tak147

LICHT+(リヒトプラス)で出走しています。
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水色の冷たい空の彼方へ

2009年12月17日 | 雑記
2002年4月1日
入社式当日、高速バスを降りた新大阪の駅の書店で買った“サイスポ”。
なにもわからない土地、入社式後の3週間を過ごす研修先の寮に強引に自家用車入寮し、こっそり持ち込んだMTBとロードバイク。
研修後の夜の時間はロードでトレーニングとサイスポでの情報集め。
就職を機にMTBジャパンシリーズに初めてエントリーしたばかりだったから必死でした。

そんな中で、ヘッドショックをチューニングしてくれるショップの広告は当時とても魅力的でした。



2002年4月20日
当時の河東郡滝野町(現在の河東市)の寮、休日の同期はみんな地元へ・・・僕は何か近くの名所までサイクリングしようと思い福知山城へ行くことにしました。
出発前に気になるショップに電話してみると・・・
『夕方から夜に行くと思います』
という僕に対して、
『10時まで開けてるからおいで!』
といってくれましたね。
サイクリングから帰り、シャワーを浴びてMTBを自動車に積んで出発。
中国道-近畿道-西名阪・・・初めての土地・地名、地図と広告のMAPだけが頼りのドライブでした。
20時30分頃到着して、電話した者ですと・・・。
笑顔で迎えてくれた店主さんと、数名の(怖そうな)おじさん…お客さんたち。
ジャパンシリーズに出ることを伝えると、厚さの違う薄いスペーサーのようなものを入れ替えて調整することで、このサスペンションがどこまで動くようになるのかを丁寧に説明して、そしてポジションのチェックと修正をしてくれましたね。
そして、3週間後にはもう少し近くの寮に住むことを伝え、ひとまず研修が終わる1週間後にMTBを引き取りに来ることにして店を後にしました。


2002年4月27日
工場研修を終え、一足先にゴールデンウィークに突入、荷物をまとめて自動車に詰め込んで向かうは香芝市。
サスペンションのチューニング結果がずっと気になっていました。
変わらない笑顔で迎えてくれた店長、生まれ変わったサスペンションが装着されたピカピカのMTBがそこにありました。
GWは地元で練習、翌週末は地元開催の初J2レースでしたから。


2002年5月18日
高槻市の寮で迎える初めての週末。
J2の報告がてらロードバイクでショップまで行ってみました。
片道45km、この道が通いなれた道になるとはねぇ。



2002年6月23日
初めてショップのMTBライドに参加しました。
店長は速かった。
地元開催のJ1のレースで結果が出したかった僕。
軽い=速い・・・そんな発想の僕のために超軽量ホイールを当時のクロスマックスの半額で作れるという・・・初ボーナスは目の前でした。



2002年7月7日
軽いホイールは僕の技術不足も仕事の胃の不調も吹き飛ばしてくれました。
J2で36位だった僕がJ1で8位、しかも上りは誰よりも速い気がしました。
ちなみにいきなりリム打ちでリム曲がってましたけどね。


2002年7月21日
初めての、自走+ロード走行会+自走帰宅。
8時の集合だから寮出発は6時半、到着したら即出発でした。
やっぱり店長が一番速かったですね。


2002年8月4日
J1さのさか、パンクしてリタイアした上に、下りだから停車するまでに岩でホイールはガタガタ。
そんな僕を店長は夜遅くまで店で待っていてくれました。



2002年8月24日
この日、僕が会話の中で、さらっとつぶやきました。
『フルサスのXC乗ってみたいですね』と。
翌々日に届いたメール、
『Lサイズでフレーム1台押さえてありますが、¥238,000を¥198,000でどない?』
どないって・・・。
『ディスクブレーキ買うお金ないですがいいですか?』
って返しておきました。


2002年9月1日
自動車で2台の自転車を積んでショップのロード走行会へ。
52kmの走行会、坂道で飛び出す方、それを追う僕、そして坂のピークには先頭にいる店長。
同じ光景が毎週のように繰り返されるようになるとは・・・。
MTBを預けて帰宅しました。
ディスクブレーキは当面貸してくれるそうです。

2002年9月8日
僕がフルサスに乗る日が来ました。
翌週末は地元のショップ主催の草レースです。


2002年9月15日
草レースとはいっても近県からエリートライダーも参加するレース、結果は3位。
最新のBIKEに集まる視線とフルサスを生かして下れる魅力を感じた日でした。
楽しくてしばらくは週末を寮近辺の山々にて過ごすことになりました。



2003年2月8日
フロントフォークのコラムを折ってしまったロードバイクを修理に出していたので、受け取りに行ってそのままロード走行会に参加。
いい感じに頑張ってしまったけど、翌日のシクロクロスでC3優勝できました。
この頃から月に2回程度ロードかMTBの走行会に参加するようになりました。



2003年5月~9月
土日を寮で過ごしたことのほうが少ない、土日の朝を寮で迎えたことの方が少ない。
平日の夜は帰宅すると国道で練習。
週末の夜、土曜日がMTBで日曜日がロードだったら…金曜日の夜にMTBを積んで自動車で出発して、土曜日の朝に目覚めるのは山の近くの道の駅。
走り終えて、なぜか夕方帰宅して、次の日は6時に起きてロードで自走でショップ前集合。
走行会がとにかく楽しかったんです。
そして夕方まで過ごすのが楽しみでした。
1日中、作業の邪魔をしては話を聞かせてもらう、自転車のこと、レースのこと、それ以外のこと・・・これがこの頃の週末でした。



2003年10月
僕は結婚、実は9月の入籍時、婚姻届の保証人欄の一人は店長なんです。
『11月からは少しだけ近くに引っ越しますので、これからもたくさん来ますよ』
片道45kmが40kmになるはずでした。
でも、
『実は今月で閉店することになりました』
そんなメールが届きました。
1日中入り浸っていると、大きな夢も、経営の悩みも少しは聞いていたけど・・・ただ残念でした。
そんなメールが配信された日の夜、店内には深夜までみんなが集まって閉店を惜しみましたね。
ここで使っていたバイクタワー、そのうちの1台はずっと僕の部屋にあります。
まだ僕の中では閉店していません。



2004年は生活が変わり、BIKEに乗らなくなり、レースも走らず・・・
2005年はまた自転車に乗りたくなり、レースもしたくなりました。
店長は店長ではなくて、一人の友達のような感じでした。
2006年、自転車とは違う仕事をしていた店長が再び店長になる準備をしていました。もちろん自転車のお店です。
再び開店するはずでした。
でも、ちょっとは気になっていたんですよ、お店をしている時から時々崩す体調と同時に出てくる肌のカサカサ。
白血球少ないのもやっぱり変でしたよ。
でも、いまさらです。


2007年、開店するはずの店を開店せずに自転車小屋になりましたね。
そして別の方向でメーカー直営店の店長に決まったと聞かされました。
うれしそうに、でも細かいことはなかなか教えてくれませんでした。
まぁ結局話してくれましたけどね。


2007年7月22日
夢を形にしたストアのオープン3日目。
店長に会いに行きました。シューズが欲しかったし、BIKEもいろいろ案内してもらいました。


2007年11月10日
POPRADのオーナーになってました。
XO1と比べてどちらにするか決められない僕を、いつまでも笑顔で見守ってくれました。

このすぐ後、入院されました。
でも入院先は僕の職場の近く、少し近くに戻ってきてくれたような気がしてしまいました。
そしてあっという間に脱走・・・いや退院されてました。
サイゼイリヤで食事したり、リハビリにMTB渡して整備してもらったり・・・。


2008年4月
調子を崩したままの僕をストアに誘っていただきました。
近くに行けるチャンス、慣れた仕事を離れる不安、趣味を毎日仕事にできる希望、未知の世界へ踏み入れることの恐怖。
2度と無い機会を与えていただきました。



2008年6月
再び店長のそばへ



2008年11月
神戸へ引越し、土地勘も無いまま物件を決めたら、偶然にも店長の家の傍。
毎日のように一緒に走れる日々の始まりでした。
日曜日と水曜日のライディングイベントも楽しみでした。
ストアイベントは真剣な本当に楽しそうな横顔が見れる時間でした。
だから、最後までみんなが集まってくれたんですよね・・・あの時の僕みたいに。

2009年4月
月間1000km超えてましたね。
“強いて言うなら”走りすぎですよ。。。


2009年5月
誰よりも速く坂を上っていく姿、気づいたら右斜め後ろにある歯を食いしばった姿、強烈なダンシングで上っていく後姿…一度くらいは引き離してみたいと思ったのに、できませんでした。
いいんです、毎日の帰宅が僕は本当に楽しかったから。


2009年6月
サンデーライドなのに2人で頑張りすぎましたね。
これまでで一番きつかった長坂でした。僕もうあんなに頑張ることは、今後ないと思います。


2009年7月
喉の不調しつこかったですね。
急に入院びっくりしました。
病室にBIKEと工具と3本ローラー欲しがってましたね。

その後の退院とご実家療養ちょっと不安になりました。

2009年9月
僕、月間1000km超えましたよ!
ポラール見せて直接報告したかったです。


2009年11月
再入院、体力回復と新たな治療とお聞きしてました。
世間で蔓延している新型インフルエンザ、でも会いに行くの遠慮しなければよかったです・・・。


2009年12月2日
メールの返信が、
『いつでもおいで』


2009年12月3日
行きました、会いたかったので。
結婚指輪の場所を変えなければいけないほど痩せてましたね。
でも、検査の末に病気の症状の原因みたいなものがわかってきて、体力の回復を待って新しい治療ができるんでしたよね。
治療して、暖かくなって退院して、通院して、元気になって・・・世間の役にたつことをするんでしたよね。
お子さんとゆったりサイクリングするんでしたよね。
僕だってゆっくり走るつもりでしたよ、あなたがゆっくりと走れるのならば・・・。

『11階の病室からの神戸の夜景、もう見飽きましたか?』
って聞いたら、
『全然見飽きてへんで~』
って言ってましたね。
僕も見飽きるまで見ていたかったです。

1日中続く治療と点滴で忙しくて大変そうだったから、
『また来ますね』
って言って帰りましたよ。
『おう、またな』
って言いましたよ。
“また”・・・ですよ。


2009年12月16日
知らせは水曜ロードの最中でした。
冷静に冷静に冷静にと。
いろんな準備を冷静にと言い聞かせて。
夜も、眠っているその顔を見るまでは、自慢の丈夫な歯が垣間見える口元を見るまでは・・・。


2009年12月17日
もう一度会いたくて、誰もいないような、できるだけ静かな時に会いたくて、これでもうその顔を見れなくなるのだから。。。

もう24時間も眠り続けているんですね。
おやすみなさい、僕も帰って寝ますね。

朝、行きたくありませんでした。
店長、あなたに会いたくないと思ったのは初めてです。
でも今日が本当に最後の日ですから。
最後までギリギリに行ってごめんなさい。

いつも笑顔で迎えてくれた店長でした。
走り方を変えてくれた店長でした。
いつも仕事の邪魔をして居座る僕にいろいろ教えてくれました。
仕事を終えて、閉店時間に来る平日の僕のために、シャッターを半分閉めて帰宅せずに待っていてくれました。
『明日も走りに来るんでしょ』
って、土曜日の晩に自宅へ泊めてくれました。
店長と行く、フレンドリーとスタミナラーメンと神座・・・。
人の言うことを聞かない僕が、フルサスMTBとキャメルバックを使いはじめたのは、あなたのせいらしいですよ。
僕もそう思います。
今の僕なら、水越峠ついて行けますか?
奈良側に上手に下れるでしょうか?
あの1枚岩の上り、もう1度勝負したかったですね。
あのトレイル、今の僕なら同じラインで一緒に下れますか?

寒いですね。暖冬だったのに急に寒くなりました。
空は水色なのに、みんなの・・・僕も雨が止みません。
さようなら、お疲れさま、ありがとうございました、なんと言っていいのかわかりません。

白いものが降ってきました。

今度こそ gino bike 閉店ですね。

将来のこと、妻と喧嘩する悩みもなくなってしまったようです・・・いつかは悩まなきゃいけないと思っていたのに。
いつ提案があるか怖かったけど楽しみにもしていたのに拍子抜けですよ。
もちろん妻もその覚悟でしたよ。



水色のBIKE乗ってますか?
“gino bike”
とペイントされたあのバイクに。





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アップのためだけに

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2 コメント

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Unknown (牛乳太郎)
2009-12-19 08:51:48
僕は1年足らずのお付き合いでしたが、強い喪失感があります。
takさんと店長の関係ならなおさらですね。。。
12月16日。水曜ロードの最中に中断した直後のtakさん、そういば遠くを見ていましたね。あの時に連絡があったんですね。

これからも必死に走りましょうよ!店長のためにも。
返信する
Unknown (やました)
2009-12-19 15:18:58
このblogのお陰で訃報をしることができました。
ginobikeの写真は持ってないので懐かしいです。
お店で本を読んでるのは私ですね。
よく入り浸っていたころを思い出しました。

心より故人のご冥福をお祈りします。
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