大山健太郎(8)(アイリスオーヤマ社長)
若さ勝負 毎日不眠不休 家族養う 「すべてイエス」の営業で成長
(19歳頃)
父から継いだプラスチック工場は下請け仕事が大半だった。原料は支給され、要望通りに部品などを作って納める。1個数十円の加工賃だけが収入だ。
朝8時から夜8時までの操業時間が終わり5人の工員が帰った後、私は朝まで1人で機械を動かし続けた。そうしないと自分や家族の生活費がまかなえないからだ。作業をした分だけお金になると思うと眠くても平気だった。午前8時に工員たちと交代し、朝ご飯を食べて営業へ。昼は仮眠し夕方には配達、夜は作業。そんな生活が続いた。
専門誌も本もない。「もっと工程を簡略化したり、コストを下げたりできないか」。自ら生産設備に改良を加え、あるいは自分なりに設計して鉄工所に頼み形にしてもらう。
小さい頃から近所の町工場に出入りしていた経験も生きた。さまざまな工場の様子が改良のためのヒントになったからだ。大型の成型機は価格が高く購入できないため、これも自分流に設計し鉄工所で作ってもらった。こうした「大山流」の設備は競争力に優れていた。
得意先から見ると、常にニコニコ、答えはイエス。こんなに便利な下請けはない。発注は右肩上がりに増えていき、経営は順調に滑り出した。
大変だったのはヒトとカネだ。歴史は浅く社長は20歳そこそこ。なかなか人は集まらない。とにかく採用できた人たちと、生き抜くために共に苦労し一緒に育っていった。社長と従業員というより仲間のような存在だった。
また、無名の企業で担保の土地もあまりなく、銀行は融資をしてくれない。手形を発行して、その資金で新しい機械を買った。「手形がもし不渡りになったら」という恐怖はすっかり体に染みついた。ここ30年ほど手形を切らず、ほぼ無借金経営を続けているのは当時の苦労ゆえだ。
ともあれ仕事は順調に回り従業員も増えていった。大阪には電機などのメーカーがたくさんある。冒険をせずに大手の下請けとして言われた通りのものを作り続けるなら、このまま会社は安泰だと思われた。
下請けは仕事をもらうのも納入も得意先任せの会社が多い。それが嫌だったのだ。自分の製品は自分でお客様に納めたかった。当時すでに下請けという生き方に疑問を感じ始めていたのかもしれない。
私は下請けの社長で人生を終わりたくないのだ――。自分の思いに、はっきり気づいた。