知らないタイを歩いてみたい!

タイの地方を紹介する。関心のある方の集まり。写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

イサーン見聞記5

2022-04-03 11:41:41 | ハノイ
これまでは「見聞記」というよりイサーン に関する書物の断片的知識の引用が中心にな ってしまいました。この辺で私の目で見たイ サーンの情景や、私が実際に出逢うことので きた人々の暮らしやら、その人々の声をミクロに書き進めていきたいと思います。

とは言っても私がこれから書こうとするとことはタイの村について客観的に、かつ実際的に記したものではないことは当然で す。 ことばを換えて言いますと次のようであ ります。 私のやり方は「一人の旅人が一つの国の一つの場所(その国民の全体にもよく知 られていない所)にまよい込み、村に入り、 ある農家に寄寓し、その高床の上から、限ら れた時間内に限られたインフォーマントとい う制約を受け"”むら”のことどもを私の目と いうサーチライトで一隅一点を照らしてい くことでありますから、人類学で言う直接参与 方法だとか帰納的手順だとか言っもそこに写し出される映像は乱雑、中途半端の誹は免れません。

にもかかわらず私もその人たちも今生きて いるという共感から、たとえ断片的であって も私はむらの人々にいろいろ聞いてみた いのです。自分の住みつづけている地域につ いてどう考えているのか、今一番の関心事は 何か、日常のサヌック(楽しみ)は何か、子 どもに何を期待するか、等々。こうした聞き とりのみから私の見聞記は成り立ってい ると思うのです。その中で学間的手続きをと っていなくても「どこのグレベエ」がかく語 り、そのダレベエの唾汁かかった記述が少 しても出来ればそれこそが私にとっては唯一 の自負できる寄る辺であります。

余談ですが私の見間作業は無理に歩きまわ るのでもなく、立ち上がるのでもなく、 全方 位に目をやるのでもなく、無為に地面にベタッと這いつくばってやっているものですか ら、これは「ミミズ」 的だな、と思うのです。予め調査場所を探す必要も感じませんし、インフォーマントに当たり外れがある訳でもありません。雨、水、土、木虫、人、 などのエコロジーに少しでもひたって小さく呼吸 さえさせてもらえれば満点だと考えている 「ミミズ」なのです。

またまた脇道にそれてしまいましたが、私 はこんなたわいもないことを遂行するため深 夜バスに乗ってパンコックからイサーンにむ けて北上したのです。

バスの中はイサーンの人がほとんどのよう です。一般に中部の人がイサーンに行くこと はまずないようです。 長年ガイドをやってい るパイラット氏も実ははじめてなのです。で すから「コンケーンあたりの農村に入ろう」 数日前から打ち合わせていたのですが、ガ イド氏にしたら多少の準備が必要だったよう です。その大きな一つが現地での「助っ人」 探しだったのです。ガイドのガイドが必要な のです。そんなことでバスに乗った時には一 種の緊張感がありました。

イサーンの人々がさかのぼる日々に都会へ 生業を求めてやってきてある人は成功をおさ め、またある人は失意の中を故郷へ帰ってい ・・・・・・バスの中はそんな人々の情景があるの かもしれないと思ったのです。 出発したばか りのバスの天井スピーカーからポンポン太鼓 のリズムにのって歌が流れています。「コンケーンはすばらしいよ。 イサーンの中心だ。 わが町コンケーン」といった文句の歌 です。なんとなくものうとしい響きでした。

バスは朝五時すぎに高原の地コンケーン県 に入りました。 乾いた田畑が道の両方に見え る他は人工的空間などありません。 やが 地が丘段状に散在し異様な景観でした。 今 から百三十年ほど前にこの地に踏み込んだフ ランスの科学者探偵察アンリ・ムオはこの 地の描写として「この辺の空気は温調で、不 健康で息苦しい。 私は、ラオス人やシャム人 が地獄と呼びならわしている森の入口にい る。この死の国に棲む悪魔たちは、この厚い のもとに深く眠る多数の哀れな旅人の骨 をまき散らすのだと言われている」 と不気味 な表現をしていますが、 太陽が顔を出すま でのイサーンの一面を言いあらわしているよ うです。うっすらとした夜明け前。丘段の疎林、 竹藪の「黒」と、水田・荒池の「白」と 路ばたのラテライトの「赤」、これがイサー ンの景観の色彩だな、と思いました。

六時少し前コンケーンの町に到着しパスを 降りました。 まず軽トラック改造ミニバスを 一台貸し切りガイド氏の例の「助っ人」を探 ねることとなりました。 その助っ人とはコマーシャルカレッジの先生である、という ことだけが手掛りでした。その学校を訪れ、 学生に先生の住所をたずねたり、その先生の フラットを訪れるまでのドライブで私はミニ バスの荷台の幌の中から朝日に輝くコンケー の町並をあちこち眺めることができまし た。気温は22℃を示して涼しいかぎりです。

コンケーンの早朝はとても活気があります。 市場へ行く人、荷車、自動車、バイク、サムロ が砂ぼこりの中で騒々しく行き交います。 黄衣の僧の行列がなんとも言えぬ落ち着 きを与えてくれます。 二〇〇メートルの海抜 の高原は熱帯といえども気に満ちあふれた 快適な朝の情景を提供してくれます。 夜明け前の「死の国」のイメージは全くありません。

さて、どうやって“むら”に入るか。どん な"むら"が待ちうけているのか。 ミニバス のドライバー氏に私の目的を告げる。 「うち も二十ライの水田を耕している。うちでもよ かったら来てくれ。」と誘ってくれる。 さあ、 はるばる私をここまで連れてきてくれた私の 好奇心はここで最高に達したのです。 この旅 行も八割は成功した気分です。 ミニバスは私 ガイド氏二人を乗せて西方にむかってフル スピードで走ります。 「助っ人」 ガイド氏は午後来てくれることになっています。 朝日が 背中に追っかけてきます。 コンケーン大学の ハス池やら美しい森などが目に入ります。 空 は澄み車が切る風はますます爽かです。

三〇キロほど西に進んだところに小さな町 パントムがあり、そこを右に折れて三キロほ 北上したところにわがドライバー、スーテ ン氏の村が我々を待ち受けていました。村の 赤味をおびた街道に女性や子どもが水くみ作 業をしています。 あるものは天秤棒でバケツ をかつぎ、あるものはリアカーにポリ用器を 積んで。中部ではあまり見かけなかった早朝 の風景です。 高床も中部より若干高いようで す。 その床につづく階段をのぼって左手の一 角が私の寄の場所となったのです。 「お世話になります。」とスーテン氏の奥さん、お 母さんに挨拶をする。 「こんなところまで日 本人やバンコックの人が来てくれてこちらも とてもうれしい。」とスーテン氏がニッコリ とする。 パイラット氏も重費から解放された のかすぐに水浴衣を借りて朝のシャワーをあ びる。私ももちろんです。こんな調子で私は コンケーン県ムアン郡パントム区のむらにミ ミズの目をセットすることになったのです。 (つづく)







友人H氏から私の生き様についての投稿

2022-03-27 05:40:42 | ハノイ


先日、K先生と例のように無駄話を楽しんだ。
K先生はタイ国(確か農村について)の研究で有名な方であるから、勢い話はその方向へすすむ。
先生がそちらの方へ話を持っていくといった方が正確だが。

先生が言うには、タイの山岳民 は、近代文明をかたくな 続けているものがあるという。
しかも何かの用事で山を下りることがあり、その際、便利な物、華美な衣類といったものを目のあたことがあっても、手を触 って行くという。

こんな話になると先生は次第に熱を帯び、解説することタイ国のすべてに及ぶ。 (タイの国の形状 っきり知らないほどの私ですから)
「へ―え。 なるほど・・・・・」とやきながら、聞き手一方にまわりのが常である。


しかし、たまたまこのときは、反論とはいかないが鋭い質問をしてしまった。
「それは金がないとか、交換するものがないとか、、、つまり、
貧しいゆえに我慢しているだけとちがう?」
続けて「何かこう、、、主義とか戒律みたいなものがあって、それ故に拒絶している訳ですか?」

この件に関してはまだ調査が進 んでいなかったのでしょう、歯切 れが悪い。 少し私がしつこく食い 下っていると「実在すると言ったままで、そう易やすと答えられるかいな!」 と急に不機嫌になり話は中断し た。

K先生はいつも、実際の見聞を 交えて話すので、面白いことこの上ない。 そして最後はいつも次の持論でめくくる。

「東南アジアをながめるとき、西流の考えや目で価値判断してしまうのは、まったく間違いである。」と。
私など、その張本人であるかの ように批判される。それこそ、「何もしていないのに」と言いたいくらいである。

意識のなさがいかんということ なのだろう。そういう傾向にある日本人への批判であれば、聞き易く又、頷き易いのであるが、おとなしい聞き手を血祭りに上げるのには全く閉口する。
K先生とはじめて知り合った頃は、詩をかくことのみを愛し、同人誌を発行することに熱中する詩人であった。

東南アジアの研究に没頭しだした理由ははっきりとは知らないが近頃はほとんど詩を書いていない様子である。
タイ国の研究も、内容を聞かせ てもらうと、地味で限りのないフィールドワークである。 研究の対象が広く、迷い迷いで 「困った」と口走るのを聞いたことがある。

或る日、私は「何んで先生の研究対象はタイ なのですか?。 タイでないとい けませんのか?」愚問ここに極めりの質問をし発した。
ぐっと詰まり、暫くして語気荒 先生は答えた。 「もうこうなったらタイなの だ!」と。

人生は複雑なのでしょうか。 ひ ょっとすると簡単なのかもしれな い。昭和57年12月7日「都々城野」


イサーン見聞記4

2022-03-25 07:29:00 | ハノイ


随分前おきが長くなり誠に恐縮ですが前おき の最後として地理的、地形的な面に少し触 れておこうと思います。

前章にあげた地図からもわかりますように イサーンはタイ全土の約1.3 に当る約一七 万㎞を占めています。人口も全人口約四三〇 〇万(一九七六)の約三五パーセントくらいを イサーンで占めています。

北は東側にメコン川が走り、西は北から南 にペッチャブーン山脈、南はドンパヤージェ 山脈がそれぞれそびえ、中央平野とイサー ンとの間の交通輸送を遮断しているかのよう です。この高原は「コラート高原」と呼ばれ 平均標高は一二〇~二〇〇mであります。 西 側のチャヤプーム県の中心都市は一八五mで あるのに対し、南側のナコンラチャシマー市 は一八一m、ラオス側のナコーンパノム市は 一四四m、東の端のウボンラーチャタニー市 は一二三m、 でありこの高台は西から東にゆ るやかに傾斜しています。 この高原を囲む山脈は頭が切り取られたような、 もしくは草刈 刀のような地形をしており、どの山も標高 はあまりかわりません。 先ほど述べたペッチ ブーン山脈は平均四〇〇~五〇〇m、ドン パヤージェン山脈は平均五〇〇~七〇〇mで あります。

私は朝の白みはじめる頃この高原を走った のですが沿道が妙に乾ききった砂ぼこりの 舞う光景が見えました。 地質学のことはよくわ かりませんがこれは熱帯特有のラテライト だということです。 コンケーンの町に入っ た時に朝の太陽が山並から顔を出したのです が土は本当に赤味を帯びていました。夕方に はピンクに見えます。 ちょうどテニスコート のアンツーカーと同じです。 ラテライト性土壌とは 「乾季の気候によって土壌の溶脱作用 が衰え地下水が上昇し表土の蒸発が盛んとな ってサバンナ土壌と風化している地域」で「気候 的要因による風化に加えて基盤となる母岩 自体が赤色砂岩であり、一部沖積層の堆積から成り立っている。」(名古屋女子大タイ学術 調査団一九七五より) とのことですが私には むずかしいことです。 もっとわかりやすくい えば「土地は衰弱し植性にあわない」という ことでしょう。 農作物の状況もおしはかられ ましょう。 もはや人力は自然の衰えにより自 然とたたかえなくなった、あるいは自然との 協調をおしすすめることができなくなったと いうことでしょうか。



面白い記事が科学朝日 (一九八〇、12) に載っています。 海抜五〇〇m以下の熱帯林 一〇〇平方mにカエルとトカゲが平均どのく らい生息しているかという調査データです。 パナマではカエルが二九八尾、トカゲが 一五、四尾に対してタイの常緑林地帯ではカ エル〇、一二尾、トカゲ一、〇三尾、落葉林 地帯ではカエル、二七尾、トカゲ一、二 一尾といった比率です。 コスタリカではカエ ル一一、 六、 トカゲ 三九といった数字で すが、このデータを通してタイでいかに両生 類、爬虫類が生息しにくいかということを述 べています。 熱帯林とは数年おきに実がなり 地上に落ち、この落果に群がる節足動物をエ サにしてカエルやトカゲが植するらしいの ですが、要するにタイの熱帯林フタバガキ科の高木はなべての実がなんらかの理由でならない年の方が多いということを示しているようです。ですからミミズも少なければカエルもトカゲも他の大陸とくらべて極少だということです。ミミズのいないところは人の暮らしも貧しい、ということになるのでしょう。

このイサーンの主たる経済はもち米を中心 とした水田稲作であります。 バンコックから 同行のガイド パイラット氏はこのもち米が なかなか食べられず胃痛を起したりしてまし たが私には日本の祭りのオコワを食べている ような気分でむしろ快適な気分になりまし た。その他の農産物はジュート、 ケナフ、玉 ねぎ、こしょう、タバコ、コットン、ピーナ ッツ、砂糖きび、タピオカ、カポック、ココ ナッツ、などです。 これらの農業生産高はク イ全土の二五三〇%を占めているようで す。

年平均気温は二八七二〇一九七二)で ありますが三月から五月が最も高く最高気温 は三九度くらいになります。 低いのは十一月 から一月で平均気温は二二にさがります。 気象に関しては最も問題となるのが降雨量な のです。 農民の期待する雨季に十分な雨が降 らなかったり予想以上の大雨が降ると彼等の農作物は致命的な打撃を受けるのです。 年間 でも一〇〇〇をやっと越す程度であり、 乾季の十一月から翌年四月までを見れば月二 ◯ということもあるのです。 五月の雨季で も一九七二年をみれば一七、五皿という なのです。 こんな悪条件ですから年間通し て農作物を作ろうと思っても人力ではどうし ようもありません。 こうした水利の問題はあとでケーススタディの中で詳しくふれていて うと思います。

東北部には多くの支流をもつチー川、 ムー 川のような大河川が流れるにもかかわらず 雨季には洪水、乾季には水不足といった問題 も発生し十分な収穫をあげることができない 地帯なのです。 降雨量の問題、地質学的な問 題など自然的障害に加え人為的な障害もある ようです。 それは無秩序な森林の伐採が広範に年々進行していること。それにより洪水 を引き起し、水を一挙に不足させる促進剤を つくっているということです。人工衛星から の写真によればこのイサーンの森林面積は10 %くらいのものだそうです。 そういえば 「田舎の先生」の映画の中で村の有力者が不 法伐採をしているシーンを大々的にとりあげ ていたのを思い出しました。

雨、水、土、木、虫、人、 などエコロジーのバランスが相当深刻にくずれてしまったと ころのようです。 こうした自然的条件の障害 をイサーンに生きとし生ける人々は実際には どのように考え、どのように暮しているの が、いよいよ私の体験上の見聞からミクロに ながめていきたいと思います。 (つづく) (注、資料は『東北タイコンケン地方農民の 生活』名古屋女子大学タイ国学術調査団よ り)













イサーン見聞記3

2022-03-24 07:31:48 | ハノイ


この章に入ってなかなかペンが走りませんでした。その原因は実はなんとか正確な記述 をしたいと思う私のこだわりからです。 しか もわずかのことなのです。 バンコックからナ コンラチャシマ(コラート)を通りコンケーンへつづく国道の距離のことです。 手もとに ある「某調査報告」の類いの本をいくらかみ てみると、ある本は五五〇キロと書いているし、また、ある木は六〇〇キロ弱と書いている し、四五〇キロってなのもあります。 私を案内してくれたタイ人の言をかりると六五〇 です。 どれが正確なのか、また実測記録が あるのか、ないのか私にはわかりません。

ただ、いえることはパンコックを夜十一時 にでてアスファルトの快適な高速バスのドラ イブで、朝六時十分にはコンケーンに着いた、という事実です。 途中三十分くらいの軽食の ための休憩をのぞいて、バスが八〇キロの平均速度で走ったとしてその距離を推定すれ ば、だいたい五五〇キロあるかないかではな いかと思います。 もっぱら、バンコックの北 のバスステーションから測るのか、国会から 測るのか、その出発点により五〇キロくらい の幅が出てくるのは当然でありましょうが、 いずれにしても京都から東京まで鉄道の駅間 五一三・六キロですから、それより少々長い くらいの距離だと思ってもらえばいいでしょ う。こんな事にはあまり意味はありません し、一昔前までタイの人々は道路なんていう ものはもたなかったし、そのかわり川の水路 を大いに利用してきたのですから。

さて、東北タイ 「イサーン」については最近になって少なからず立派なフィールド報告 がなされています。 日本人では一昨年現地調査中に発病され、おしくも亡くなられた水野浩一氏(京大東南アジア研究センター)がくわ しく報告しています。 最近になって水野氏の 「タイ農村の社会組織」1980創文社) が出版されています。 これは研究報告です が、もう少しイサーンの日常の空気を吸って みようとされるなら前に述べました 「田舎の先生」とか「東北タイの子」(井村文化事業社)などがとっつきやすいと思います。 これらの小説はタイ人の手で書かれたものですの 本当にイサーンに生きる人たちの風俗習慣 のひといきひといきを知る上では絶品ではな いかと思います。 英文になりますがシカゴ大 学の人類学者 S. J. TAMBIAH の「東北タ イにおける仏教と信仰」 (一九七〇、ケンブ リッジ大学出版も面白い本でしょう。

このイサーンについての有効な編纂史は 特にないようです。 この地域がいつのころか ら「イサーン」と呼ばれるようになったのか はわかりません。 タイ (シャム)の朝貢国としての従属時代からのものなのか、タイの近 代的な国家のワクが強化されてのものな のか。スミス氏(一九七六)によればシャム 人がこの地を支配下に入れてからのも ののようです。 「イサーン」が古代インド を表わすとするなら、バンコック朝側から起こった呼称であることは当然でしょう。 ラオスからみれば「南」であるからです。

シャム王国がアユタヤに遷都した14世紀 から18世紀にはこのイサーンは真の支配 下にはなく一つの周辺国周辺地帯にあったようです。 シャム人から見る限りでありま すが)このことはラオス側からみても同じで 一つの地方国〈朝貢国)でもあったのでしょ う。いずれにしてもこのイサーンはシャムと ラオスの機能を持ち、それ自体と してはあまり重要な地域ではなかったと考え るのが正しいでしょう。このアユテア朝の期 に何らかの誘因でタイ系諸族が南下し ていったのでしょう。 その前は元々ク メール文化が色濃く残っていた地域のようで そこへ文化が同化吸収していった 経過があるようです。一説にはイサーンのラオ族ははタイとの戦争に強制移住をさせられ た、だから今でもタイ人に劣等意識を持つん だ、という見方がありますが、すべてをうが ってはいないと思います。

近代の国家域の概念が入る以前は一つ一 つの地域がタコツボ状のコンパクト社会であ り、その外は友好関係を保つか、無視をするか、利害、敵対がからめば占拠するといったきわめて領域としてはあいまいなものだっ たのです。 これは東南アジアのほとんどの地域、 社会集団、国家にも当てはまる概念でしょ う。最近をみても、タイ側イサーンに住むラオ族とラオスに住むラオ族との結びつきは強い ようで、確かにラオス革命後はメコンを境に分断しているようですが心情的、文化的には依然 両岸を結びつけているようです。この 関係は今後も続くでしょうし、ラオス、カ ンボジアの難民もそのあたりから考えていく 必要もありましょう。

ヨーロッパの国家領域の概念がタイ中央政府をしてイサーンにどのように作用していっ たかの経緯は吉川利治氏(1980)の説明 がわかりやすいでしょう。 「東北地方は、19世紀末まで、政府が直接する ではなかった。19世紀後半、北ラオスの シップソーンチュタイで、フランス軍との軍事衝突を繰り返してのち、1892年2月 に、ピチットブリーチャーコーン親王を初代総督として、南ラオスのチャムパーサック に送り込んで直接統治するにおよんで、ようやくタイの領土として明確に意識さ れるようになった。 19世紀までの東北タイ地方は コーラートが東北タイからラオスをにらみ、この地方の動静を察知する要衝とし て、17世紀末に建設された砦を持つ町となり、 中央の統治下にあるだけであった。(中略) 18世紀ごろから、メコン河東岸より東北タイ地方に移住してくるラーオ族の人口が次第 に増加し、東北タイの各地に城市(ムアング) が形成されるようになる。したがって、東北 タイの住民は、国家への帰属意識など持ちあ わせていなかった。 1893年東北タイのウ ポンに赴任した二代目総督サンバシッティプ ラソン親王が、この地方で徴税を実施しよう としても、タイ人でないという理由で容易 支払おうとしなかった。」(東南アジア研究 Vol. 18, No. 3) 少々とこみ入った引用になり ましたが、だいたいのイサーンの変遷は御理解いただけたでしょうか。

こうしたイサーンはタイ国の一地域である という意識は今世紀になってようやく定着し てきました。 というよりタイ中央政府の政策 の実効が波状的であれその地に広がったと言 うべきでしょう。

その後の現代史を断間的に見ましても、イ サーン史のタイ国とのかかわりはまだまだ 紆余曲折、イバラの道のようです。 1930年代40年代にわたってイサーン出身の政治家がその出身地ゆえに暗殺されたり逮捕された り、投獄されたり、といった事件が頻繁に発 生しているようです。 どうしてそうなるので しょうか? 彼らイサーンの人々が結局は主 体的に反中央意識という土壌に根をはらざる を得ないのでしょうか? その問題を考える 前に政府が具体的にどのような国家政策を持 ってイサーンに切り込んでいこうとしている のか、またイサーン人即ちラオ族がどの程度 のアイデンティティをタイ国民としていだこ うとしているか、を知る必要がありましょ う。 今だに歴代の首相の課題の一つに「イサー ンの開発」という項目があるそうです。 現 地の人々の反応も是非くわしくこのあたりを聞きたいものです。

さて、この原稿を書いている、タイでク デターが発生しました。 現代に入ってから も何度も起こっているのでクーデター自体はあ まり感想をもちませんが現職のプレム首相が 革団に捕えられたのでなくパンコックから脱出したということがこれまでとちょっとちがうなあ・・・と思いました。 しかも国王、王妃 を擁して。その逃れた場所がこれまでふれて きたイサーンの中心地コラートなのです。 私 は「あのコラートに!」と一瞬驚きました。

プレム首相がこのコラート (ナコンラチャシ マ)に脱出し、再び実権を握る拠点としてと に腰を落ち着けたことは、やはりイサーン 人には人気のある政策を十分にやっていた政治家ではないでしょうか。 プレム首相が自分 の信頼を置く地として第二軍管区司令部の東 北タイを選んだことはここ数年間のタイ政府 のイサーン重視政策を背景としてはじめて可能であったと思われます。 (つづく)














イサーン見聞記2

2022-03-23 06:01:05 | ハノイ
バンコックの師範学校を卒業した ばかりの新米教師が、一般の温とはことな 自分の教師生命をふるさと東北タイの子 供たちとともに送りつつ、その一方でその村 を中心とする権力者 実力者の悪とたたか う映画でした。(この小説は井村文化事業社 から本がでています) ついでながら触れ ておきますが、この小説、映画は、いわゆる 七三年以降 七六年まで続いた労働者、農民 学生たちが自分たちの国をもう一度考えなお そうと立ちあがった「反省の郎」に書か れ、作られたものです。 中央の権力に抗して 地方のみなおしがおこなわれたころのもので す。 地方文化という時期のもので す。もし興味をもたれる方はどうか小説をお 読みください。

そのカラーでみる「グルー・パン・ノーク」 でだいたいのイサーンの景観のイメージを持 つこともできました。 水田といっても区 く、段々になっていて水はない。 やたらに 野井戸から水を運ぶ村人の木々が豊 にはえているのには小さい。 オートバイ ののあとは砂ぼこりが舞う。 ケーン (民族楽器)のうらがなしい調べ イメージとしては質素というより同然の貧困なくら しのイサーン、まだまだ権力者、有力者の横 行する社会というものでした。乾燥した台地 森林が群生し、天水のみにしがみついてわ ずかの天の恵みを奪い合っている、というも のでした。全くもって前途多難な農村社会と いう先入観を私の心に植えつけられたもので した。

もう一つ、「ここも同じタイなんだなあ」 という複雑な思いをしたことがあります。 は じめてタイに行った時の帰路、午後の便に乗 りました。 良く晴れていて、ドムアング空港 を飛びたってずっと、ヴェトナム近くまでく っきりといろんな景観が見えました。 飛びた ってしばらくは運河をみごとに利用した区画 整理のいきとどいた水田をもつデルタが広々 続いている光景でした。 ところが三十分も 過ぎたころでしょうか、 あのみごとな水田地帯 が姿を消して、一面やけただれたような 赤味の土がまだらにみえ、それと濃緑の丘、森の起伏のみの原野が広がっている景観にかわ ったのです。 「人工的」な水田に対し、「手のつけられない」荒野といった感じでした。 赤と緑のコントラスト、川と丘の高低の起伏、 そうした景観がモヤにりぶっているのを眼下にして「ここもタイなのか」と夢をみているような錯覚をおぼえたものでした。 「ただ今、高度・・・・・・ メーター、 ウボン上空を通過中であります」という機内放送がありました。ウポンとはタイの東北の国境の町です。

この荒涼とした地面にいったい人間が生息しているのだろうか? オオカミやサルやワニなどのみがわがものに楽園を巣づくっている世界ではなかろうか? そんなことを想像させる光景が続いていました。

 ウボンのはずれには蛇行して流れる大河メ コンも見えました。水面がキラキラ輝いて、 その流れはそのままゆるやかにくねって天に つづいているのでした。ジャングルでもな い、森林地帯でもない、かといって砂漠でも ない、しかし人間の手のほどとしようのない 荒涼とした景観でありました。もし、そこに 人がいたとしても、その社会は自給自足的な 部族社会といったたぐいのものではなかろう か、なんて手に想像したものです。

「森に入る」という言葉も聞いていました。 タイにおける非合政治活動家たちが中央の 弾圧から逃れ、地下活動の舞台として東北タイ(北部、南部タイにもある)の森(ジャングル) の中に入ることをそう呼んでいるのです。イサーンの人々の生活の貧しさ、また反パンコ リックの感情といった土壌からある限定された 場所であるが彼等の活動を許容するところがあるようです。ヤオ、メオ族などの山岳民族 をもつ北部タイにも、マレー系の文化園を色濃く持つ南部タイにも、中央の手のとどきにくい地域に彼等の活動の拠点があるようです。 中央の国家権力のとどきにくい地域の一 つとして今でもこの「イサーン」の社会が存在しているんだなあ、と思ったものです。

 メコン川を越えるとラオス、そのむこうにカンボジア、そしてヴェトナムといったイン ドンナの国々が隣り合っています。 私は今、現代史の悲劇の現場を一人の旅人として空から眺めていたものです。「あの赤ちゃけた 涼たる空間にいくたびの戦争が起こったこと に か….....」と恐ろしさまでもまじった気のひき しまる思いになったものでした。 直接的には イサーンとは関係ないかもしれませんが、そうしたインドシナ情勢がダブルイメージとし てふりかかってきました。

タイの生きとし生ける人々をさらに深く知るためには、いつの日か、こうした地上にお りて道なき道を一度歩いてみたいものだ、と と思ったことでした。以上のようなロマンチックな思いから、厳しい現実の世界まで、断片にすぎないけれど もバラィティに富んだ私の「イサーン」に対 するイメージがこの自分の目でみたいという 欲求をかきたてたのも事実です。

「イサーン」へ旅立つ前に今の機会に今少 し 「イサーン」について書きとめておきたい と思います。