運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

新月の日

2010年02月13日 01時30分11秒 | Weblog
ジャーナルはやめなければならないみたいだ。

「この屈辱は絶対忘れない」、って、なぜ。。何一つ嘘はない。ありのままのことを読めばそう感じるというならその行為をしている自分を省みたら、責めるべきことではないのに。

それに、読んだのだったら、少しは、そんなに苦しかったのか、帰りたかったのか、って、・・
思うはずもないか。
そんなことは期待なんか何もしていなかった。
ただただ、苦しいとき、ショックだったとき、驚いたり、カナシイからカナシイと書いただけ
そうしないと潰れそうだっただけ。
だって、きゅうに一人になってしまったんだもの。

ある日突然、伴侶が、別の人間になりたいって言い出したって、小説みたいだ。
さっきまで一緒に車に乗っていた夫から、携帯にメールがきて
空から聞こえてきたんだ、今日から○○○○というカタカナの名前になろうと思う
その下はシチューというのはどうだろう。。と相談されたのを思い出す。
名前を変えただけで違う人間になれたわけではないのに
その名前で恋心をつづったブログを始めていた。
果ては、人生そのものを変えたいと身体の中から声がすると
家の中にいて、隣の部屋から
「やっぱり離婚してください」とメールが来たり
自分だけ出て行きたいとか
三人がそれぞれ一部屋ずつ分けて家庭内別居しようとか
わけのわからない日々が始まった。
なぜなの?
かつては、ばたばたと小さい子がいるまま再婚して、まだ結婚式もしていなかったからと
あなたの依頼で、お世話になっているかたがたにお祝いをしていただいたのは、つい、ひと月前のことだったのに?
・・・突然そんな事態になれば、人はなにか理由があるのかと考えてしまう。
かといって何か言えば、まるで嫉妬や疑いからだけとしかとらずにキレテしまい、その余波が、真の事情をわかっていなかった子供まで巻き込んでいった。。

交通事故で、突然ひとりになってしまう人だっているって
自分に言い聞かせたりもしたけれど
生きている家族から
「次の家族は、ゆっくり考えて決めるつもりです」なんて
メールが届いたりすると、やはり心は悲鳴をあげてしまう。

そんなに、いきなり、この七年間をさっぱり
いいのよ、無償の愛よなんて、なにも思わないからどうぞ、などとできなかった。
泣きも悩みもせずにすぐに、菩薩のようにならなかったと責められても
それだけ、本気で、それだけ一生懸命、二人を愛して来ていたからだけ
それだけ心を入れていたから。

でもいつも泣いてなどいなかった。
むしろ、人前では気丈になったり、明るくしてしまう。
だから、よけい、書かずにはおれなかっただけ。。
もっと強く、じっと抱えていられたら叱られることもなかったのだろうか。

帰るのもいけない、電話もいけない、メールもいけない、ブログもいけない
いけないことばかり、むずかしいな。
どうしてそんなに、ひとりで決めてしまえるのだろう。。。

でも、大きいところから見たなら
確かに、これだって一種の不平不満になってしまう
美しくないのなら
もう、つぶやくことなど無しに
ちゃんと強くあれ、
おきることすべてを感謝にきりかえなさいって
誰に言われたからというより
神さまの声と思うことにしたい。

「あなたの回し者ですか?」、そんな・・いったいなんのことなのだろう。
このように情けない文を読んでいてくださる方がいて
どなたかが、私の伝えられなかったことを伝えようとでもしてくださったというのだろうか。

もし、いやな思いをされた方がいたなら謝りたい。


ジャーナル・ジャーナル

2010年02月10日 00時07分22秒 | Weblog
最近、私は自分の人生をジャーナルしている。
朝目覚めたら、すぐにノートに、日記にも
そして、このブログにも
気がついたり思い出したり、したこと
新たな視点、などすべて。。
ただありのまま、あるがままだ。
何の他意も作為もない。

昨年来の、ずっと共にしてきたパートナーの、交通用語で言うなら、強引な方向転換のあと
いま、私は、実のところようやくたちなおれてきたかなって感じている
ようやく、笑っていて、本当に笑えているって思えるようになった

日々が新たな気づきに満ちてきだしている。
正直、それまでは長く苦しかった、
人生で今頃、こんなひっくり返しの学びがあるとはねーと
降参しそうになることも多々あった。
一番、頼りとしたい伴侶.
ずーっと、ぼくたち一生一緒だよとげんまんし合った
その伴侶そのものから起きたことだから
そこに助けを求めるのはもともと無理としても
それにしても、約束や良識も無視して強引に向きを変えた後の
影響や不負傷者が回復したり、たちなおるのを
待つとか、手助けするとか、配慮するどころか、微塵もなかったから。


たくさんの友や周囲やに助けていただきながら
長い夜は、自力で越えていくしかなかった。


心が血を流して泣いている一番つらい時機だろうと微塵も想像もつかず
「夫婦」を冠に課した大々的なイベントを謳うのを
ひとりならず、『あなたと○○くんと三人でずっと一緒に幸せになりたいの』と
熱烈なやりとりしていた相手までも
スタッフとして迎えていたことも知らないで
それでも、例年のように
成功を祈って花なんか贈ってしまった。

悪人なんじゃなくて
呵責、というもののない性格の人
そういうふうにできている人なだけだから、
相手の気持ちもわかってなどと求めることはできなかった。
そういう人と人生を共にすることを選んだのも私なのだし。

思えば故人の墓参も供養もぜんぜん、気がなくて
私から促してもだめか、ようやく、だったもの。
いま使えなくなった過去は存在せず
私はもう生きていても過去になっているんだなあって
ちゃんと認識するまで
こちらは普通の情動をもちあわせているから普通の時間がかかるのだ。

でも、おかげで、ジャーナルを思い出したのだから、結果、感謝、かな。

すべての体験
信じること 傷つくこと 傷つけること 
徒労や無理解に泣くこと、
それでもおやりよ、の世界
 ゆるすこと 忘れること
それでも無償でいる強さを学ぶこと
それでも愛しかないこと
感謝に変えること
揺れること 夜明けを待つこと。。。。。

10年以上前にアメリカ在住のチャネラーが
友人からきいた私の「名前」だけで
大変interestingな人生だ、この人は
今回、一回で全部経験してみせると決めてきているから
これまでも、これからも、まだまだ
たくさん、変化といろんな体験、ありとあらゆるをする
そして、ジャーナル、ジャーナル、
とにかく、ジャーナル、すること、
そう言われて
もうじゅうぶん波乱万丈だったから
えー、まだこれ以上?ごめんだわーって思った。

でもやはりまだ終わりじゃなかった。
 共に波乱万丈を越えていける、いい感じで二人三脚してる
そう思っていたのにね。

いま、私は、やっと、そういう自分を
なんでもありのこの世界を初めてびっくりして観察している感じでいる。

はっきり言って、自分のたちなおりのために書いていただけだ。

ありのまま、気づきのまま
わざわざの気は、何も遣っていないから
正々堂々、捏造も隠れごともない
もしかしたら
そのことで、ことさらに、何か意図があると
勘違いされえることもあるかもしれないけど
自分の書くことに全責任もって
ただ、今、体験し、思うことをありのままに書いている

かつてパートナーが、もっと早くから
家族のことをいろんな媒体に書いてきていて、
それで喧嘩になったこともあった。
もっとも彼の場合は事実とちがった美談で
ジャーナルとは違ったからだけれど

 私はただ、書いているだけだ。
書き留めているだけ。
いっさい、ジャッジもしていない
いいもわるいもない
ただただ、おきている本当のことをジャーナルしている

ああ 、なんだ、なんでもありなんだ、と教えられた様な気持ち。

怒るときは怒り、よろこぶときはよろこび、
私にはむしろそれが足りなかったって思っている。

変容。。。もっと広い意味のゴール、そこに向かうためにも自分をジャーナルしている。
意識、感情、悲しみ、記憶、
どうやってこれが統合されていくだろうって。
いま、こういう体験をしている自分がどうそれを消化して昇華させるのだろうって。

 あのとき、ヘイゼルという名のチャネラーがテープに入れてくれた
 いろんなことが、本当になっていっていることだけは不思議だ。
 ちなみに、私はチャネラーとかって信じても好きでもないが。

そういう意味では、すべての体験、視点を変えれば互いにいろんな役を演じながら学びを助けあっているのだろうからすべて感謝だって思う。

父の命日

2010年02月07日 18時41分48秒 | Weblog
父が亡くなってから1年になろうとしている。
早いものだ。

血の繋がりはなかったけれど、10代の終わりに父娘の縁になったから、気恥ずかしさもあって、あんまり近しい交わりはなかったけれども、それでも、臨終を知らなかった私のところに会いに来てくれた、その少し前に、病院のベッドで、「いろいろありがとうね、親孝行もなかなかできずにごめんね」と言ったら、「いや、いいんだよ、そんなこと」と笑ってくれた父だった。。。。。     

それから、怒涛のような日々だった。父が生きていたら、さぞや無念で怒ったことだろうと思う。
だが、事情を知る周囲は、父がいなくなったから、夫が実行したのだと言った。
そうなんだろうか、だとしたら私は本当にどこまでもおひとよしのばか者なあと呆れていたが、最近は思い返してみて、しみじみ、父は本当は空から見て、全部わかったから、もう、私に無駄な我慢はやめなさいと教えてくれたのかもしれないとも思う。

通夜の前日、共通の知人たちが、わざわざ通夜にも焼香に来てくださるからと、場所の確認の電話をくれたのがきっかけで、また発作のようにとまらなくなった夫の罵倒が、夜中の二時過ぎまで続いた。無言で立って、泣きながら息子の翌朝のお弁当のお米を洗っていたら、そこへも追いかけてきて、「口をつぐめよ!!」と口などきけずいいるのに、。。お願い、今日は御通夜なんだから、もうやめて、父が亡くなったのに、。。そういっても駄目だった、最後は捨て台詞で寝室に行ってしまい、リビングでひとりで泣いていた私を、きっと父は見ていたのだと、いまは思う。

もういいよ、よくやったよ、、そんなに苦労することないよ、、そう思っていたかもしれない。
でも、翌朝、「ゆうべは悪かったね、自分でもなんであんなことしたかわからない」という夫に
私は、また、涙は出たけど、心を溶かして、いいのよ、ありがとう、なんて言っていた。
もちろん、ずっと、こんなことはあっても、添い遂げていこうと、それ以外は思っていなかったから。その前の夏に暴力予告に避難させられたあとも、家族で超えていくことが今生の学び、と、周囲の反対をよそに、猛省して詫びた夫と、お母さんと一緒がいいといってくれた息子のところに戻ったんだから、そんじょそこらの覚悟じゃなかったもの。

けれど、父は見ていたんだと思う。
私が信じて疑わない人の真心なんて、存在しない、すべて流動的、主観的なものだから、通じるとは限らない、って、本当のところを見ていたのかな。

私は父の寝ていた部屋のベッドに、「オレが自分で勝手したいんだから、俺の方がどこか公団でも探して出て行けるようにするよ、一週間だけ、お母さんのとこに帰っていてよ」、そう一方的な申し出に、母の様子も気になるからと、とりあえずほとぼりを冷ましたら気も変わるだろうと避難したら、1週間どころか、ずーっと、帰らせてもらえなくなり、父の部屋に半年以上寝ることになった。
そして、いつの間にか、私の寝室もなくなって、荷物や着がえさえも取りに行かせてもらえなくなって、一周忌の法要に着る喪服でさえ、取りに来ないでともうすぐ、夫から宅急便で送られてくる。まだ、住民票も、戸籍も、すべてある自分の家、子供の私立のために一緒に選び、協力して維持してきた家・・なぜなんだろう。

何を言っても通じない、まっとうな話はなぜか通じない、でも、争うことないよ、よくやったんだから、堂々として受けて、何か言ってきたらありのまま受けていればいいんだよと、父の笑顔が言っている。

そうだよね、お父さんへの恩返しを順送りであのこにさせてもらった、そう思おうね。

私も、きっと、親子の縁のあったあの子を、これからも、どういう状況になっても、見守ると思うよ。

力を出したとしたら、出す力があったから、と感謝でいればいいんだよね。親の恩は凄いねー。ありがとう。


恵方巻きは止観なり

2010年02月04日 01時29分48秒 | Weblog
節分の夜、心温まる7人の仲間たちで、手作りの玄米の恵方巻きを吉方を向いていただいた。
きゃあきゃあ、喜び、おしゃべりしていたのを、「あ、これ、食べている間しゃべっちゃいけないのよ、黙ってだべるの」と思い出し、いっせいに感謝で海苔巻きをおしいただき、めいめい、立ってだまってむしゃむしゃ食べていた。。。。ら、黙って食べているので、しみじみ、手作りの具と、酵素玄米の粒なんて眺めていたら、「あ!!」と思い出した。
「これだ!!」先日お仕事で脳機能学者のT氏の講義を聴いたときの「止観」という言葉。
お釈迦様は、弟子に、悟りにいたるために何をすればよいですかと尋ねられて、ただ一言、
「飯は黙って食え」と申されたと。
それは、お行儀がどうとか、うるさいとか、じゃなくて、しゃべりながら食べていては見えない、食事の、ごはんの一粒一粒、何一つ自分で生み出すことのできない、命をお借りしていただいていることを、よおく、見ているなら、感じ始めるからと。
これだ、ほどよい卵焼き、茹で筍、人参、きゅうり、えび、アミ、青菜、そして薫り高い海苔と玄米。。ありがたい、すべて、お水も、風も、土も、すべてがかかわって私に食べさせてくれている。そして、こうして、一緒に立って食べている仲間たち。。ひとりひとりが素敵でいとおしい。神様ありがとう、今日のこの節分に感謝して新しい年を始めます。
・・・最後の一人が食べおわるのを待ちながら、止観の話をしたくてウズウズ・・座って、バラ茶をいただきながら、披露したら、やっぱり、一を聞いて十を知るというか、ふだんから、そんなふうに暮らしているひとばっかりだから、伝わり方も早い。皆でまたもや感謝。
そうか、恵方巻きはコンビにと寿司屋さんの陰謀ではなく、ちゃあんとためになるよい習慣だったんだなあああって。