これまでは「見聞記」というよりイサーン に関する書物の断片的知識の引用が中心にな ってしまいました。この辺で私の目で見たイ サーンの情景や、私が実際に出逢うことので きた人々の暮らしやら、その人々の声をミクロに書き進めていきたいと思います。
とは言っても私がこれから書こうとするとことはタイの村について客観的に、かつ実際的に記したものではないことは当然で す。 ことばを換えて言いますと次のようであ ります。 私のやり方は「一人の旅人が一つの国の一つの場所(その国民の全体にもよく知 られていない所)にまよい込み、村に入り、 ある農家に寄寓し、その高床の上から、限ら れた時間内に限られたインフォーマントとい う制約を受け"”むら”のことどもを私の目と いうサーチライトで一隅一点を照らしてい くことでありますから、人類学で言う直接参与 方法だとか帰納的手順だとか言っもそこに写し出される映像は乱雑、中途半端の誹は免れません。
にもかかわらず私もその人たちも今生きて いるという共感から、たとえ断片的であって も私はむらの人々にいろいろ聞いてみた いのです。自分の住みつづけている地域につ いてどう考えているのか、今一番の関心事は 何か、日常のサヌック(楽しみ)は何か、子 どもに何を期待するか、等々。こうした聞き とりのみから私の見聞記は成り立ってい ると思うのです。その中で学間的手続きをと っていなくても「どこのグレベエ」がかく語 り、そのダレベエの唾汁かかった記述が少 しても出来ればそれこそが私にとっては唯一 の自負できる寄る辺であります。
余談ですが私の見間作業は無理に歩きまわ るのでもなく、立ち上がるのでもなく、 全方 位に目をやるのでもなく、無為に地面にベタッと這いつくばってやっているものですか ら、これは「ミミズ」 的だな、と思うのです。予め調査場所を探す必要も感じませんし、インフォーマントに当たり外れがある訳でもありません。雨、水、土、木虫、人、 などのエコロジーに少しでもひたって小さく呼吸 さえさせてもらえれば満点だと考えている 「ミミズ」なのです。
とは言っても私がこれから書こうとするとことはタイの村について客観的に、かつ実際的に記したものではないことは当然で す。 ことばを換えて言いますと次のようであ ります。 私のやり方は「一人の旅人が一つの国の一つの場所(その国民の全体にもよく知 られていない所)にまよい込み、村に入り、 ある農家に寄寓し、その高床の上から、限ら れた時間内に限られたインフォーマントとい う制約を受け"”むら”のことどもを私の目と いうサーチライトで一隅一点を照らしてい くことでありますから、人類学で言う直接参与 方法だとか帰納的手順だとか言っもそこに写し出される映像は乱雑、中途半端の誹は免れません。
にもかかわらず私もその人たちも今生きて いるという共感から、たとえ断片的であって も私はむらの人々にいろいろ聞いてみた いのです。自分の住みつづけている地域につ いてどう考えているのか、今一番の関心事は 何か、日常のサヌック(楽しみ)は何か、子 どもに何を期待するか、等々。こうした聞き とりのみから私の見聞記は成り立ってい ると思うのです。その中で学間的手続きをと っていなくても「どこのグレベエ」がかく語 り、そのダレベエの唾汁かかった記述が少 しても出来ればそれこそが私にとっては唯一 の自負できる寄る辺であります。
余談ですが私の見間作業は無理に歩きまわ るのでもなく、立ち上がるのでもなく、 全方 位に目をやるのでもなく、無為に地面にベタッと這いつくばってやっているものですか ら、これは「ミミズ」 的だな、と思うのです。予め調査場所を探す必要も感じませんし、インフォーマントに当たり外れがある訳でもありません。雨、水、土、木虫、人、 などのエコロジーに少しでもひたって小さく呼吸 さえさせてもらえれば満点だと考えている 「ミミズ」なのです。
またまた脇道にそれてしまいましたが、私 はこんなたわいもないことを遂行するため深 夜バスに乗ってパンコックからイサーンにむ けて北上したのです。
バスの中はイサーンの人がほとんどのよう です。一般に中部の人がイサーンに行くこと はまずないようです。 長年ガイドをやってい るパイラット氏も実ははじめてなのです。で すから「コンケーンあたりの農村に入ろう」 数日前から打ち合わせていたのですが、ガ イド氏にしたら多少の準備が必要だったよう です。その大きな一つが現地での「助っ人」 探しだったのです。ガイドのガイドが必要な のです。そんなことでバスに乗った時には一 種の緊張感がありました。
イサーンの人々がさかのぼる日々に都会へ 生業を求めてやってきてある人は成功をおさ め、またある人は失意の中を故郷へ帰ってい ・・・・・・バスの中はそんな人々の情景があるの かもしれないと思ったのです。 出発したばか りのバスの天井スピーカーからポンポン太鼓 のリズムにのって歌が流れています。「コンケーンはすばらしいよ。 イサーンの中心だ。 わが町コンケーン」といった文句の歌 です。なんとなくものうとしい響きでした。
イサーンの人々がさかのぼる日々に都会へ 生業を求めてやってきてある人は成功をおさ め、またある人は失意の中を故郷へ帰ってい ・・・・・・バスの中はそんな人々の情景があるの かもしれないと思ったのです。 出発したばか りのバスの天井スピーカーからポンポン太鼓 のリズムにのって歌が流れています。「コンケーンはすばらしいよ。 イサーンの中心だ。 わが町コンケーン」といった文句の歌 です。なんとなくものうとしい響きでした。
バスは朝五時すぎに高原の地コンケーン県 に入りました。 乾いた田畑が道の両方に見え る他は人工的空間などありません。 やが 地が丘段状に散在し異様な景観でした。 今 から百三十年ほど前にこの地に踏み込んだフ ランスの科学者探偵察アンリ・ムオはこの 地の描写として「この辺の空気は温調で、不 健康で息苦しい。 私は、ラオス人やシャム人 が地獄と呼びならわしている森の入口にい る。この死の国に棲む悪魔たちは、この厚い のもとに深く眠る多数の哀れな旅人の骨 をまき散らすのだと言われている」 と不気味 な表現をしていますが、 太陽が顔を出すま でのイサーンの一面を言いあらわしているよ うです。うっすらとした夜明け前。丘段の疎林、 竹藪の「黒」と、水田・荒池の「白」と 路ばたのラテライトの「赤」、これがイサー ンの景観の色彩だな、と思いました。
六時少し前コンケーンの町に到着しパスを 降りました。 まず軽トラック改造ミニバスを 一台貸し切りガイド氏の例の「助っ人」を探 ねることとなりました。 その助っ人とはコマーシャルカレッジの先生である、という ことだけが手掛りでした。その学校を訪れ、 学生に先生の住所をたずねたり、その先生の フラットを訪れるまでのドライブで私はミニ バスの荷台の幌の中から朝日に輝くコンケー の町並をあちこち眺めることができまし た。気温は22℃を示して涼しいかぎりです。
コンケーンの早朝はとても活気があります。 市場へ行く人、荷車、自動車、バイク、サムロ が砂ぼこりの中で騒々しく行き交います。 黄衣の僧の行列がなんとも言えぬ落ち着 きを与えてくれます。 二〇〇メートルの海抜 の高原は熱帯といえども気に満ちあふれた 快適な朝の情景を提供してくれます。 夜明け前の「死の国」のイメージは全くありません。
さて、どうやって“むら”に入るか。どん な"むら"が待ちうけているのか。 ミニバス のドライバー氏に私の目的を告げる。 「うち も二十ライの水田を耕している。うちでもよ かったら来てくれ。」と誘ってくれる。 さあ、 はるばる私をここまで連れてきてくれた私の 好奇心はここで最高に達したのです。 この旅 行も八割は成功した気分です。 ミニバスは私 ガイド氏二人を乗せて西方にむかってフル スピードで走ります。 「助っ人」 ガイド氏は午後来てくれることになっています。 朝日が 背中に追っかけてきます。 コンケーン大学の ハス池やら美しい森などが目に入ります。 空 は澄み車が切る風はますます爽かです。
三〇キロほど西に進んだところに小さな町 パントムがあり、そこを右に折れて三キロほ 北上したところにわがドライバー、スーテ ン氏の村が我々を待ち受けていました。村の 赤味をおびた街道に女性や子どもが水くみ作 業をしています。 あるものは天秤棒でバケツ をかつぎ、あるものはリアカーにポリ用器を 積んで。中部ではあまり見かけなかった早朝 の風景です。 高床も中部より若干高いようで す。 その床につづく階段をのぼって左手の一 角が私の寄の場所となったのです。 「お世話になります。」とスーテン氏の奥さん、お 母さんに挨拶をする。 「こんなところまで日 本人やバンコックの人が来てくれてこちらも とてもうれしい。」とスーテン氏がニッコリ とする。 パイラット氏も重費から解放された のかすぐに水浴衣を借りて朝のシャワーをあ びる。私ももちろんです。こんな調子で私は コンケーン県ムアン郡パントム区のむらにミ ミズの目をセットすることになったのです。 (つづく)