運命と出会う瞬間

映画・小説・音楽・・なんでもありの気ままな感想

輪を閉じてゆく 『GATE』との邂逅

2010年08月05日 01時12分16秒 | Weblog
…凄いものを観た。
まだ、何と言ってよいかわからないけれど、ずーっと、ゾクゾク、ともちがう、血が騒ぐともちがう、そうだ、魂がざわめいている感じだ・・。
『GATE』60年前に人類が開けた破滅への輪、原爆の火を、その生まれた地であるトリニティ
まで、熱砂の道をひたすら歩きを祈りとしながら運んでゆく僧侶たちの姿だ。

この映画にめぐりあわせてもらったことに、ひざまずいて感謝したいし、ひざまずいてお詫びもしたい。

あの、輪を作り出したのはわたしたちでもあるし、閉じていくのもわたしたちなのだ。
この輪をいったんは生み出さねばならなかったのが、この地球でのわたしたちの道だったのかもしれないが、そこを浄化していくためにも、通らねばならなかったものかもしれない。

光と影・・・その融合、輪をとじる儀式。

そのために、黙々と歩く僧侶たち。
このところ、殿方というものはどこまでいっても、どんな人でも殿方と、あきらめの気持ちを
もっていたが、この僧侶たちの姿に、あらためて、男性だけが持つ素晴らしさ、男性のできること、真の強さ、力を、再び見出させていただいた。

長崎の実在するお寺の、住職の天を信じきった、ものすごい笑顔、を、ひとりでも多くの方に知ってほしい。

一行がたどり着くゲートの名、トリニティとは、三位一体という意味であるものすごい示唆。

これは、フィクションではなく、事実なのだ。

空から降りてくる光の束を、まったく同じものを奄美で目撃したが、奇しくも、それは、

この秋に日本に世界から集結するグランマザーたちの、祈りの日々である、いのちの環のはじまりの会場の海辺の上からの光の束であり、その写真がフライヤーになった。

男たちが願ってすること、女たちが願ってすること、方法やできることはちがっても、
平和のために、いのちのための輪であることは同じなのだ。

なにもかもが融合、統合する、そのときのために。


男たちが歩き、女たちが祈る・・・。

草花と雑草の宝庫(借り暮らしアリエッティ)

2010年08月01日 22時59分41秒 | Weblog
夏休み、春休み、休校日、と、幼稚園のときから小学校のあいだ、
ずっと息子のお供をしていった
遊園地のそばにある映画館から、
ポイントが溜まっていることと、有効期限が切れそうな知らせが届いた。

練馬から、大好きなすいた電車でひと駅乗るとその映画館がある。

春には桜が美しく、夏にはプールのない
息子の学校の水泳授業の場所となる遊園地を懐かしみながら映画館に入った。


期限を延長してもらうと2本無料で観れるうちの一本を、
「借り暮らしのアリエッティ」の最終上映にした。
ほかに、みるべきものがなかったから、というのもあるけれど、原作がメアリー・ノートンの「床下の小人たち」なのに惹かれたから。

素晴らしかった・・・、ジブリの生み出す世界はもう、完璧にアニメの粋を超えてまごうことなき芸術だと思った。
紫蘇の葉、ねじり花、はこべ、名も無き雑草・・・が、本当に生命があるように揺れて、風が抜ける。

地面があるのだ。

滅びゆく一族であるかもしれない、小人たちが、現代の私たちと同じようなおしゃれをして、素敵な雑貨に囲まれていることは矛盾しているけれど、きっと、本当だったら裸足で植物をまとっていたりするのかもしれないけれど、でも、そこはわざと、重要な小道具となっている。

心臓の弱い、家族の愛に恵まれない清らかな少年。

勝気なアリエッティの勇敢さ、正直さ。

世界の違う二人の、種族の違う二人の、それでも、通う純粋な何か。

ともにいることはできなくても、認め合うことのすばらしさ。


「守ってくれて、ありがとう」


別れるときに、アリエッティが大粒の涙を盛り上がらせる。

そうだ、女の子は守られてはじめて価値がでる。

私がいままで大事にしてこなかったこと。


守られる前に、守ることばかりをあたりまえにしてしまい


あとから、足りなかったとか、ちがったとか、責めたてられるなんてことをしてしまっていた。


それでも、守りたいものがあったから・・いい。


わかられなくても、忘れられても、守れていたそのこと、そのときが


どこかの時空には刻まれているから、それでいい・・・。


今度は、もっとたくさんのものを守れるようになった私を


だれかが守ってくれるって、いえ、もうすでに、見えないたくさんのものに守られていることを

「借り暮らし」の部屋に帰る道を、ありがとうって、嬉しくなって、笑いながら、胸をふくらませて帰るのでした。