現在の日本共産党組織の問題点を簡潔に言うと党規約にある『民主集中制』の問題に集約されるのではないでしょうか。?
何故現在の日本共産党は民主集中制にこだわるのか。?
なぜ民主主義だけではいけないのか。?
日本共産党機関紙赤旗では、『集団的に検討、その決定に参加した人々は決定を全面実践する責任があります。これが民主集中制の基本的原則です。』と説明する。
ですが、検討段階で反対であっても実践段階では決定に従がうのは民主主義の基本原則であって、共産党の様にあらためて聞き慣れない『民主集中制』などと小難しく言い変える必要性は少しも無い。
合理的な理由がまったくありません。
ではなぜ共産党幹部は『民主集中制』にこだわるのか。?
この言葉は前半の『民主』ではなく、本音は後半の『集中制』にこそ、其の本当の重要性があるのではないか。?
民主主義は一般党員の利益に、集中制は党幹部の利益になります。
1980年代以降党勢が伸び悩んでいる原因は『集中制』の不足ではなく『民主主義』の不足が原因しています。
それで結果的には自民党や民主党などの保守政党に利益を与えているのです。
『民主主義的中央集権制の意味では無い民主集中制』
『民主集中制=民主主義的中央集権制』などと言う考えは間違いで、実は民主主義的中央集権制を敗戦後の日本共産党が組織原則とした歴史は一度もありません。
『中央集権制(独裁制または専制政治)は民主集中制の対極にある制度である』が今の日本共産党の公式見解のはずです。
日本共産党の歴史において、1980年代以前と以降の余りの違いに党員も支持者も気が付いていると思います。
80年代以前では選挙のたびに議席が増えるのが当たり前、得票が増えるのが常識だったのです。
正しい『政策』を宣伝すれば勝って当然です。
選挙のたびに共産党が、文字どおり倍増する勢いで躍進した。
結党以来85年の歴史と言われているが、戦前にはインテリ層の極一部に知られていただけで、大衆は全く其の存在を知らなかった。
有権者は存在も知らない共産党の政策など知る由も無い。
よって共産党が候補を立て政策ビラをまけば自動的に党躍進になった。
この状態が80年代まで続いたのです。
しかし、80年代以降は皆さんがよく知っているじり貧の停滞状態が続きます。
20年以上前の話ですが、大躍進が止まった時に共産党中央は其の原因を自民党などの反動勢力による『反共攻撃が原因である』と説明しました。
39議席に共産党が躍進した直後、不破書記長の秘書が酔っ払って他人の自転車に乗っていたと言うような瑣末な事件が、マスコミ総がかりで次々と大々的に報道されました。
そのために、殆どの党員や支持者は反共攻撃の説明に納得しました。
しかしマルクスエンゲルスの共産党宣言の記述にあるように反共攻撃は150年前から存在し、1980年ごろまでは激しい反共攻撃の中でも躍進していたのです。
『普通の一般市民の目線では』
普通の考えでは字面上、『民主集中制』は『民主主義的中央集権制』(democratic centralism)の省略形であると思われている。
そして、どの様な組織でも構成員の無条件の『自由』を認めれば統一組織としてもたない。
その限りでは、どの政党も共産党のような『民主集中制』でないと成り立たないのは当然で、いわゆる『党議拘束』はその現れの一つでしょう。
言葉の意味的にはその通りかもしれないが、一般的な印象としてこの『民主集中制』の言葉には、旧社会主義国の一党独裁的な、『民主主義』とは名ばかりの中央集権(独裁)や専制政治などのマイナスイメージがこびり付いていて、残念なことに現在の共産党もその呪縛から完全に自由にはなれていない。
日本共産党など政党に限らず人が何かの組織に所属すると、その組織への忠誠心がトップへの忠誠心に取って代わられるという『倒錯』は、しばしば見られる現象である。
このような組織上の混乱現象、『人治』(組織防衛を目的とする)を防ぎ『法治』を守る(組織自体の「目的」を優先する)ことが出来るかどうかは、人事面での組織の新陳代謝の健全化以外にはないでしょう。
『字面上では「民主集中制」は民主主義的中央集権制の省略形なのだが』
文法的には全く『同じもの』なのですが日本共産党は『集中制』と言っても『中央集権性』と言うことは絶対にありません。
此処を巧妙に注意深く使い分けている。
自分たちが世間からどの様に見られているか、ある程度は自覚があるようです。
日本共産党が『中央集権制』と見られることを極端に嫌っています。
一部のお馬鹿なネットコミュニストのように民主集中制=民主主義的中央集権制は、官僚主義的中央集権制の対極などとは言いません。
では何故日本共産党は『中央集権制』と言う言葉の使用を躊躇うのか。
答えは簡単で、党の支持者や有権者たちが『中央主権制』を嫌っていることを良く知っているからです。
『中央集権制』を声高に叫べば共産党の得票に影響するのは明らかで、党幹部は其のことを良く知っています。
今現在、党勢が伸び悩んでいるのは共産党の存在を大衆が知らないからではない。
また共産党の政策を有権者が知らないからでもない。
多くの有権者が共産党に投票しないのは、共産党の政策に反対しているからではない。
多くの有権者(多分国民の8割)は日本共産党の政策に賛成している。しかし共産党に投票しない。
なぜ、政策には賛成しても日本共産党に投票しないかの理由は有権者に聞いてみるとよい。
其れこそが『中央集権制』なのです。
共産党は『今は良い事を言っている。』しかし政権を執ったらどうなるか、大衆は其れを心配している。
中国や旧ソ連の悪い見本には事欠かない。
有権者は共産党の政策を支持しているが、共産党の中央集権制にはっきりと反対しているのです。
『既に答えは出ている』
共産党にとっての、もう『答え』は出ているのです。
今回の参議院大敗では何時もなら必ずあるはずの決まり文句『悪質な反共宣伝で敗北云々』の言葉がなかった。
しかし、それ以前の選挙総括では必ずこの『反共宣伝』の決まり台詞が選挙の敗北原因とされていたのです。
20年以上の共産党の停滞の理由を『反共宣伝』『反共活動』に求めるのは元々無理がある。
マルクスエンゲルスの共産党宣言の昔から反共宣伝は歴史的事実がある。
反共攻撃は150年前から存在し、1945年の帝国の敗戦までは治安維持法で共産党組織は壊滅。敗戦後に再建されたがアメリカ占領時代の吉田茂内閣時代には松川事件などの謀略事件をでっち上げて『共産党の破壊工作である』と大宣伝し共産党は壊滅的被害に遇うも、1980年ごろまでは激しい反共攻撃の中でも躍進していた。
『悪質な反共宣伝で敗北云々』は客観的事実であるが、事実の全部では無い。
全ての組織は肥大化すると例外なしに中央集権を指向していきます。
組織とは本来的に中央集権を内包しています。
しかし21世紀の現在において『中央集権』を組織原則に掲げる政党は日本共産党だけ。
しかし、実は程度の差は有れど政党など全ての組織、団体は皆中央集権的な要素を含むのです。
例えば自民党は党名に自由と民主主義を上げ、組織原則に民主主義を掲げていますが、共産党以上に中央集権制を執っています。(党大会で決めるのは党首だけで、全ての中央役員は党首が決める)
共産党は戦後0から出発し倍倍ゲームのように躍進した。
7~8%の得票になった時から停滞が始まって25年間この状態が続く。
全ての政党が民主主義を掲げている現在において、共産党一人が其れに逆らい集権制を組織原則に掲げる。
これで勝てる方が可笑しい。
実態はすべての政党の中で一番民主主義的に運営されている共産党が唯一人だけ『中央集権』を叫ぶ。
愚かしい限りである。
一般大衆は民主主義は歓迎しても中央集権は歓迎しない。
共産党はわざと人々が嫌がる言葉を使いたがる。
果たして、日本共産党幹部達は、『民主集中制』と言っても『民主主義的中央集権制』とは言わない理由を合理的に説明できるのでしょうか。
多くの有権者(多分国民の8割)は日本共産党の政策に賛成している。
しかし共産党に投票しない。
本当かどうか知りたいのなら共産党ではなく民主党とでも名乗ってみてください。
全く同じ政策がほとんどの有権者の支持を集めるでしょう。
共産党の政策を嫌っているのではない。共産党の名前を嫌っているのです。
最近「湘南爆走族」風の暴走族OBらが80年代の旧型オートバイなどを改造して集団走行する「旧車会」と呼ばれるグループが警察に摘発される何とも馬鹿馬鹿しいニュースが報道されていた。
盛大な爆音をまき散らし、数十台の“族仕様”バイクの暴走集団なのですが、この参加者が二十歳前後の若者集団ではなくて30代~40代の中年集団なのですね。
暴走族なんてお馬鹿なガキの遊びで良い年をした大人がするモノではないのですが、この連中の正体は旧車會というオヤジ暴走族で、かつて暴走族だったオヤジ共が『子供の時のお馬鹿は大人になってもお馬鹿である』と証明するかのごとく、何十年後かに同じ格好をして昔と同じことをしていたのですよ。
このニュースを読んだと時には、何故か今の日本共産党のことが連想されて仕舞ったのですね。
古き良き時代にタイムスリップするハリウッド映画「バックトゥーザフューチャー」はバックするのは本人(主人公)だけなのですが、共産党の場合には取り巻く社会の方を「バックトゥーザフューチャー」しようとしている気がしますね。
しかしそれは絶対に無理というものです。幾ら努力しても成功しません。
日本共産党ですが、その『言葉』では今の時代では一般には通用しないのだとの当然の常識が働かないのですよ。
『プロレタリア独裁』をプロレタリア執権に変えるなど首を傾げます。
この用語は、仰られているように『市民主導』の言葉に変えても何ら違和感もなく使用できるし、今のように有権者からの誤解も少ないでしょう。
ところが意味なく小難しい難解な用語を使い続けて、わざと共産党支持者が少なくするよう努力しているような不思議な話なのです。
いいですか、共産党は共産党なんです。すべての言葉は自分をモチベイトするための言葉であり、他者への呪文なんです。だから言葉を分析してはいけなかったんです。科学的であると信じている宗教なんだと思いました。
いいですか、すべての天台宗の僧侶が経典を科学的に分析し納得しているわけではありません。しかし高僧になるために先ずは三千巻の経典を暗記するしかないのです。
共産党の幹部だとえば志井君(委員長)が、共産党の用語がすべて正しいと思っていると思いますか。そうではありません。官僚でも共産党でもいっぱい疑問を抱えながら、それでも既得権と地位保全を確保しているんです。
第二の筆坂になりたくないんです。ここまで上昇していまさら覆せないんです。
学生時代ばかにしていた友人は案の定、代々木の幹部です。トロッキストと呼ばれた僕が最下層の人民であるのに、です。(笑)
彼らはプロレタリアートでは最初からありません。ある種の特権階級なんです。逆らわないで異論を挟まない限り。
いまさら六全共まで戻っていっているのではありません。誤解しないでください。綱領の問題ではなく「生き様」の問題なんです。
でもまだ徳田球一の亡霊は重く幹部にのしかかっているんです。
党が崩壊するより先ず自分なんです。
もちろん、政治活動をする政党と労働者の権利を守ることが使命の労組とは目的も性格も全く違い旧社会党のように自分の手足として勝手に使うことは明確なルール違反です。
ただ仰られている例ですが、その範疇に含まれるのでしょうか。?
派遣労働の全面解禁の結果、今の労働者の状態が凄まじい状態になったの御存知だと思いますが、政党としては情け無いことに共産党以外は全員が賛成したのですが去年の派遣村の惨状を見て『こんなことに成るとは思わなかった』と民主党や社民党の議員が語っている。
この例は社会科学に疎いものが政治を行う悲劇ですが、労組の役割は職場の中だけに限定されず、政治活動も含めもっと大きいでしょう。
労組が個別の問題で政党と合同で運動すること自体は健全であるのではありませんか。?
近代的な国家においては組織された労働者は、実は国家権力よりも上位にあるのだと、ポーランドの自主労組連帯が証明したのですが、情け無いことに日本でこの事実がまだまだ理解できていない。
今の日本のナショナルセンターである連合がもう少ししっかりしていたら現在のような日本の経済状態や社会情勢には成ったいないでしょう。
何か民青や共産党に対して過去の若いときにトラウマがあるようですが、日本の民主党や自民党、社民党などそれ以外の政党と比べた時には、矢張り共産党の主張の方が断然正しいのですね。
仰られておられる事は政策的な『正誤』の話ではなくて、共産党が主張する時の『態度』の問題点であるのですが、
>『科学的であると信じている宗教なんだと思いました。』<
とはまさに、その通りで的確で『正しい判断』です。
しかも、困ったことに特にネット空間の共産党(党員、支持者?)にはその傾向が特に強いのです。
今の日本人は宗教に関心が薄いとか無宗教であるとか言われているが、実は『科学』を文字通り宗教的に信じる『科学教?』の信者が大勢いるのですよ。
ネット空間ではこの傾向は社会全般よりもさらに増幅されて阪大物理学教授の菊池誠を教祖とする『ニセ科学批判』なんて不思議なカルト宗教まで存在するのですから大笑いです。
マルクスが共産主義を『科学』として確立するのですが、科学ではそれが自然科学であれ社会科学であれ例外なく、他者からの検証が最も大事な作業であるのです。
ところが困ったことに共産党においてはこれがないがしろにされているのが現状です。
これでは宗教化の危険性は避けれないでしょう。
科学の力の源泉は、『普遍性』であるのですから、科学的に正しいから宗教化しないではなくて、科学的に正しいものは、より宗教化しやすいのです。
何故なら、宗教は自らの普遍性を主張しているのですが、宗教には本来その性質上普遍的ではなくて、唯一科学だけが普遍的な存在であるのですね。
『宗教』と『科学』は相反する概念で『全くの別物である』との認識が一般的ですが、実は部分と全体、あるいはコインの裏表の関係のように完全には分離できないばかりでなく共通の先祖を持っていて『人』とチンパンジーのように、違っている部分は極少数部分だけで、それ以外は多くの共通のDNAを持っている。
では、科学と宗教の最も特徴的な違いとは何でしょうか。?
この両者の最も特徴的な違いとは『異端の存在を許容出来るか、出来ないか』ではないでしょうか。?
どんな素晴らしい科学的発明発見、理論、学説でも一番最初は定説(正しい学説)に対する、単なる異端にすぎません。
異端を認めない社会には発展は有り得ないのです。真っ当な科学なら『異端』(異論、反論)の存在は歓迎する。
ところが共産党には組織原則として分派行動を許さない『民主集中制』を標榜しているが、これが共産党が宗教化する最大の根拠(原因)となっているのですが、この事に気づいている共産党党員は困った事に案外少ない。
中立ですから、たとえば大企業を国有化して、そこで働いていた労働者中心の経営体を作り、「独占資本家」の意見をまったく聞かずに「独裁」経営をするべきというアイデアは、一つの経営案として大いに理があると思います。
それから、たとえば「独裁政権」といってもこれも価値中立だと思います。
一番最初の出だしの言葉が、『反共主義ではない』なので、思わず苦笑してしまったのですが、ご謙遜なさらずとも立派な典型的な『反共』言説の見本ですよ。
『全共闘”世代など学生運動』では、当時共産党系よりも反共の極左諸派の暴力集団の反社会的勢力の方が遥かに多かったのが現実で、その意味では仰られている事は大まかな範囲では同意出来るものですし、
また、『共産主義を信じる狂気』との主張自体も、このブログで取り上げている共産党のカテゴリーの連載記事の主張とおおむね一致しています。
スターリンや毛沢東やポルボトの狂気とは何か。?正に『社会科学の一つである共産主義を宗教的に信じた』為に起こっ必然ではないでしょうか。?
社会科学の一つであるマルクス主義が宗教化する『倒錯現象』によって起こった悲劇であるのです。
しかし、何もこの現象は共産主義だけに止まらず『科学』なんてものは『信じる』ものではないのですよ。
『科学』は、信じた瞬間にそれは『科学』ではなくて『科学教』という不思議な破壊的カルト宗教に変質してしまう性質があるのですが、
この卑近な例では、ブログ界でも2年前に解同系の偽装左翼kojitakenグループが『水からの伝言騒動』という不思議な騒動(糾弾闘争もどき)を起こしています。
このような不思議な『科学教』にしろ政治活動に大きく影響する『共産教』にしろ、色々な形はあれど宗教が人の世の平和や、真の心の平安に役に立った試しはないのです。
特定の宗教が有害無益だというのではない。そもそも宗教というものが、人間にとって有害無益だと言うことですね。
その科学の宗教化に貢献しているものがこの記事で取り上げている『民主集中制』という今では実体が無いが言葉だけは残っている化石的言葉であるのです。
他からの検証を拒否した瞬間に、それは『科学』ではなくなるのは地球温暖化人為的CO2説で証明済みであるのです。
「独裁」と言う言葉は、『善悪の意味を含まない中立の言葉である』のは、政治学的に見れば仰られる通りであるのですが、現在の社会での現実問題と見れば如何でしょうか。
確かに古代ギリシャ哲学の最高峰のアリストテレスの師匠であるプラトンは民主主義は最低の政治制度で専制君主による独裁こそが最高と考えていた。
アレキサンダー大王の家庭教師だったアリストテレスもこの考え方を否定していないので同じ様な『独裁』に対する政治姿勢であったと考えられます。
ただ、日本には『忌み言葉』と言うものが存在していて、その中には間違いなく『独裁』や『中央集権』が含まれるのです。
これは間違いないですよ。
この『忌み言葉』の戦後の代表的なものに『戦争』があり、戦争は全て『平和』と言い換えられているのですよ。
広島沖縄などの戦争を記念する公園であるのに、『平和』記念公園などのような良い例があるし、宮崎県の日本最大の八紘一宇の塔が『平和の塔』と名前を変えているお笑いもあります。
これ等の『平和』の文字は、本来『戦争』や『軍事』の意味であり間違いですね。
ヒロシマの平和公園は『戦争公園』であり、宮崎県の塔は『軍事の塔』が言葉の意味としては正しいでしょう。
しかし誰も『戦争』の文字は忌み言葉なので使わないのです。
政治用語としての『中央集権』は戦後の忌み言葉で、使ってはいけない代表例の一つです。
石原慎太郎や小泉純一郎が人気が有るのは彼らがリーダーシップがあるかのように装って大衆の人気をつかんだからです。
決して中央集権制を標榜したからでは有りません。其の逆です
彼等は中央集権の専制政治を目標にしているけれど決して口には出しません。
中央集権制を言えば民衆が反発する事実を彼等は知っています。
それで「民主主義の実現」しか喋りません。
小泉や石原に投票したのは民主主義の強いリーダーシップを求めたのであって「中央集権制」を支持したことにはなりません。
大阪府知事の橋下撤は、中央集権の反対の概念である地方分権を表向き主張しているのですが、実際は大阪市を解体して大阪府に吸収する中央集権の大阪都構想を目指しているのですから全くのペテン師ですね。
中央集権を目指しているものは石原慎太郎や橋下撤のように多いかもしれないが、いまどき世間に向かって中央集権を言うものは共産党以外には誰一人いないのですよ。
共産党以外では『中央集権』は全て『民主主義』と言う言葉と置き換えられています。
其の例外が日本共産党で、未だに使用し続けて、無意味に反共攻撃の種を供給し続けているのですが、何とも腹立たしくもあり情けなくもあります。