知らないタイを歩いてみたい!

タイの地方を紹介する。関心のある方の集まり。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

友人H氏から私の生き様についての投稿

2022-03-27 05:40:42 | ハノイ


先日、K先生と例のように無駄話を楽しんだ。
K先生はタイ国(確か農村について)の研究で有名な方であるから、勢い話はその方向へすすむ。
先生がそちらの方へ話を持っていくといった方が正確だが。

先生が言うには、タイの山岳民 は、近代文明をかたくな 続けているものがあるという。
しかも何かの用事で山を下りることがあり、その際、便利な物、華美な衣類といったものを目のあたことがあっても、手を触 って行くという。

こんな話になると先生は次第に熱を帯び、解説することタイ国のすべてに及ぶ。 (タイの国の形状 っきり知らないほどの私ですから)
「へ―え。 なるほど・・・・・」とやきながら、聞き手一方にまわりのが常である。


しかし、たまたまこのときは、反論とはいかないが鋭い質問をしてしまった。
「それは金がないとか、交換するものがないとか、、、つまり、
貧しいゆえに我慢しているだけとちがう?」
続けて「何かこう、、、主義とか戒律みたいなものがあって、それ故に拒絶している訳ですか?」

この件に関してはまだ調査が進 んでいなかったのでしょう、歯切 れが悪い。 少し私がしつこく食い 下っていると「実在すると言ったままで、そう易やすと答えられるかいな!」 と急に不機嫌になり話は中断し た。

K先生はいつも、実際の見聞を 交えて話すので、面白いことこの上ない。 そして最後はいつも次の持論でめくくる。

「東南アジアをながめるとき、西流の考えや目で価値判断してしまうのは、まったく間違いである。」と。
私など、その張本人であるかの ように批判される。それこそ、「何もしていないのに」と言いたいくらいである。

意識のなさがいかんということ なのだろう。そういう傾向にある日本人への批判であれば、聞き易く又、頷き易いのであるが、おとなしい聞き手を血祭りに上げるのには全く閉口する。
K先生とはじめて知り合った頃は、詩をかくことのみを愛し、同人誌を発行することに熱中する詩人であった。

東南アジアの研究に没頭しだした理由ははっきりとは知らないが近頃はほとんど詩を書いていない様子である。
タイ国の研究も、内容を聞かせ てもらうと、地味で限りのないフィールドワークである。 研究の対象が広く、迷い迷いで 「困った」と口走るのを聞いたことがある。

或る日、私は「何んで先生の研究対象はタイ なのですか?。 タイでないとい けませんのか?」愚問ここに極めりの質問をし発した。
ぐっと詰まり、暫くして語気荒 先生は答えた。 「もうこうなったらタイなの だ!」と。

人生は複雑なのでしょうか。 ひ ょっとすると簡単なのかもしれな い。昭和57年12月7日「都々城野」


イサーン見聞記4

2022-03-25 07:29:00 | ハノイ


随分前おきが長くなり誠に恐縮ですが前おき の最後として地理的、地形的な面に少し触 れておこうと思います。

前章にあげた地図からもわかりますように イサーンはタイ全土の約1.3 に当る約一七 万㎞を占めています。人口も全人口約四三〇 〇万(一九七六)の約三五パーセントくらいを イサーンで占めています。

北は東側にメコン川が走り、西は北から南 にペッチャブーン山脈、南はドンパヤージェ 山脈がそれぞれそびえ、中央平野とイサー ンとの間の交通輸送を遮断しているかのよう です。この高原は「コラート高原」と呼ばれ 平均標高は一二〇~二〇〇mであります。 西 側のチャヤプーム県の中心都市は一八五mで あるのに対し、南側のナコンラチャシマー市 は一八一m、ラオス側のナコーンパノム市は 一四四m、東の端のウボンラーチャタニー市 は一二三m、 でありこの高台は西から東にゆ るやかに傾斜しています。 この高原を囲む山脈は頭が切り取られたような、 もしくは草刈 刀のような地形をしており、どの山も標高 はあまりかわりません。 先ほど述べたペッチ ブーン山脈は平均四〇〇~五〇〇m、ドン パヤージェン山脈は平均五〇〇~七〇〇mで あります。

私は朝の白みはじめる頃この高原を走った のですが沿道が妙に乾ききった砂ぼこりの 舞う光景が見えました。 地質学のことはよくわ かりませんがこれは熱帯特有のラテライト だということです。 コンケーンの町に入っ た時に朝の太陽が山並から顔を出したのです が土は本当に赤味を帯びていました。夕方に はピンクに見えます。 ちょうどテニスコート のアンツーカーと同じです。 ラテライト性土壌とは 「乾季の気候によって土壌の溶脱作用 が衰え地下水が上昇し表土の蒸発が盛んとな ってサバンナ土壌と風化している地域」で「気候 的要因による風化に加えて基盤となる母岩 自体が赤色砂岩であり、一部沖積層の堆積から成り立っている。」(名古屋女子大タイ学術 調査団一九七五より) とのことですが私には むずかしいことです。 もっとわかりやすくい えば「土地は衰弱し植性にあわない」という ことでしょう。 農作物の状況もおしはかられ ましょう。 もはや人力は自然の衰えにより自 然とたたかえなくなった、あるいは自然との 協調をおしすすめることができなくなったと いうことでしょうか。



面白い記事が科学朝日 (一九八〇、12) に載っています。 海抜五〇〇m以下の熱帯林 一〇〇平方mにカエルとトカゲが平均どのく らい生息しているかという調査データです。 パナマではカエルが二九八尾、トカゲが 一五、四尾に対してタイの常緑林地帯ではカ エル〇、一二尾、トカゲ一、〇三尾、落葉林 地帯ではカエル、二七尾、トカゲ一、二 一尾といった比率です。 コスタリカではカエ ル一一、 六、 トカゲ 三九といった数字で すが、このデータを通してタイでいかに両生 類、爬虫類が生息しにくいかということを述 べています。 熱帯林とは数年おきに実がなり 地上に落ち、この落果に群がる節足動物をエ サにしてカエルやトカゲが植するらしいの ですが、要するにタイの熱帯林フタバガキ科の高木はなべての実がなんらかの理由でならない年の方が多いということを示しているようです。ですからミミズも少なければカエルもトカゲも他の大陸とくらべて極少だということです。ミミズのいないところは人の暮らしも貧しい、ということになるのでしょう。

このイサーンの主たる経済はもち米を中心 とした水田稲作であります。 バンコックから 同行のガイド パイラット氏はこのもち米が なかなか食べられず胃痛を起したりしてまし たが私には日本の祭りのオコワを食べている ような気分でむしろ快適な気分になりまし た。その他の農産物はジュート、 ケナフ、玉 ねぎ、こしょう、タバコ、コットン、ピーナ ッツ、砂糖きび、タピオカ、カポック、ココ ナッツ、などです。 これらの農業生産高はク イ全土の二五三〇%を占めているようで す。

年平均気温は二八七二〇一九七二)で ありますが三月から五月が最も高く最高気温 は三九度くらいになります。 低いのは十一月 から一月で平均気温は二二にさがります。 気象に関しては最も問題となるのが降雨量な のです。 農民の期待する雨季に十分な雨が降 らなかったり予想以上の大雨が降ると彼等の農作物は致命的な打撃を受けるのです。 年間 でも一〇〇〇をやっと越す程度であり、 乾季の十一月から翌年四月までを見れば月二 ◯ということもあるのです。 五月の雨季で も一九七二年をみれば一七、五皿という なのです。 こんな悪条件ですから年間通し て農作物を作ろうと思っても人力ではどうし ようもありません。 こうした水利の問題はあとでケーススタディの中で詳しくふれていて うと思います。

東北部には多くの支流をもつチー川、 ムー 川のような大河川が流れるにもかかわらず 雨季には洪水、乾季には水不足といった問題 も発生し十分な収穫をあげることができない 地帯なのです。 降雨量の問題、地質学的な問 題など自然的障害に加え人為的な障害もある ようです。 それは無秩序な森林の伐採が広範に年々進行していること。それにより洪水 を引き起し、水を一挙に不足させる促進剤を つくっているということです。人工衛星から の写真によればこのイサーンの森林面積は10 %くらいのものだそうです。 そういえば 「田舎の先生」の映画の中で村の有力者が不 法伐採をしているシーンを大々的にとりあげ ていたのを思い出しました。

雨、水、土、木、虫、人、 などエコロジーのバランスが相当深刻にくずれてしまったと ころのようです。 こうした自然的条件の障害 をイサーンに生きとし生ける人々は実際には どのように考え、どのように暮しているの が、いよいよ私の体験上の見聞からミクロに ながめていきたいと思います。 (つづく) (注、資料は『東北タイコンケン地方農民の 生活』名古屋女子大学タイ国学術調査団よ り)













イサーン見聞記3

2022-03-24 07:31:48 | ハノイ


この章に入ってなかなかペンが走りませんでした。その原因は実はなんとか正確な記述 をしたいと思う私のこだわりからです。 しか もわずかのことなのです。 バンコックからナ コンラチャシマ(コラート)を通りコンケーンへつづく国道の距離のことです。 手もとに ある「某調査報告」の類いの本をいくらかみ てみると、ある本は五五〇キロと書いているし、また、ある木は六〇〇キロ弱と書いている し、四五〇キロってなのもあります。 私を案内してくれたタイ人の言をかりると六五〇 です。 どれが正確なのか、また実測記録が あるのか、ないのか私にはわかりません。

ただ、いえることはパンコックを夜十一時 にでてアスファルトの快適な高速バスのドラ イブで、朝六時十分にはコンケーンに着いた、という事実です。 途中三十分くらいの軽食の ための休憩をのぞいて、バスが八〇キロの平均速度で走ったとしてその距離を推定すれ ば、だいたい五五〇キロあるかないかではな いかと思います。 もっぱら、バンコックの北 のバスステーションから測るのか、国会から 測るのか、その出発点により五〇キロくらい の幅が出てくるのは当然でありましょうが、 いずれにしても京都から東京まで鉄道の駅間 五一三・六キロですから、それより少々長い くらいの距離だと思ってもらえばいいでしょ う。こんな事にはあまり意味はありません し、一昔前までタイの人々は道路なんていう ものはもたなかったし、そのかわり川の水路 を大いに利用してきたのですから。

さて、東北タイ 「イサーン」については最近になって少なからず立派なフィールド報告 がなされています。 日本人では一昨年現地調査中に発病され、おしくも亡くなられた水野浩一氏(京大東南アジア研究センター)がくわ しく報告しています。 最近になって水野氏の 「タイ農村の社会組織」1980創文社) が出版されています。 これは研究報告です が、もう少しイサーンの日常の空気を吸って みようとされるなら前に述べました 「田舎の先生」とか「東北タイの子」(井村文化事業社)などがとっつきやすいと思います。 これらの小説はタイ人の手で書かれたものですの 本当にイサーンに生きる人たちの風俗習慣 のひといきひといきを知る上では絶品ではな いかと思います。 英文になりますがシカゴ大 学の人類学者 S. J. TAMBIAH の「東北タ イにおける仏教と信仰」 (一九七〇、ケンブ リッジ大学出版も面白い本でしょう。

このイサーンについての有効な編纂史は 特にないようです。 この地域がいつのころか ら「イサーン」と呼ばれるようになったのか はわかりません。 タイ (シャム)の朝貢国としての従属時代からのものなのか、タイの近 代的な国家のワクが強化されてのものな のか。スミス氏(一九七六)によればシャム 人がこの地を支配下に入れてからのも ののようです。 「イサーン」が古代インド を表わすとするなら、バンコック朝側から起こった呼称であることは当然でしょう。 ラオスからみれば「南」であるからです。

シャム王国がアユタヤに遷都した14世紀 から18世紀にはこのイサーンは真の支配 下にはなく一つの周辺国周辺地帯にあったようです。 シャム人から見る限りでありま すが)このことはラオス側からみても同じで 一つの地方国〈朝貢国)でもあったのでしょ う。いずれにしてもこのイサーンはシャムと ラオスの機能を持ち、それ自体と してはあまり重要な地域ではなかったと考え るのが正しいでしょう。このアユテア朝の期 に何らかの誘因でタイ系諸族が南下し ていったのでしょう。 その前は元々ク メール文化が色濃く残っていた地域のようで そこへ文化が同化吸収していった 経過があるようです。一説にはイサーンのラオ族ははタイとの戦争に強制移住をさせられ た、だから今でもタイ人に劣等意識を持つん だ、という見方がありますが、すべてをうが ってはいないと思います。

近代の国家域の概念が入る以前は一つ一 つの地域がタコツボ状のコンパクト社会であ り、その外は友好関係を保つか、無視をするか、利害、敵対がからめば占拠するといったきわめて領域としてはあいまいなものだっ たのです。 これは東南アジアのほとんどの地域、 社会集団、国家にも当てはまる概念でしょ う。最近をみても、タイ側イサーンに住むラオ族とラオスに住むラオ族との結びつきは強い ようで、確かにラオス革命後はメコンを境に分断しているようですが心情的、文化的には依然 両岸を結びつけているようです。この 関係は今後も続くでしょうし、ラオス、カ ンボジアの難民もそのあたりから考えていく 必要もありましょう。

ヨーロッパの国家領域の概念がタイ中央政府をしてイサーンにどのように作用していっ たかの経緯は吉川利治氏(1980)の説明 がわかりやすいでしょう。 「東北地方は、19世紀末まで、政府が直接する ではなかった。19世紀後半、北ラオスの シップソーンチュタイで、フランス軍との軍事衝突を繰り返してのち、1892年2月 に、ピチットブリーチャーコーン親王を初代総督として、南ラオスのチャムパーサック に送り込んで直接統治するにおよんで、ようやくタイの領土として明確に意識さ れるようになった。 19世紀までの東北タイ地方は コーラートが東北タイからラオスをにらみ、この地方の動静を察知する要衝とし て、17世紀末に建設された砦を持つ町となり、 中央の統治下にあるだけであった。(中略) 18世紀ごろから、メコン河東岸より東北タイ地方に移住してくるラーオ族の人口が次第 に増加し、東北タイの各地に城市(ムアング) が形成されるようになる。したがって、東北 タイの住民は、国家への帰属意識など持ちあ わせていなかった。 1893年東北タイのウ ポンに赴任した二代目総督サンバシッティプ ラソン親王が、この地方で徴税を実施しよう としても、タイ人でないという理由で容易 支払おうとしなかった。」(東南アジア研究 Vol. 18, No. 3) 少々とこみ入った引用になり ましたが、だいたいのイサーンの変遷は御理解いただけたでしょうか。

こうしたイサーンはタイ国の一地域である という意識は今世紀になってようやく定着し てきました。 というよりタイ中央政府の政策 の実効が波状的であれその地に広がったと言 うべきでしょう。

その後の現代史を断間的に見ましても、イ サーン史のタイ国とのかかわりはまだまだ 紆余曲折、イバラの道のようです。 1930年代40年代にわたってイサーン出身の政治家がその出身地ゆえに暗殺されたり逮捕された り、投獄されたり、といった事件が頻繁に発 生しているようです。 どうしてそうなるので しょうか? 彼らイサーンの人々が結局は主 体的に反中央意識という土壌に根をはらざる を得ないのでしょうか? その問題を考える 前に政府が具体的にどのような国家政策を持 ってイサーンに切り込んでいこうとしている のか、またイサーン人即ちラオ族がどの程度 のアイデンティティをタイ国民としていだこ うとしているか、を知る必要がありましょ う。 今だに歴代の首相の課題の一つに「イサー ンの開発」という項目があるそうです。 現 地の人々の反応も是非くわしくこのあたりを聞きたいものです。

さて、この原稿を書いている、タイでク デターが発生しました。 現代に入ってから も何度も起こっているのでクーデター自体はあ まり感想をもちませんが現職のプレム首相が 革団に捕えられたのでなくパンコックから脱出したということがこれまでとちょっとちがうなあ・・・と思いました。 しかも国王、王妃 を擁して。その逃れた場所がこれまでふれて きたイサーンの中心地コラートなのです。 私 は「あのコラートに!」と一瞬驚きました。

プレム首相がこのコラート (ナコンラチャシ マ)に脱出し、再び実権を握る拠点としてと に腰を落ち着けたことは、やはりイサーン 人には人気のある政策を十分にやっていた政治家ではないでしょうか。 プレム首相が自分 の信頼を置く地として第二軍管区司令部の東 北タイを選んだことはここ数年間のタイ政府 のイサーン重視政策を背景としてはじめて可能であったと思われます。 (つづく)














イサーン見聞記2

2022-03-23 06:01:05 | ハノイ
バンコックの師範学校を卒業した ばかりの新米教師が、一般の温とはことな 自分の教師生命をふるさと東北タイの子 供たちとともに送りつつ、その一方でその村 を中心とする権力者 実力者の悪とたたか う映画でした。(この小説は井村文化事業社 から本がでています) ついでながら触れ ておきますが、この小説、映画は、いわゆる 七三年以降 七六年まで続いた労働者、農民 学生たちが自分たちの国をもう一度考えなお そうと立ちあがった「反省の郎」に書か れ、作られたものです。 中央の権力に抗して 地方のみなおしがおこなわれたころのもので す。 地方文化という時期のもので す。もし興味をもたれる方はどうか小説をお 読みください。

そのカラーでみる「グルー・パン・ノーク」 でだいたいのイサーンの景観のイメージを持 つこともできました。 水田といっても区 く、段々になっていて水はない。 やたらに 野井戸から水を運ぶ村人の木々が豊 にはえているのには小さい。 オートバイ ののあとは砂ぼこりが舞う。 ケーン (民族楽器)のうらがなしい調べ イメージとしては質素というより同然の貧困なくら しのイサーン、まだまだ権力者、有力者の横 行する社会というものでした。乾燥した台地 森林が群生し、天水のみにしがみついてわ ずかの天の恵みを奪い合っている、というも のでした。全くもって前途多難な農村社会と いう先入観を私の心に植えつけられたもので した。

もう一つ、「ここも同じタイなんだなあ」 という複雑な思いをしたことがあります。 は じめてタイに行った時の帰路、午後の便に乗 りました。 良く晴れていて、ドムアング空港 を飛びたってずっと、ヴェトナム近くまでく っきりといろんな景観が見えました。 飛びた ってしばらくは運河をみごとに利用した区画 整理のいきとどいた水田をもつデルタが広々 続いている光景でした。 ところが三十分も 過ぎたころでしょうか、 あのみごとな水田地帯 が姿を消して、一面やけただれたような 赤味の土がまだらにみえ、それと濃緑の丘、森の起伏のみの原野が広がっている景観にかわ ったのです。 「人工的」な水田に対し、「手のつけられない」荒野といった感じでした。 赤と緑のコントラスト、川と丘の高低の起伏、 そうした景観がモヤにりぶっているのを眼下にして「ここもタイなのか」と夢をみているような錯覚をおぼえたものでした。 「ただ今、高度・・・・・・ メーター、 ウボン上空を通過中であります」という機内放送がありました。ウポンとはタイの東北の国境の町です。

この荒涼とした地面にいったい人間が生息しているのだろうか? オオカミやサルやワニなどのみがわがものに楽園を巣づくっている世界ではなかろうか? そんなことを想像させる光景が続いていました。

 ウボンのはずれには蛇行して流れる大河メ コンも見えました。水面がキラキラ輝いて、 その流れはそのままゆるやかにくねって天に つづいているのでした。ジャングルでもな い、森林地帯でもない、かといって砂漠でも ない、しかし人間の手のほどとしようのない 荒涼とした景観でありました。もし、そこに 人がいたとしても、その社会は自給自足的な 部族社会といったたぐいのものではなかろう か、なんて手に想像したものです。

「森に入る」という言葉も聞いていました。 タイにおける非合政治活動家たちが中央の 弾圧から逃れ、地下活動の舞台として東北タイ(北部、南部タイにもある)の森(ジャングル) の中に入ることをそう呼んでいるのです。イサーンの人々の生活の貧しさ、また反パンコ リックの感情といった土壌からある限定された 場所であるが彼等の活動を許容するところがあるようです。ヤオ、メオ族などの山岳民族 をもつ北部タイにも、マレー系の文化園を色濃く持つ南部タイにも、中央の手のとどきにくい地域に彼等の活動の拠点があるようです。 中央の国家権力のとどきにくい地域の一 つとして今でもこの「イサーン」の社会が存在しているんだなあ、と思ったものです。

 メコン川を越えるとラオス、そのむこうにカンボジア、そしてヴェトナムといったイン ドンナの国々が隣り合っています。 私は今、現代史の悲劇の現場を一人の旅人として空から眺めていたものです。「あの赤ちゃけた 涼たる空間にいくたびの戦争が起こったこと に か….....」と恐ろしさまでもまじった気のひき しまる思いになったものでした。 直接的には イサーンとは関係ないかもしれませんが、そうしたインドシナ情勢がダブルイメージとし てふりかかってきました。

タイの生きとし生ける人々をさらに深く知るためには、いつの日か、こうした地上にお りて道なき道を一度歩いてみたいものだ、と と思ったことでした。以上のようなロマンチックな思いから、厳しい現実の世界まで、断片にすぎないけれど もバラィティに富んだ私の「イサーン」に対 するイメージがこの自分の目でみたいという 欲求をかきたてたのも事実です。

「イサーン」へ旅立つ前に今の機会に今少 し 「イサーン」について書きとめておきたい と思います。































特番 高床に吹くそよ風 第8号より

2022-03-22 06:43:05 | ハノイ

北部タイ農村より帰って  北原 淳 (神戸大学経済学部教授)

このたび日本社会学会が中心になって、文部省科学研究費の助成をえて、「東南ア ジアの都市化に関する研究」調査が ジョグジャカルタおよびチェンマイで実施され、私も チェンマイの都市化に関する調査団の一員として、北村農村の変化の現状を垣間見てきま した。
折しもタイはバンコクを中心に反日気運がもりあがっている時であり、この研究 プロジェクトについても公式には様々な批判が、協力相手のチェンマイ大の教師から寄せ られました。 一口でいえば、日本から一方的にやってきて、データをもって行ってしまう のでなく、もっと耳に共の研究ができないものか。そうすればわれわれも参加でき るし、我々も売る所が多いはずだ、ということでした。

私自身はこのにおいてはこの調査においては現場監督のような役割を果たしただけで、企画立案や 研究管理は別の方々の手にあったので、チェンマイ大からの批判についてはむしろ共感す る点が多かった、とだけ申し上げておきます。ともあれ、そうした公式批判とは別に、古 くからの友人たちは、少なくとも私の農村チームの調査については、全面的な援助を惜しまず、個人的善意を十二分に示してくれました。こんな短期間の調査(チェンマイにいた は十二月十九日 一月十六日)で、調査票の現地印刷から学生アシスタントの協力による、140部以上の調査票収集までができ、村人から歓迎されたのは、なんといっても古く からのチェンマイ大の友人たちの善意によるものであり、実にありがたいことでした。

私にとっては北部農村調査ーといっても全くの予備調査なのですがーは実は初め てのことであり、中部の農村と比較して、いろいろと白いことを感じました。
まず第一 に、何といっても北部の村の景観の親しみ安さです。 周辺の山並み、盆地に開けた、狭い集約的農業、寒村的な村のたたずまい、山の低さを除き、ヤシの木を除くと、私は郷里の 信州の村にもどったような錯覚にとらわれました。 そうでなくとも三十年前の大和平野の農村をほうふつとさせるものがあるといえます。
第二は、中部の村のいささかの荒っぽさ と比較して、北部の村の慎み深さ、はにかみの心得のことです。 どうやらこれは北部 の文化水準の高さとも関係しているように思われます。たしかに人々の中部タイ語しか解さぬよそ者への警戒や遠慮が、 このような慎み深さをもたらすのでしょうが、それだけ ではなさそうでした。庭先や軒下に栽培している草花の類、清掃の文化があることを示す雑巾がけやほうきの跡。 これが上層農民だけでなく全農家に普遍的にみられる点は、 昔に行ったことがある東北部の村と極端にちがう点でした。いささか乱暴にいうと、中部でも東北でもフロンティアの荒くれ男の世界といった感じがしないわけでもないのですが、 北部の村は 文化の伝統によって様式化された慎み深い人間の世界があります。
第三は、北部の予想外の貧困でした。 もっとも今、そのような土地不足、土地 分化によってもたらされた貧困さは兼業機会がふえたため、チェンマイ周辺では解消され つつあります。 私の二週間ほど滞在した村はチェンマイから二十五キロのサンバートー ン郡という郡にありました。 十年ほど前までは農業だけに依存する貧しい村だったといい ます。 しかし仏歴二千五百二十年(一九七七年)頃から、 チーク材の木彫、織物等の家内工業、 出稼ぎがふえたそうです。 チェンマイの「ナイトバザール」でうられている商品 がそれです。そのため電化された農村にはかなりの耐久消費財が普及していました。若者 特に、ティーンエージャーの高等教育と出稼労働が定着化して、土、日になるとようや 村に若者が帰ってくる、という状態です。 収入は確実にふえています。 今後は貧困時代 に培われた生活態度をどうきりかえてゆくのか、という大きな課題がありそうで、これは 今日の日本が直面している課題でもあります。

ただ、最初に幅広く歩いたのうちチェンマイから五十キロ近くはなれた農村では、 土地無層が極端に多いにもかかわらず兼業機会がほとんどなく、私の滞在した村の十年前 の姿をそのままとどめている感じでした。 同じチェンマイ盆地の農村でも出稼ぎや日雇の機 会が少ないと、結局農業だけに依存せざるをえず、しかもその農業はますます零細化化して おり、これまでの伝統的農業の再生産では、たとえ裏作の大豆などを加えたとしても、 生活をするのもおぼつかないと思われました。古典的貧困もまだまだ確実に存在しています。 今タイでは"おしん』がヒットしてますが、"おしん。のなめた極貧の生活はまだタイで はまさに現実です。

ともあれ外国人にとってチェンマイ地の村は実に暮らしやすいとおもいました。 昔々日本のマスコミの袋だたきにあったT氏も、あんなことさえなかったら、 案外幸せ に複数の現地の奥さん暮らしていたかも知れません。そんなことを感じさせるものがあり ます。そんなわけで、調査の内容そのものよりも、チェンマイ盆地の農村の人情の方がす っかり気にいって帰りました。余談ですが、キングスヒルやポッターが調査した村ークデ ーンもほんの数時間だけのぞいて来ました。 一緒に行った大学院生たちにポッターの家主 のおばあさんが別れざわにいったものでした。 ヤー・ムーム・ナ"(忘れずにな)。
(一九八五年一月二十一日)