運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

再び 潜水服は蝶の夢を見る

2010年06月11日 08時12分45秒 | Weblog
かっこちゃんの「宮ぶー日記」を読んでは泣いている。
悲しいのでもない、幸せ。。というのでもないのだが、でも、よくそれに似て居るようにも思う。
なんだか、小さな小さな、愛の原石を、かごに入れた蛍を毎日そーっと、ああ、今日も光っているって思って覗いて安堵するような喜び…何かの再確認。

今日、宮ぶーが宮Qになっちゃった、というのを泣き笑いして読んで、そして、身体的に表現のすべがないときの意思の伝達法について書いてあるので、また「潜水服は蝶の夢を見る」を思い出した。

アルファベットをAから順に読みあげてもらい、自分が伝えたい言葉の単語のスペルのところで、そこだけが唯一自分の意思で動く右目のまぶたを閉じて瞬きをする、そして、その文字を書き取ってもらう、次にまたAに戻って読んでもらい、また、次のスペルのとこで瞬き・・こうやって、ようやくひとつの単語になり、言いたいことをわかってもらう、実際にフランスでロックドシンドロームになった男性が、その方法で自伝を書いた、いや、書き取ってもらった。
その実話の映画だが、あれは、私の中のなにかをスイッチ・オンした映画だった。
魂の根底のところにメガトン級でショックがやってきた。
人間は、記憶と想像力ゆえに人間であり、記憶と想像力が生きているということだ、そう、主人公は動かなくなったからだに閉じ込められてから知る。
その美しい、無限の世界、複雑で微細な世界、神秘。

だが、いっぽうでは最近、記憶を消すことにすべての問題解決があるともいわれて、みんなが4つの言葉で、デリートしようとしている。
ありがとう、ごめんね、と、心から気づき、感謝しながら消してゆくのでなくて、ただ、唱えながらパソコンのキーでデリートするように、消すのだという。
記憶が人間であることの証で、今生、肉体をもって生まれた意味でもあるなら、どんどん消してゼロになるということは、今回わざわざ肉体をもってやってきたことの意義との両立はどうとらえたらいいのかなとおもう。
それがアメリカからやってきたもので、つい、GHQや「モモ」の時間泥棒とかを連想してしまいそうになる。
日本には古来から、そこのところを魂でわかるセンサーがある、ひとりひとりがそこからぶれなければよいのだ。

人とは、それぞれ、ひとりひとりが、無限の思惟と愛と想像力と記憶をもつ、すばらしい宇宙だ。