知らないタイを歩いてみたい!

タイの地方を紹介する。関心のある方の集まり。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

タイ・ユング旅行 ④ウボンラチャタニー町のお寺  -’86 夏ー

2020-12-01 06:42:22 | ウボンラチャタニー
 さて、再びウボンの街に戻り、もう一つ、ガイドのおすすめのわっと・パイヤイという寺院を訪れた。このお寺はタイでは有名なウボンのロウソク祭で知られるパレード用の山車が置かれていたり、大型ローソクも展示されているらしい。
 境内には家族連れ、遠足の女生徒たちがあちこちの芝生に座っている。別のグループの女生徒たちが天秤棒を担いで何やら売っている女行商人に群がって歓声をあげている。なんと長閑な光景である。塔の軒下に数日前に祭りに使われた10メートルはあるであろうローソク山車が放置されている。台の上には宝船、大波に乗ってそれを後ろからおっかける鎧に身をまとった兵士たち。波間に人魚のような女たちも泳いでいる。大魚、亀なども船の下に見える。いったいこれはなんだ。すべてが黄色のローソクでできている。またいつかパレードを見たいものだ。
 昼食は胃の調子が今いちなのでできることならきつねうどんくらい食べたいものだが当然ペケ。せめて、と目に留まったのが中華レストラ、名前はホン・アーハン・ラチャアニーという店。焼き飯を食べる。冗談で日本食はあるか?と聞いてみる。サシミならあるよ、と。カンボジアまで150キロ、ラオスまで85キロの隣接タイの内陸奥でどうもサシミは似合わない。興味はあったが注文はせず。できれば農家での昼食を、なんてガイドにお願いしていたがそんな気分に余裕がなくなった。強硬な行程、熱さ、湿気、臭い、ことさら総じて異文化の過度の接触のせいだ。
 昼食後満腹感からか睡魔におそわれ車に乗ると空気が抜けた風船のようにうとりうとりとしてしまった。
 実はあいにく今日は日曜日である。教育機関はすべて休みである。残念ながら中に入れない女子中等学校、教員養成大学、テクニカルカレッジを外側から概観することにとどまった。芝生の鮮やかな緑の校庭と白柱にはためく国旗が印象に残っている。
 余すところ30分あったが睡魔が容赦なく私の最大の欲望となった。早く眠りたいので次なる目的地ナコンパノム行のバスに乗り込むことにする。ガイドのチャイシット君に取決め料金を払い「チョックディナカップ!」(グッドラック)とお互い握手をして別れる。
 ウボンは華僑の経営するムアンにすぎない。



タイ・ユング旅行 ③ウボンラチャタニー森のお寺  -’86 夏ー

2020-12-01 04:50:09 | ウボンラチャタニー
 ガイドのアレンジに従って町はずれの河畔に立つ。相変わらずの黄褐色の行へ分からぬ川である。最初私はこの大河こそメコン川だと思った。ここはラオスとの国境の県であるからだ。メコン川はチェンライで出合ったことがある。感慨にふけっていると運転手が「この川はメーナム・モーゥン」(モン川)だと説明してくれた。私の早とちり勘違いだった。
 近代的な橋を東に渡るとそこはワーリンチャムラートという地区である。ちょっとした商業の町が開けている。町はすぐに水田地帯につながり水牛がムチ打たれて泥土を耕している。東北の死活を左右する雨の具合を聞いてみると「今年もまだ少ないね。」とのこと。カラカラの田圃も確かに目に留まる。途中右手に折れるとまさしく土のデコボコ道にかわる。
 南下すること数10分。熱帯林地帯に突入する。すると突如、タイでは珍しいコンクリート製の仏塔が聳えている。ウボン県では由緒あるお寺ワット・ノーン・パーポム(Wat Nong Pah Pong)というそうだ。およそ他のお寺とは趣を異にする。まずは境内が一面、熱帯林の中に埋まっている。昼なお暗き密林の空間は深く眠っている。「カッツ!カッツ!」と名も知らぬ鳥が天上で鳴いている。小道をやや進むと正面にウポーソ(本堂)が見えてくる。あの煌びやかな極彩色のものでなくギリシャ風のしっかりとしたコンクリート製の建物である。ボットの中は博物館になっており、さながら演劇ホールかのようで中央に対座する仏像も美術作品といった印象を受ける。木陰のやや向こうにウクィ(庫裏)が見える。黄衣の僧が水甕を抱えて木階段を上がっていく。あれ?顔をよく見ると西洋人である。タマユット派のこのお寺にはこの10年来アメリカ人、カナダ人、ドイツ人、オーストラリア人などの修行僧がかなり修行や瞑想をしているとのことである。西と東と両者融合不可能と嘆いた詩人キップリングの言葉に反し、ここウボンでは西洋と東洋が合いまみえていたのである。樹林環境の静寂で敬虔な聖域のあちこちで僧が瞑想しているそうである。
 現在、7月下旬はカオパンサー(入安居)期でこのお寺もひっそりとしている。本堂を少し右に折れたところにアルミサッシ張りのクティがある。ガイドに案内されて近づくとその中でこのお寺の80歳の高僧ルアン・ポー・チャーが瞑想中であった。一本の杖を左肩に支え特製の椅子に座し両眼を遠く樹林の彼方に合せて不動である。朝、一回の食事をとり終日ここに籠る。一瞬私はガラスケージの中に卵を抱いている鳥を覗いたかのような錯覚を覚えた。


タイ・ユング旅行 ②ウボンラチャタニー到着  -’86 夏ー

2020-11-28 05:04:42 | ウボンラチャタニー
 ラーマ四世通り近くのホテルに逗留する。ホテル近くのメデアインターナショナルという観光オフィスで東北タイのフライト便を探す。明日の便、ただ一便コンケン経由ウボンラチャタニー行のみ。飛行機で東北タイは似合わないが、悲しいかな時間がない。とにかくウボンまで1300バーツで購入する。いよいよ駒が動き出した。
 翌朝、気の良いタクシードライバーが「誰よりも安く送ってやる。」と驚異的な料金で空港へ連れて行ってくれる。なんと180バーツ。それも40分少々で飛ばしてくれる。まだ涼しいそよ風を肌に感じる7時、国内便に搭乗する。
 東北タイの人々にとって交通手段といえばバス、時として汽車であって料金がその10倍もする飛行機は大衆の足ではない。そんな機内にどんな人たちが乗り合わせているのだろうか?興味あるところである。機内を見回してみる。地方官僚、中国人商人、といった風采の人半分。あと幼児を連れた母親、髪をにグロにしてジーパン姿の女性、黄衣を身にまとった高僧数人といった取り合わせである。日本人はもちろんいない、旅行者風の乗客もひとりもいない。
 あるガイドブックにはウボンについて次のように触れている。「「ウボンはラオス、カンボジアの近くにある、一般の外国人観光客はまず訪れることのない辺境のまち。。。。」「ホテルと言えども蚊に刺されるとマラリアになる危険性もある。」云々。空港まで送ってくれた運転手も「あんたも変わった所へいくな。あっちのほうは絶対現金など持ち歩くなよ。」と警告してくれ仏陀のお守りをくれたくらいだ。
 障子の桟の目のような広大な中部水田デルタが雲間の彼方に見え隠れするころ機内食が出ておぼろげな意識は遮断される。コーヒー、オレンジ、チョコレートケーキ、それにサンドイッチ。つつましい満足感を味わう。国内線はいつも愛想のいいスチワーデス達である。まどろみの後、窓から下界を覗けば赤い土壌が朝陽に深く焦げ、血のように鮮やかである。土壌に付着している自然林が植樹林に入れ替わるころ、コンケン経由TH202便は行へ気ままに蛇行する川を抱くウボンの地に滑り込んだ。午前9時半である。
 空港は軍事機密があるので写真撮影は禁止。なんだか西部劇に搭乗するバラックのような建物だ。空港到着フロアには送迎のための地元民がパラパラ。そよ風がオフィスを筒抜けていく。タイ特有の「俺のタクシーに乗れよ!」といって群がる運転手は一人もいない。拍子抜けの感である。空港という存在はウボンの庶民の生活とはそれほど縁がなさそうである。
 花の名前は判らないが可憐で鮮やかな朱色の花が目に焼き付く。こうのようにあっけらかんと人々から無関心でいられるのも旅の者にはよし悪し、いや少々疲れるのも確かである。
 やがて遠くの木蔭から農婦が近づいて来る。「何か用かね?」のんびりと尋ねてくる。「少し町を見たいのだが。」情景はまったくスローで転回する。農婦は遠くへ向かって「オッエ!」とか叫ぶと小型トラックが穏やかに近づいてきて「とにかくこれに乗りな!」となる。日本の軽トラックに荷台にホロをかぶせたものである。運転席に飛び込んで「ウボンを見学したい。」と要件を告げる。出来る限り時間を切り詰めて今日中にメコンを北進したい。だから午後早くにも次の今日の宿場町ナコンパノムへ行っておきたい。そのためにここではチケットをもとめてとりあえずバスステーションへ直行する。
 疎林の高原の間をぬって10分ほど走るとウボンの街である。辺境の街という感じは全くしない。よくあるムアン(邑)の類の町である。ショーウインドを備えた洋服店もあれば、自動車会社も電気屋もある。タラート(市場)も映画館も中華レストランも活況を呈している。文字通り現代ムアンである。次なる目的地へのバスは午後2時出発である。エアコン付き座席指定。とりあえず次に駒を確保できたのである。
 バスの切符を買った後、残り4時間の行動計画と案内料を決めるためにステーション隣の茶店に入る。実をいうとウボンについての知識は何もないのである。そんな時は必ず私のオーソドックスな切り札を出す。それと現地ガイドの推奨の地と混ぜ合わせてプランが捻出される。①農家が見たい、できれば昼ごはんはその農家で。②川が見たい。毎度、国際線機上から見下ろしていたウボンラチャタニーの沼のような川が見たい。③ひとびとのエネルギーに触れたい。それはタラート(市場)に限る。臭い、喧騒、熱気、見たこともない動植物、タラートはその町の活況のバロメーターである。④もちろん寺院もはずせない。ウボンで一番由緒があるといわれる寺院はぜひ訪れておきたい。⑤おっと落としてはならないのは学校である。地方の教育機関の実態は見ておきたいところだ。ガイド兼運転手は一瞬私の要望に不安と驚きともとれる表情をしたが「了解。」と答える。しめてガイド料は250バーツ。当地では決して安くはないであろう。

 


タイ・ユング旅行 ①旅の決断原則  -’86 夏ー

2020-11-25 06:34:46 | ウボンラチャタニー
 今年の夏もタイに行くことができた。大阪でもドムアンでも空港発着時にはたくさんいた日本人乗客も実際の私の10日間のタイ視察旅行には一人も出あわなかった。
 つまり、この10年来の私のタイ行きもそのパターンが段階的ではあったが変化してきたことによる。タイ人ガイドとの観光的システムにいやがおうでもつき合わされた初期のパターンからタイの農民や教師らと知り合っていくなかで最近は彼らの普段の生活空間の”流れ”にまかせたり、一人でのんびり地方探索にひたったり、いわば肩に力の入らない旅ができるようになった。必然的に日本人を見かけることもなくなったのである。
 日本ではまず紹介されることはないであろう生きとし生けるタイの庶民達との出会いをたとえ10日余りの滞在であっても毎年繰り返せば彼らの時間の流れの中で彼らの実態象がみごとに写し出されのも事実なのである。私のその意味でタイに何年いたとかという時間論よりも短期間であっても、誰とどんな風に関わってきたかという様態こそがその国の心底を真に捉えうると言いたい。
  本稿では、はじめに今回の単独探訪記を書き記し、その後、先ほど述べた視点をもってこちらの意識を相手の意識構造の流れの中に近づけた場合何が見えたのか、その一端を具体的に述べてタイの現在の姿を理解する一助としたい。
 とはいえ10日余りの日程では行ってみたい地域、毎度言っている地域いずれもこころゆくまで回ってみることはできない。東北タイのメコン川バス北上の旅、北部の国境の町メーサイ再訪、南部鉄道の旅、どれも魅力的である。あるいは今回はバンコクの大学のキャンパスに身を置いて思索してみるのも魅力的だ。中等学校の教師カニヤさんにも、中部農村の女学生ソンブーンにも会ってみたい。
 いろいろ具体的に計画を練ってみるがどれも削るのはつらい。裏返していえば衝動はあっても策がない、というものだ。バンコク到着してからもどこへ行くべきか適地の選択に迷っている。だが、いつまでもそうは言っておられない。
 到着翌日、決断原則をたてて気持ちの整理をする。①時間のかかるコースをまず進む。もし少し後で行きたくなっても時間的に取り返しがつかない。②現地に来て、そうすることが億劫になっている、エネルギーがかなりかかる、が、日本にいるときには一番行きたいと思ったところ、そこははずせない。③タイの友人、知人には必ず会っておくこと、等々である。
  タイへ来てこんな理屈を考えるのも楽しいものだ。とにかく私はタイの流れに身を置いたのだ。原則に沿ってまずは当歩期待、メコン川北上のバス紀行、残りはタイの友人たちの訪問ということに落ち着いたのである。