平成の元号から令和に改元されて9ヶ月、新元号は意外と早く馴染んだ印象がある。私的には昭和から平成に変わった時より違和感がはやく無くなった。
元号というのは、時間を考量するための一種の度量衡である。ものをはかるのに、メートルやキログラムを用いる文化圏があり、フィートやパウンドを用いる文化圏があり、尺や貫を用いる文化圏がある。
それぞれ歴史対必然があって、固有の「ものさし」を持っている。社会集団ごとに度量衡が違うのは面倒だから、世界標準に統一しろというような手荒なことをいうひとがいる。
無茶を言ってはいけない。西暦というのは、キリストの誕生前後で世界の相貌は一変したという物語に基づいた度量衡である。
たしかに、世界のキリスト教徒にとっては好ましい話だろうが、ヒジュラ暦を採用してるイスラム教徒や、仏暦を採用してるタイ人や、ユダヤ暦を採用してるユダヤ教徒にとってはそうでない。
これからはそういうローカルな暦法は捨てて、キリスト教元に統一して頂きますと言われても、彼らがすんなり「はい」と言うはずがない。
世界標準が一つに定まっている方が便利だということについては私も異存はない。けれども、それと併用して時間を区切るためにそれぞれの社会集団が固有の「ものさし」をもつことについては、しかるべき敬意を示してよいと思う。
私は自分のことを「昭和人」だと思っているけれど、「昭和的」という語が普通名詞化して、その合意が国民的に共有されるようになったのは最近の話である。
居酒屋やバーに入って、「お、昭和だな」というような感懐が洩れることがある。(紫煙がたちこめ、ハードロックが流れ、トイレの壁に演劇や映画の黄変したポスターが貼ってあるようなお店だ)「昭和的」という形容詞の合意が確定するまで昭和が終わって四半世紀ほども要した感じがする。
「平成とはどういう時代だったか?」という問いには、誰もがその答えに窮すると思う。それがわかるのはまだ何十年か先のことだろう。その頃にはもう私は生きていない。