知らないタイを歩いてみたい!

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ノーンタカ村(5)ノーンハン村へ入る

2021-09-30 06:46:01 | ウドンタニー
 ノーンハーンに着いた時に「本当にあの先生は泊めてくれるのか?」「いや果たして家にいるのだろうか?」「泊めてやる、と言ってくれるであろうか?」「もしだめなら他の家を紹介してくれるだろうか?」いろいろ不安が心によぎる。
 その度に手に握っているアピチャートという名前とノーンハーン郡ノーンタカイ村ぺけペケ番地の住所の書かれた紹介状に目をやる。
 大通りに面した村の入り口で小学生をつかまえてこの名前を住所を言ってみる。アピチャート先生の名前は知らないがそれらしき学校は知っているという。
その学校を目指すが道はぬかるんでいて車は通れない。仕方がないので車を道路際において水牛道路を歩いていく。学校はこの二週間は休みだという。雨がよく降り田んぼに水が潤い、農繁期になってってきたため児童が農作業やら家事の手伝いに忙しくなるからだという。

 水牛道路を引き返し、車を止めている村へ引き返す。もうあたりは暗い。村とは言っても辺りには人は見えない。森の木を切り倒し、土地を開墾し、永年にわたり築き上げてきた荒削りの田んぼ。水牛の背に乗って農婦が家路につく。不思議な森の世界にさまよい込んだようだ。一つの感動が身をよぎる。水溜りで黙って釣り糸を垂らしている女性がいる。こうした光景がいとおしく涙が出そうになる。自然の中で人、動物、川、森、水田、道、家がしっかりと生態としての秩序を守っているかのようだ。釣をしている女性に再びメモにある住所を尋ねる。少し行き過ぎたらしい。少し戻って手前のヤシの小道を進み、百メートルほど行ったところに私の尋ね求めてきた、まだ見ぬアピチャートさんの家があった。十メートルは有にあるヤシの木が彼の高床式の家を取り囲むかのように何本も聳えたっている。ヤシの木の下は雑草がうっそうと茂っている。小道と反対側の二十メートルほどのところに四角い池が二つある。ハスの花、その蕾が顔を出している。
 道とこの池はかなりの坂道になっており、その高低の調整を高床の柱がみごとに果たしている。床のところは地面から2メートルはあろうか。人の気配はなさそいうである。床下のコンクリート面にオートバイが一台置かれている。下から「こんにちは!」と2,3回声をかけるが返答がない。静かだ。
 階段下で靴を脱いでゆっくりとチークの床まで上がってみる。「アピチャートさんのお家ですか?こんにちは」とやや大きめの声を出してみる。すると一つ棟を隔てた奥から女性の声で「そうですが、、、、」といいながら姿を現した。床下ではアヒルやらニワトリやらそのヒヨコやらが声がうるさい。その女性の後ろから3,4歳の女の子がついてきた。私の顔を一瞬みるなり「あがってください」という返事。「私は日本人で**さんの紹介で***」と言葉を続けようとしたが「わかっています。主人は今、出かけていますが夜には帰ってきます。それまで上がって待っていてください」との返事である。私は日本人でここを訪ねて来てしばらくここに滞在した、と思っていることすべてを一瞬にして了解してくれたのである。でも、どうなんだろう?私もアピチャートを知っている私の友人からも一度も日本からアピチャート氏に手紙を書いたりしていない。(この友人はかつてバンコクのシーナカリン大学に2年間留学していた時にアピチャート氏と知り合ったのである。そして私に住所だけ教えていてくれたのである。)
 「主人は今はウドムタニの教育委員会へ行っています。夜、8時には帰ってきます。どうぞ泊まって行ってください。**さんはよく知っています。2年前にここに遊びに来てくれました。」と懐かしそうな表情をしながら、床のござを広げ、座るように言っていただく。彼女は手前の寝室でむずかる幼児をあやすために姿を消した。言葉、表情は少ない控えめな奥さんである。昼間、はるばると心もとなく不安混じりになっていた私は安堵の喜びが湧いてきた。
 

ノーンタカ村(4)東北タイ(イサーン)の素描

2021-09-22 02:52:51 | ハノイ
 車でバンコクを朝、6時に出て、昼過ぎには東北タイ、コンケーンに着く。途中、道路沿いで泥水の貯水池を何度となく目にした。水溜りがあれば子どもや水牛が水浴していたり、魚をすくっていたりする光景を目にする。水の希少さや価値を小池に見る思いである。人と水牛が同じ池に入っているのを見たり、農夫が長い柄杓で水をs一段高い自分の田圃に入れたりするのも目に入る。

 人と水牛が同居し、水牛とその背にとまっている水鳥やハエが同居し、それが森や草地、田んぼの光景の中に異様な動的物として存在し、いずれも長い年月に粘り強く自然の恵みにありつこうと営々と生きていることが分かりめまいをもよおしそうになる。

 森が過ぎ、水の満ちた水田が杉、竹藪が杉、どこまでも同じような光景が続いた後、ウドムタニの町の気配が現れて来た。町の中心に行く前に右に折れるとしばらくは先ほどのような森や田んぼの光景が再び現れる。30分ほどで私の目的地ノーンハンに着く。

 朝、7時にバンコクを出発し、途中の2回の軽食のため、1回のガソリン給油のため、パンクの修理のため、コラートでの両替のため、休憩したのをのぞけば走りっぱなしでこのウドムタニー県ノーンハン郡に直行し、到着は午後の4時であった。

 私はタイの北部や中部の農村は何度も歩いているが東北タイは昨年に続き2回目である。首都からは離れ、やや貧しいながらも伝統的な社会を見るためである。私の旅は時間的に制約があるので、ぶっつけ本番に初日から農家に泊めてもらい、機関銃のように質問したり、朝早くから村中をスケッチして歩いたり、高床の板の上でノートを整理したりしなければなたない。
 しかも一戸の農家では二、三泊しかっ計画していないので調査活動と言ってもいたって断片的なものにならざるを得ない。

 こうしてタイに来るようになった初めの頃は、農村社会の伝統的文化、風習、儀礼、教育など広く客観的な調査を試行していたのであるが、いつのころからか、家族や隣人や、親戚の人々、村の青年など、リアルライフを共有するようになると、勢い現実の生活の話題になってくる。今年の農作物の出来具合、出稼ぎの様子、油や肥料、農薬などの価格の高騰の話題、息子娘の教育の話題など今の村人が直面している現実へズルズルと引き込まれる結果になったのである。

 彼らと酒を酌み交わし、唄をうたい、バカ騒ぎをし、農作業を共にし、水浴や魚、エビを獲ったり、共に食事をしていると、私が日本で考えていたテーマ設定のフィールドワークも色あせてしまわざるを得ないのだ。どうも、テーマがぼやけてきてシナリオは彼らの生活感覚の中で逆シナリオとなって跳ね返ってくる。私自身こうして一人でリュックを背負い農家の台所まで上がり込んでいる。東南アジアの名も知らぬ村に足を踏み入れること自体が彼らの生活環境に直接触れることが最大のテーマではなかったかと考えさせるのである。

ノーンタカ村(2)ムラの形成

2021-09-22 02:22:01 | ウドンタニー
ムラがどのようにつくられたのか?私は大いに関心があった。
バンコクの英語の先生のチャナロン氏とこの村へやって来たときムラの形成過程やムラの名前の由来などを調べたのだが、そのペーパーがどこへいったか行くへ不明である。誠に残念である。

ただ、ほとんどが「ノーン」の名前であることから、それは「池」、「沼」の意味であるから、水資源のあるところに村を作ったようだ。

あるときノンタカ村(ムー4)の形成過程について聞き取りを行ったことがある。*ムー4とは行政単位の呼び名である。

ノンタカ小学校の西隣のトッおじさん(55才)に聞いてみた。
「このムラはな、今から50年程前、即ち1920年代に出来たんじゃ。」「最初にやって来た草分け家族はシィーター氏で、後に続いて5家族がやって来たんだ。ポーチャター、ポーサー、ポーコヌ、ポーチャリー、ポープイ、だったよ。」*ポーは年長男性の称号。

「大部分がノーンハーン郡内からやってきたんじゃ。
みな、土地の開墾をするためにやって来たんじゃ。それまでに自分たちの土地があったから耕しに来てたんだ。」

「わしがこの村に来たのは43年前、12才の子どもの時だった。その頃はもう50家族は確かおったな。」

ノーンタカ村(1)村の事情

2021-09-11 06:55:30 | ウドンタニー
ノーンタクライ村は(村人はノーンタカと発音)ウドムタニー県、ノンハーン郡、ノーンメック村にある。

ノーンタカ村には124戸の集落で、人口768人(男364人、女404人)が居住している。

ノーンハン郡には大字(タンボン)が11ある。ノーンハーン、ノーンメック、バーンデーン、サーベェーン、ソーイプラオ、ポォヌガーム、バーチェン、バーンジャー、パックガン、コーヌサーイ、バーンチョップである。

郡の中心郡はノーンハーンであり、約500戸の集落である。

ノーンメック村には小字としてノーンタカイ村を含めて11のムーバーン(小字村)がある。
 バーンノーンメック
 バーンコークスン
 バーンメックヤイ
 バーンノンタカイ
 バーンタイサワン
 バーンドングルオング
 バーンノーンメック
 バーンノーンノクター
 バーンノーンラッド
 バーンドォングワン
 バーンカムパックット

ノーンハーン郡全体からみれば154のムーバーンがある。

ウドムタニ県としてみればアンプー(郡)は20あり、正式には16郡とキング(小さい郡)が5つになる。