午前七時半にユパラート高校へ。
早朝ツアーは自由参加だったが、これからの現地学校視察、王立ユパラート中等学校、ナータシン舞踊学校は全員で臨むことなっている。総勢二十数名であるが。ユパラートでは、生徒の朝礼風景、そこでの国歌が流れる中、国旗掲揚と仏教に基づく説法、そして集団訓練の大切さをひそかに学ぶのがねらい。
早朝ツアーは自由参加だったが、これからの現地学校視察、王立ユパラート中等学校、ナータシン舞踊学校は全員で臨むことなっている。総勢二十数名であるが。ユパラートでは、生徒の朝礼風景、そこでの国歌が流れる中、国旗掲揚と仏教に基づく説法、そして集団訓練の大切さをひそかに学ぶのがねらい。
高校生ばかりでなく、参加した日本の大人達もぜひこの光景をじっくりと見学して欲しいもの。その流れの中に日本の高校生達の紹介をいただくというストーリーである。
その時のタイ側生徒の歓迎挨拶である。「キムラ先生、高校生の皆さん、すべての大切な日本からのゲストのみなさん、ユパラート校を代表してここで歓迎のことばを述べたいと思います。われわれユパラートのもの達はここに皆さんを迎えてとてもうれしいです。東宇治高校のキムラ校長先生、久御山高校の先生や生徒さん、東宇治、兔道、鳥羽高校の生徒さん達、これから2週間日本の友達と共にタイ様式の生活やお互いの知識、考えを相互に交換できることはとても誇りとするところです。
その時のタイ側生徒の歓迎挨拶である。「キムラ先生、高校生の皆さん、すべての大切な日本からのゲストのみなさん、ユパラート校を代表してここで歓迎のことばを述べたいと思います。われわれユパラートのもの達はここに皆さんを迎えてとてもうれしいです。東宇治高校のキムラ校長先生、久御山高校の先生や生徒さん、東宇治、兔道、鳥羽高校の生徒さん達、これから2週間日本の友達と共にタイ様式の生活やお互いの知識、考えを相互に交換できることはとても誇りとするところです。
この国と日本はよき友人です。われわれはいつも文化や経済において変化を受けています。そして、長年に渡って両国はよき友情関係を保ってきました。この友情が今後も続きますよう希望しています。われわれは国家の中のわずかな一部、ほんの一学生にすぎませんが、両国の相互理解への機会の一部を担ったことはとても幸せであります。どうかこれから2週間チェンマイでの生活を楽しんでください。ゆっくりおくつろぎください。ありがとうございました。」(以上、生徒代表の挨拶の台本から)
その後、確か5年ほど前に植えたガサリンという黄色い花を付けるネムの木に似た記念樹を参拝し、記念撮影。しかし、植えた場所が少々移動しているのを見ると本当に私が植えた記念樹は何らかでなくなったのだろう。どうでもいいが。この後、クーラーの聞いたセレモニー会場へ移動。歓迎式典と続く。そこではホストの生徒をあらためて紹介し、ともに席につく。続いてユパラートの紹介であるがタイ語だ。
日本人はまず映像を追っかけ想像する時間である。いつも思うが相手の理事長さんは原稿なしの立派なスピーチだ。私も日本側の代表だが原稿でカタカナタイ語だ。意味が自分でも分からない。元原稿をなくしてしまったからだ。おかげに目から涙が出だしてカタカナが読めない。もっと大きな文字を書いておけば良かった。
歓迎式典が終わり、校舎本部へ向かう、そこでは生徒や先生の我々のために行われる特別番組に参加する。カービングやタイ料理教室(パッタイ、トムヤムクン、ヤムウンセン)、ランナー・パーパー・アートなどの体験学習である。一気にチェンマイ文化の深部へ導かれました。こうしたプログラムは事前に理事長とピアムスック先生達が相談をしてアレンジしてくれただけありこちらの要望がすべて入れてある。有り難いものである。というのも日本人にはいくらか行ってみたいところもある。短い日程の滞在である。ユパラート半日過ごすことは趣旨がどうか?という気がする。強制になる。だから当初は、朝礼と若干の交流会で少なくとも10時には次なる目的地へ移動しよう、という計画だった。ピアムスック先生に「余り長居はできない。ユパラート以外にも舞踊学校へも行かねば。チェンマイ文化の講習受けたい。だからタイ料理、カービングの学校へも行きたい。そういう方がいる」とかあれやこれやの理由をつけた。せっかくのチェンマイだ。インターネットで調べて置いた愉快そうな先生のいるタイ料理学校の2,3時間コースも何かの出会いが有りそうで行きたかった。
だが、「それなら学校ですべてやってあげましょう。」とピアムスック先生側の配慮と相成った。そのための会議を開きその費用は理事長が持つ、メニューはこちらが希望するもの。デモンストレーションは生徒達である。日本では生徒まで使って、しかも授業中である。こんな柔軟なというか、でたとこまかせなプログラムはそうはできないなと感じた。こうした親切な行為に対して「だれがペイするのか?」は我々はいつも気を張りつめておかねばならないことだ。