である。窓が小さいので中は異様に暗い。職員室の入り口のところに就学児童生徒数と各学年の生徒数が男女に分かれて書かれている。一学期、二学期と別々に数字が書かれているが変動はなさそうである。詳しく見てみよう!1年生男子11名、女子18名、2年生1組男子8名、女子7名、2組男子6名、女子9名、3年生男子9名、女子8名、4年生は1組、男子6名、女子9名、2組男子3名、女子11名、5年生は男子16名、女子7名、6年生男子9名、女子16名。累計は男子68名、女子85名と書かれている。その横に担任の先生が書かれているが、教師は全部で5人であり、1年生には担任がない。2,4年生は2学級だが一人の教師が兼任している。学級の定員は30名で一クラスの勘定にしてある。
 

ノーンタカ村(7)アピチャート氏

2021-12-06 08:06:14 | ウドンタニー
 アピチャート氏。名字はアビロット。年齢は31才である。
彼の父は軍人であり、ラオスとの戦役で戦死。母は元米軍のキャンプに勤める役人である。彼の妻は「ミャーシオ」といい29才である。生まれはシーサケット県。若いころウドムタニの美容院で働いていてアピチャート氏と知り合ったそうである。
アピチャート氏には2児の子どもがいて、上が4歳、下が1才である。奥さんは夫にあれこれ指示をするようなタイプでもなく、夫の帰宅が遅ければ2児を寝かしつけ、夫の帰りを待つ、といった物静かで控えめである。私のような見ず知らずの日本人が来ても食事の用意をしてくれたり、帰る際には、私や家内や子どもにもお土産を用意してくれる気の配れる奥さんであった。一家は以前はアピチャート氏の母親と同居していたが、学校がこちらになりより近いところで借家を月50バーツで借りて一家だけで住んでいる。
 私のフィールドワークは続く、「アピチャート先生、今、学校で一番欲しいものは何ですか?」と聞いてみると、すかさず「今一番欲しいのは子どもへの教授法を書いた本が欲しい。」さすがである。彼は、最近、バンコクのシーナカリンに研修に出たほどの教育熱心な教師である。子ども達がどうしたら興味を持って学習してくれるのか今悩んでいる。特に算数の指導書がほしい。日本の学校では子どもが興味を持つためにどのような教え方をしているのか?」と彼は熱っぽくどんどんと聞いて来る。まあ、酒宴の席ではあるが。私はその手のことは全くと言っていいほど分からない。申し訳ない。何とかこの熱心な質問に機会があれば少しでも答えられたらとたじたじとしながら思った。
 この辺り(地方)の小学校の教師の初任給はいくらなんだろう?彼によれば
短大卒で1950バーツ、大卒で2385バーツ、大学院卒で3225バーツだそうである。今年(1982)の一月からは月給が20%アップするそうであるが、首都圏の教師にとっては随分安月給だそうだ。ここではないが何らかでアルバイトをする教師も多いいと言う。特に夜間の学校であるが。アピチャート氏も時間とチャンスがあれば是非やってみたいと本心をのぞかせた。
 夜間学校とは、成人用の学校で夕方5時から夜8時までやっている就学用の学校とのこと。


ノーンタカ村(6)初めてのアピチャート氏

2021-12-02 15:43:22 | ウドンタニー
 夕刻、あたりが薄暗くなるころ雨混じりの風が吹く。ヤシの葉のざわめきが激しくなり、大粒の雨が池の水もを叩く。私のガイドはヤシの実が車にあたらないか真顔で心配している。
 奥さんが出してくれたコップの水を飲み、床下へ行って身体を洗い、車から荷物を取り出して、私が今晩から泊めてもらうであろう部屋へ運び入れ旅装をといた。
 子ども達とお土産に持ってきたクレヨン、画用紙で絵をかいて遊ぶうちに、ややお腹が空いてきたので、ここから30分ほど行った所にあるウドムタニへ夕食をとりに行こう、ということになる。
 タイ料理を食べ、ウイスキーをひっかけて夜8時半頃に帰宅すると、裸電球の下でゴザひいて一人チビチビやっている男「遅いなー!」これが第一声であった。この男こそ、アピチャート氏であった。パッカオマーを腰に巻いて、上半身裸でがっしりとスポーツで鍛えたような肩、腕を出して一人で酒を飲んでいる。なかなかの男前である。「よく来た、よく来た!**は元気にしているか?」初めて会った者同士ではない錯覚になる。少々、酔って帰って来たが再び宴の席となったのである。
 そこで、民族学的収集である。
村のこと、学校のこと、教育のこと、家族のことなどが話のテーマになったのである。
 <アピチャート氏からの情報>
 ・ウドムタニ県は20の郡がある。
 ・ここはノンハンといいノンは(池、沼)のこと。ハンは(勇ましい)という意味らしい。
 ・ノンハン郡は人口十一万人くらいである。
 ・ノンハン郡にはさらに村が154村ある。ここはノンハンという村である。
 さて、アンプーとは「郡」ということだが、その下位にムーバーンとなるが、これは「村」、「地区」といった日本語になろう。

  <ノンハンの謂われ>
 ここが「ノンハン」と呼ばれるようになった伝承をひも解いてみるとつぎのようである。
 昔から一年に一度、花火大会があって、いろんな町から村から集まって競争をしたそうな。その大会にある町の王さまの娘が参加していた。他の町の王さまの息子たちはその娘を見て、綺麗だなあ、と思った。王様といっても天に住む王もいれば地の中に住む王もいる。地の中に住む蛇の王もいた。
 その地に住む蛇の王の息子も「きれいだな!」と思った。しかし、自分は蛇である、蛇なら娘も寄り付かないだろう、と思い、祈って「タヌキ」になった。するとその娘は「あのタヌキはかわいらしいわ。あのタヌキ捕まえて持って帰りたい。」と言った。
 それを聞いた兵士たちはとにかくタヌキを捕まえようと追っかけ、誤って鉄砲を使い、撃ってしまった。タヌキは「もし私の肉を食べたらこのノンハンの町は滅びるだろう」と町の人々に言った。しかし、人々は、このタヌキの肉を分けて食べてしまった。
 自分の息子が殺された、と知った地の中の王様は怒り狂ってこの町の住民を皆殺しにしてしまった。こうした昔話からこの地をノンハン「いさましい」、「戦争のあった」沼と命名したとさ。
 ちなみに、この花火大会とは、5月に行われるボンファイのことであろうか?タイの正月にあたるソンクランは4月に、5月はボンファイ、7月は米の収穫を祈るカオパンサー、10月には収穫に感謝するオークパンサーなどがある。いずれも、農民と僧侶が稲作の安寧を祈願する古来からbの伝統行事である。