朝にしてはやや暑い日射しがバナナの葉陰 からこぼれてチーク板の縁先に照りかがやい ています。スーテン氏の家はこの村では標準的な大きさでしょう。床の高さは大人の背丈 くらいあってその階段をのぼるとまず一畳く らいの広さの炊事場兼洗面所があります。そこには水がめが四個、ポリバケツ一個などが棚 に並べられています。
その隣りに全体の半分くらいを占める広さの居間(というより多目 的広間)があります。 その奥が右から台所、 子ども部屋、スーテン夫婦の部屋、祖母の部 屋と区切られています。
ここで大人三人、子 ども三人の毎日の衣食住がおこなわれている のです。
屋根は痢を除いてトタン板の屋根になって います。村の大部分がトタンのようです。このトタンの下で昼寝をしたのですが、暑 いこと暑いこと。35℃は越しているでしょ う。実は後になってわかったことですが、 家の人たちが寝をする場合には床下の床台 の上でやるのです。
そうなのです。 昼寝、糸 つむぎ農具の手入れ、夕食の準備、子守 り、雑談、すべて昼間の仕事、生活は床下に 移るといった方が正しいようです。 私も翌日 からは昼間は床下に逃げたのです。
でもなぜ安価に入手でき断熱作用にもなる茅葺き屋根をやめてしまったのか。こんな不 合理なことはないなあ、とその時、思ったの ですが、しばらく滞在するうちになるほどと 思ったのです。
一般的には取り付け、扱いは 簡単であるし、耐久性もあるでしょうが、実は雨水の関係なのです。 天の覚みの雨水の一滴も粗末にしてはならないという哲学のあら われなのです。 トタンに降った雨水は軒の雨どいをつたって下におかれた水がめに使れる落ちるという仕組みなのです。 一瞬に降り、一瞬 に止む雨水を一滴でも多く獲得し貯蔵しなけ ればならないのです。そこでトタンの役割り は圧倒的なものになったのです。 水、特に雨水に対するイサーンの人々の感覚は想像もつ かない程鋭敏なものです。
家の造りに目をやると、寝室や倉庫には、 バナナの皮で編まれた囲いがありますが、そ れ以外居間にも台所にも壁や囲いになるもの がありません。荒削りの丸太の柱、細かいと ころは竹ざお、といった実に簡素な造りで す。外から丸見えですし、よく幼児が床か ら落ちないものだと思いました。村の中を見 しても、大なり小なりこの型の家屋です。 大きな虫籠といった感じです。
床下は牛小屋 、ニワトリ小屋だったり、 養蚕場だったり、また農具、生活具の格納場に なっています。 特に目につくのは、竹製品の多様さ、豊富さ。クラドン(てっつき)、コンカオ(めしびつ)、カツテツ (大きいこめびつ)、 ファンヌンカオ(蒸し器)、農具、鳥籠など がや床下に吊されています。 すべて自家製とのことです。
家の内部を見渡すと 壁には親族のものらし写真の入った額縁が吊さ れています。国王の顔つきのカレンダーも 貼り付けてあります。 しかし私のいる居間には ほとんど家財類がありません。 無造作に畳まれた蚊帳が 釘にかけられてあったり、床の上 には私のためのござが敷いてあるくらいでが らんとしています。
私はやっぱり中部タイと 同じイサーンも蓄積の少ない "go through(移動可能)の文化だなと思ったのです。も ちろん米、穀物、天水、絹 、竹製品などは中部タイより貯蔵された伝統的農村ではありま すが、それは自然の厳しさの結果なのです。 どうして "go through" 文化であるか。 その 原因としては比較的浅い歴史しか持たない開拓村の宿命であるかもしれないし、生活の関心が水と稲に集中している結果かもしれない し、決定的貧困によるのかもしれません。
あ るいはタイ人全般が持っている家屋というも のに対する価値観の投影で
あるかもしれませ ん。 いずれにせよよそ者にとっては建物を見 る限り出入りが実に気楽にできる造りである し、住人にとっては家財をたたんで次なる天 地へいつでも移動できる家であると見受け ました。
スーテン氏の奥さんがいてくれたゴザに 仰向けになりイサーン特産の色どりあざやか な枕を頭にあてると「やっとイサーツへ来たな」という満足感が改めて湧いてきます。
どこからか「クルッー!クルーッ!」とノッカウ (山鳩)が鳴いています。 私は今、東北タイ (イサーン)の空気の中に漂うサバーイ(安逸) のただ中に入ったのです。
奥さんの母タイオンさん (54) の一日の主な仕事は養蚕です。若夫婦が野良仕事に出て いる間、家の留守番役をかねて日二~三回の給桑をします。 涼しい床下が蚕の館です。 床台の上に木と竹で組まれた棚に直径50センチくらいの平底の竹かどが、5個、それぞれ衣 にしっかりつつまれて飼育されています。 一 かごには二百五十~三百匹がおり、糸にして 二グラムくらいの絹がとれるそうです。
タイ オンさんの所には全部で10かごありますから順調にいけば月に二十グラムの生糸がとれる ようです。 桑の発育が順調で害虫(主にア り)がつかなければ年に十回は孵化するそう です。 タイオンさんは床下から一かごもって
きてくれてカイコを実際に見せてくれまし た。もうすぐ孵化する成虫ですが日本のよ り一まわり小さい感じがします。 繭は黄色で いわゆる「山繭」というのでしょうか。現地 ではトーモンと呼んでいます。黄色のは繭は蒸すとけむりで白色にかわるそうです。 日本の 一化性蚕の繭より小粒で皮薄く粗野なもの です。 イサーンの自然の厳しさ、不毛さを感 じさせる繭でした。
奥さんが寝室から一枚の 絹織物を持ってきて見せてくれました。 ピン クと白を基調とした格子縞です。 銀色に輝や いている宝物のように見えました。縦50セン チ、横一メートルの衣ですが、 パンコックで は三千円以上するそうです。ガイドのパイラ ット氏が「安い! 一枚わけてほしい。あん たも買った方がいいよ」と勧めてくれるので約千円で一枚買っておきました。 夜通し蛍光灯 をつけて蚕を活動させています。
外がま だ暗い早朝からタイオンさんは桑をござにひ ろげていました。このあたりは五軒一軒の割で養蚕を副業にしています。 こうしてイサ ーンで産れた絹はパンコックにいきタイシル クとかマットミーシルクと呼ばれて商品化するのですが、タイオンさんは「こうした絹は あまり売らない。 晴れ着を作ったり、飢饉な どのまさかの時の交換用品にするのです。」 と説明してくれました。
蚕の話が一段落したところで奥さんが食事 を用意してくれました。食事はカツテツ (飯 つぼ)に入った冷えたカオニャ(もち米)。これが主食でそれぞれが手でつかんで小さく 丸めて食べます。 おかずはプラカオとかカテインと呼ばれる塩辛いへしこです。 塩とぬ かに二年間漬けたものです。 カオニョは日本 のおこわと同じような味だし、へしこも塩か らさが倍ではあるがカオニョによく合う。 あ とコップとかキャットといったカエルの炒っ粉 になったおかずもおいしい。 中部タイの 食事より日本に近い味です。
緊張も空腹もともこうしたもてなしですっかり 消えて知らず知らずにまどろんでいました。