父が亡くなってから1年になろうとしている。
早いものだ。
血の繋がりはなかったけれど、10代の終わりに父娘の縁になったから、気恥ずかしさもあって、あんまり近しい交わりはなかったけれども、それでも、臨終を知らなかった私のところに会いに来てくれた、その少し前に、病院のベッドで、「いろいろありがとうね、親孝行もなかなかできずにごめんね」と言ったら、「いや、いいんだよ、そんなこと」と笑ってくれた父だった。。。。。
それから、怒涛のような日々だった。父が生きていたら、さぞや無念で怒ったことだろうと思う。
だが、事情を知る周囲は、父がいなくなったから、夫が実行したのだと言った。
そうなんだろうか、だとしたら私は本当にどこまでもおひとよしのばか者なあと呆れていたが、最近は思い返してみて、しみじみ、父は本当は空から見て、全部わかったから、もう、私に無駄な我慢はやめなさいと教えてくれたのかもしれないとも思う。
通夜の前日、共通の知人たちが、わざわざ通夜にも焼香に来てくださるからと、場所の確認の電話をくれたのがきっかけで、また発作のようにとまらなくなった夫の罵倒が、夜中の二時過ぎまで続いた。無言で立って、泣きながら息子の翌朝のお弁当のお米を洗っていたら、そこへも追いかけてきて、「口をつぐめよ!!」と口などきけずいいるのに、。。お願い、今日は御通夜なんだから、もうやめて、父が亡くなったのに、。。そういっても駄目だった、最後は捨て台詞で寝室に行ってしまい、リビングでひとりで泣いていた私を、きっと父は見ていたのだと、いまは思う。
もういいよ、よくやったよ、、そんなに苦労することないよ、、そう思っていたかもしれない。
でも、翌朝、「ゆうべは悪かったね、自分でもなんであんなことしたかわからない」という夫に
私は、また、涙は出たけど、心を溶かして、いいのよ、ありがとう、なんて言っていた。
もちろん、ずっと、こんなことはあっても、添い遂げていこうと、それ以外は思っていなかったから。その前の夏に暴力予告に避難させられたあとも、家族で超えていくことが今生の学び、と、周囲の反対をよそに、猛省して詫びた夫と、お母さんと一緒がいいといってくれた息子のところに戻ったんだから、そんじょそこらの覚悟じゃなかったもの。
けれど、父は見ていたんだと思う。
私が信じて疑わない人の真心なんて、存在しない、すべて流動的、主観的なものだから、通じるとは限らない、って、本当のところを見ていたのかな。
私は父の寝ていた部屋のベッドに、「オレが自分で勝手したいんだから、俺の方がどこか公団でも探して出て行けるようにするよ、一週間だけ、お母さんのとこに帰っていてよ」、そう一方的な申し出に、母の様子も気になるからと、とりあえずほとぼりを冷ましたら気も変わるだろうと避難したら、1週間どころか、ずーっと、帰らせてもらえなくなり、父の部屋に半年以上寝ることになった。
そして、いつの間にか、私の寝室もなくなって、荷物や着がえさえも取りに行かせてもらえなくなって、一周忌の法要に着る喪服でさえ、取りに来ないでともうすぐ、夫から宅急便で送られてくる。まだ、住民票も、戸籍も、すべてある自分の家、子供の私立のために一緒に選び、協力して維持してきた家・・なぜなんだろう。
何を言っても通じない、まっとうな話はなぜか通じない、でも、争うことないよ、よくやったんだから、堂々として受けて、何か言ってきたらありのまま受けていればいいんだよと、父の笑顔が言っている。
そうだよね、お父さんへの恩返しを順送りであのこにさせてもらった、そう思おうね。
私も、きっと、親子の縁のあったあの子を、これからも、どういう状況になっても、見守ると思うよ。
力を出したとしたら、出す力があったから、と感謝でいればいいんだよね。親の恩は凄いねー。ありがとう。
早いものだ。
血の繋がりはなかったけれど、10代の終わりに父娘の縁になったから、気恥ずかしさもあって、あんまり近しい交わりはなかったけれども、それでも、臨終を知らなかった私のところに会いに来てくれた、その少し前に、病院のベッドで、「いろいろありがとうね、親孝行もなかなかできずにごめんね」と言ったら、「いや、いいんだよ、そんなこと」と笑ってくれた父だった。。。。。
それから、怒涛のような日々だった。父が生きていたら、さぞや無念で怒ったことだろうと思う。
だが、事情を知る周囲は、父がいなくなったから、夫が実行したのだと言った。
そうなんだろうか、だとしたら私は本当にどこまでもおひとよしのばか者なあと呆れていたが、最近は思い返してみて、しみじみ、父は本当は空から見て、全部わかったから、もう、私に無駄な我慢はやめなさいと教えてくれたのかもしれないとも思う。
通夜の前日、共通の知人たちが、わざわざ通夜にも焼香に来てくださるからと、場所の確認の電話をくれたのがきっかけで、また発作のようにとまらなくなった夫の罵倒が、夜中の二時過ぎまで続いた。無言で立って、泣きながら息子の翌朝のお弁当のお米を洗っていたら、そこへも追いかけてきて、「口をつぐめよ!!」と口などきけずいいるのに、。。お願い、今日は御通夜なんだから、もうやめて、父が亡くなったのに、。。そういっても駄目だった、最後は捨て台詞で寝室に行ってしまい、リビングでひとりで泣いていた私を、きっと父は見ていたのだと、いまは思う。
もういいよ、よくやったよ、、そんなに苦労することないよ、、そう思っていたかもしれない。
でも、翌朝、「ゆうべは悪かったね、自分でもなんであんなことしたかわからない」という夫に
私は、また、涙は出たけど、心を溶かして、いいのよ、ありがとう、なんて言っていた。
もちろん、ずっと、こんなことはあっても、添い遂げていこうと、それ以外は思っていなかったから。その前の夏に暴力予告に避難させられたあとも、家族で超えていくことが今生の学び、と、周囲の反対をよそに、猛省して詫びた夫と、お母さんと一緒がいいといってくれた息子のところに戻ったんだから、そんじょそこらの覚悟じゃなかったもの。
けれど、父は見ていたんだと思う。
私が信じて疑わない人の真心なんて、存在しない、すべて流動的、主観的なものだから、通じるとは限らない、って、本当のところを見ていたのかな。
私は父の寝ていた部屋のベッドに、「オレが自分で勝手したいんだから、俺の方がどこか公団でも探して出て行けるようにするよ、一週間だけ、お母さんのとこに帰っていてよ」、そう一方的な申し出に、母の様子も気になるからと、とりあえずほとぼりを冷ましたら気も変わるだろうと避難したら、1週間どころか、ずーっと、帰らせてもらえなくなり、父の部屋に半年以上寝ることになった。
そして、いつの間にか、私の寝室もなくなって、荷物や着がえさえも取りに行かせてもらえなくなって、一周忌の法要に着る喪服でさえ、取りに来ないでともうすぐ、夫から宅急便で送られてくる。まだ、住民票も、戸籍も、すべてある自分の家、子供の私立のために一緒に選び、協力して維持してきた家・・なぜなんだろう。
何を言っても通じない、まっとうな話はなぜか通じない、でも、争うことないよ、よくやったんだから、堂々として受けて、何か言ってきたらありのまま受けていればいいんだよと、父の笑顔が言っている。
そうだよね、お父さんへの恩返しを順送りであのこにさせてもらった、そう思おうね。
私も、きっと、親子の縁のあったあの子を、これからも、どういう状況になっても、見守ると思うよ。
力を出したとしたら、出す力があったから、と感謝でいればいいんだよね。親の恩は凄いねー。ありがとう。