知らないタイを歩いてみたい!

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マハサラカムでの「出会い」2

2022-07-28 15:33:43 | マハサラカム
Mahasarakham Thailand      Sun Sep 19 Mon Oct 4'99
旅の概略
9月19日
関空 15:10発 KOREAN AIR にてソウル経由でバンコクへ向かう。
23:30頃ドンムアン空港着、近くのホテルに宿泊。

9月20日
11:30発コーンケン行きに搭乗、12:30着 マハサラカム大学まで車で1時間。 マハサラカム大学で Dr.スチンに会う。 図書館などを案内し でもらいながら、ホストファミリーを持つ。 夕方、マハサラカムから20キロほど離れたところにある、 Kosum Phisaiへ。

9月21日
お父さんのソンチャイが校長を務める小学校 (家から約1時間) で ボラ ンティアをする。 幼児クラスから小学高学年クラスまでまわり、折り紙を 教える。皆、物珍しそうに、興味深そうに熱心に聞いてくれた。 昼食は先 生方と、カオニャオやフライドエッグを頂いた。
学校周辺には農村があり、タイシルクをつくる家庭が多い。 私も一枚購入

9月22日
700に家を出て再び小学校へ向かう。 その後、マサラカムに戻り、ホテルに滞在することに。

9月23日
午前、 Loi Et ダンシングカレッジで奨学金貸与に立ち会う。 午後からはホテルに戻り、休息。 夜、大学生達が 「ナイトマーケット」に連れて行っ てくれた。

9月24日
大学生のバイクの後ろに乗り、 マサハラカム周辺をツーリング。 大学の新 キャンパスに行き、食堂で昼食を食べる。 またまたナイトマーケットで 腹ごしらえ。

9月25日
自分達だけでホテル周辺をうろついた。 デパートや市場で大量に買い物を した。

9月26日
とうとうマハサラカム最後の日。 12:00にホテルをチェックアウトし、 学生の家族の勧めで、車で手作りのおみやげを売るところに連れて行って もらう。 その学生の家に招待され、夕食をごちそうになった。 食後になぜ か体育館に行く。 夕方バトミントンをするのがこの家族の日課だった。 涙の別れをした後、バンコク行きの夜行バスに乗り込んだ。 

9月27日
午前4時30分、バンコクに到着。 カオサンのホテルがどこも満室で、途方暮れる。やっと見つけたところで6時半まで待てと言われ、ロビーで寝て待った。 部屋の鍵をもらって入ったはいいが、掃除がまだ。結局昼過ぎになって、やっと掃除のおばちゃんが入ってきた。 「ごめんねー、ちょっとどい れる?」なんて、いかにもタイらしい。怒りより、笑いがこみ上げてきた。

9月28日
 ワット・プラケオに行くが、 人ごみと暑さに負けて、 中に入らずひき返す。

9月29日
 サイアムスクエア周辺で買い物。 日本と変わらぬ風景にがっかり。 も高くて手がでない。初めて“トックトック" に乗った。

9月30日
アユタヤへ行くため、バスに乗った。 はいいが、いきなり女性に声 られ、「おぼうさんの横に立っちゃだめ」と叱られた。 文化について 勉強しておくんだったと反省。 その上、その女性に行き先が目的地。 向だと教えられた。 つくづく、親切あっての旅だなあ。
ファランポーンからタクシーを1台チャーターし、1日を運転手の リー(本名か?) に託した。 最後に美しいライトアップを見て、帰 は言葉の全く通じないチャーリーも、気の許せる友人になっていた。 

10月1日
ホテルをチェックアウトし、 電車でカンチャナブリーに向かう。 駅に着くと、人力車のようなものにのった2人がしつこく追ってきたので「マイパイ」 (行かないよ) と言ってやった。 それでもまだついて来た。

10月2日
 早朝にカンチャナブリのホテルを出て、エラワン滝行きのバスに乗る 所要約2時間。 滝を見るには、 1~7STEP まである険しい山道を登 てはならなかった。 私たちは挑戦した。 想像を絶する、 ロック・クラー グのように激しい道だった。やっと登りつめて頂上で滝を見ながら、 な気分を味わう、ということも許されず、時間に迫られて即帰路へ そのまま (泥だらけで) バンコクへ直行した。

10月3日
115am ソウル行きの便に乗り、 8:40着。ソウルで一泊し、翌日の夕方いよいよ帰国へ

10月4日
8:30 関空に到着。
長いようで、一瞬の夢のようでもあった旅の終わり。


マハサラカムでの「出会い」1

2022-07-28 14:56:17 | マハサラカム
 夏休みも明けて、秋が近づく頃、 私は悩んでいた。 学生生活について、 人間関係につい て、そして、人生について。 私は今まで生きてきて、何かやり遂げ、満足したことがあっ ただろうか。 自分の好きなことはやってきた。大学も、アルバイトやサークルなど、充実 していたと思う。 しかし、何をしても、大きな達成感というものが感じられなかった。 私は考えた。 無限に広い世界の中で、私という存在は小さな点にも及ばない。それでも、どこかで、誰かのためにできることがあるのではないかと。

 子供が好きな私は、貧困に苦しんでいる小さな子を抱える地域へ行って、少しでも彼ら の心を癒したいと思った。 始めはボスニアやカンボジアなどを考えていて、ボランティア 派遣を募集する団体に連絡をとってみた。だが、どこも自己負担金が高く、 あきらめかけ ていた。

 本をめくっていると、タイの孤児院でのボランティア募集が目に付いた。 タイという国 は、その時の私にとっては全く未知で、 貧しい地域があることなど毛頭知らなかった。 そ こで木村先生を思い出した。 先生ならタイに詳しいので、話を聞いてみることにした。 先生は一言、 「何とかしてやる」 とだけ言って、着々と現地の人と話をつけてくださった。 私は分けのわからないまま、 友人と共にタイへ行くことを決めていた。 最も素晴らしい出会いが待っていることを知らずに。

 詳細はほとんど知らされていなかった。 ただ、現地でボランティア活動がしたいという ことは伝わっているようだった。 多少の不安もあったが、 先生の紹介だから安心だろう、 と大きく構えていた。

 現地へ到着してすぐに、観光地から遠く離れた農村の家にホームステイをすることにな っていた。 イサーン地方、マハサラカムとコーンケンの間に位置する、 コースムビサイと いうところだ。

 覚悟はしていたが、ここまでとは。 虫だらけの床水しか出ない風呂、風呂の水を便器 に使う。 何もかもが急に起こり、私たちは混乱した。 やっと夜、床に入ると、 蚊の音と奇 妙な動物の鳴き声に悩まされ、眠れない。 早く朝が来ることだけを願って、友人と私は一 言も口を聞かずに、第一日目を終えた。

 次の日ホストファーザーの小学校に訪問すると、それまでの不安は子供達の笑顔によっ て吹き飛ばされた。1人一枚折り紙を渡すのだが、まだ文字も書けないような小さな子が、 受け取る前に手を合わせていた。 誰一人そのようにしない子はなかった。全員に折鶴を作 ってやると、羽を広げる瞬間、 同時に子供の顔もぱっと明るく開けるのだった。 

 驚いたのは、この学校の生徒たちは貧しい農村の子ばかりで、昼には配給を受けていた。子供達を見ていても、そんなことは全く感じさせない元気があった。 私が写 真を撮ろうとすると、レンズの前にわんさか集まってくる。彼らの笑顔は、幸せそのもの だった。学問を詰め込むことだけが学校ではない、子供が生き生きと育つための場でもあ るのだと思った。

 「こんな場所では暮らせない」そう感じていた自分を恥じた。 他でもない。そこで暮ら す人々がいるのだ。 彼らには彼らの生活があり、必要なものがあれば幸せに暮らせる。「モ ノ」の溢れる日本で生活していると、そんなことも簡単に忘れてしまうのだ。

 学校を一歩でると、そこはもう農村だ。暑さ対策のため、高床式の家々が立ち並ぶ。 考 えごとをしながらじっと座っている老人、ハンモックに揺られてうとうとしている赤ん坊。 誰と目が合ってもにっこり笑い、「サワディー」と応えてくれる。

 いくつかの家を訪問し、 タイシルクを作っているところを見せてもらった。 中でもとて も美しい模様のシルクを、私は譲ってもらえないか頼んだ。おばあさんは快く承知してく れたが、からその1枚を仕上げるのに、なんと半年間もかかっているということだった。 その代金で、いったい何日暮らせるのだろうか。

 マハサラカムでは、木村先生紹介のDr.スチンや学生たちが、私たちのために手を焼いて くれた。自分の誕生日に食事を共にさせてくださったスチンさんには、ホテルの手続きそ の他本当によく面倒をみてもらった。学生たちも、「邪魔じゃない?」 と気を使いながら、 買い物やナイトマーケットなど、いろいろな場所に案内してくれた。

 屋台で食べないとタイに行った意味が無い、というくらい屋台の食べ物はおいしい。 私 このお気に入りは、もち米をバナナの皮で包んだものと、ココナッツミルクのデザートだ。 しかも値段が格安なので、いくらでも買ってしまう。 タイの学生には、私たちはさぞお金 持ちに見えたことだろう。

 「タイの友人」と日本やタイのことについて話した。 やはり日本の方が技術も産業も 発達しているので、タイの人にとって日本は 「憧れ」だと言っていた。 しかし私は、「日本 にいてもいいことないよ」と言った。日本人はいつも時間に追われているし、便利になり すぎて、自分の目標を見失っている人があまりにも多いからだ。 私もその1人であった。 そして、タイの生活に触れ、そのことに気づかされた。

 タイで過ごした時間は、とてものんびりしていた。 誰もが自分の時間を大切にしている。 余談になるが、学校で遅刻をしても叱られないらしい。 一日が長く、その日その日が充実 していて、生きていることを肌で感じられるような生活だった。

 1週間後バンコクに行って、正直失望した。 あまりにも生活が違っていたからだ。 街並 みは日本と変わらないし、観光地は日本人や欧米人でごったがえし、物価も東北地方と差。 同じ国でここまでの違いを目の当たりにし、豊かさとは何だと考えさせられた。 

 しかし、私はバイクをノーヘルで2人乗りしたり、トゥクトゥクで道を爆走したりする、 タイの気さくな雰囲気が大好きだ。危険だといわれる大都市パンコクでも、親切で気のい いたくさんの人に出会った。 赤いタイ料理も、私に新しい食の醍醐味を教えてくれ、帰り のカバンは調味料でいっぱいだった。

 タイに限らず、世界中の人が今もどこかで、素敵な出会いをしているに違いない。 いろいろな場所で、様々な人の生き方を垣間見ることができて、本当に良かったと思う。 私というちっぽけな人間が、たくさんの人に出会うことによって、その人の「人生という 本」の隅っこにいられるだけで、生きていてよかったと感じる。 そしていま、この感 を私以外の多くの人に感じてもらいたいという願いが、私に夢を与えてくれた。 夢に向 かって必死に突き進んでいる私は、タイを知る以前よりずっと自分に満足しているはずだ。 私は、私を大きく成長させるための階段を上り始めたばかりである。 そしてこの階段には、 決して終わりはない。

おわりに
 最後に、 このような素晴らしい旅をする機会を与えてくださった木村先生とスチンさん この友情に感謝いたします。 現地でお世話になった友人達や、私が出会ったすべての人々に お礼をいいたいと思います。 本当に、ありがとうございました。 みなさんが、それぞれの 人生で幸せでありますよう、心から願っています。

 2000年2月 立命館大学文学部文学科英米文学専攻 河田惠美