郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

上月城落城と山中鹿介幸盛

2020-03-02 09:56:16 | 城跡巡り
【閲覧数】2,815件(2014.4.29~2019.10.31)



 

▲山中鹿助像(広瀬中学校蔵)      



▲山中鹿介公銅像 月山富田城中腹・太鼓壇公園



上月城落城と山中鹿介幸盛(やまなかしかのすけゆきもり)


 天正5年(1577)12月、秀吉軍の播磨侵攻により上月城(佐用町)が落とされた。秀吉は上月城に尼子勝久と山中鹿介を残し城を守らしていた。その4ヶ月後の天正6年(1578)3月、別所長冶が突如織田に反旗を翻し、毛利氏と手を結んだ。同時に東播磨の諸豪が次々と織田から離脱し、別所の本拠三木城は、籠城の構えを見せた。

 同年4月、毛利は大軍を率いて上月城を包囲した。これを知った秀吉は、信長に援軍を求めたが、信長は三木城攻略を優先したため、上月城は見捨てられてしまった。

 上月城の尼子勢は数ヶ月の籠城に耐えたが、兵糧の尽きた7月開城し、尼子勝久と弟が切腹、毛利敵対の者が処刑された。記録によれば城内に残った兵は助け置くとあり、命は保障されたようである。 
    
 しかし山中鹿介は捕らえられ毛利輝元の本陣備中松山城へ護送中に高梁川の阿井(合)の渡しで毛利氏により殺害された。

 これにより、尼子氏の再興の悲願は断ち切られた。ただ、元尼子の家臣であった亀井新十郎(茲矩:これのり)率いる尼子遺臣の一部が秀吉軍に従軍していたため、尼子遺臣は新たな道を歩むことになった。

 山中鹿介が尼子氏に忠誠を誓い戦い続けた壮絶な生き様が、江戸時代に悲運の英雄として講談師により語り継がれ、明治になって国民教育の題材として教科書に登場することになる。



山中鹿介幸盛の墓所・供養碑

 中世の城跡を探索する中で、訪れた墓所や首塚の幾つか紹介します。

1.山中鹿介の墓(高梁市落合町阿部)

 

 備中松山へ護送途中、この阿井の渡しで毛利氏に殺害された。墓は、正徳3年(1713)松山藩主石川候の家臣前田時棟が建てた。



2.幸盛寺内の墓(鳥取市鹿野町鹿野)

 


 天正9年(1581)に鹿野城主となった亀井茲矩(湯新十郎)は山中鹿介の養女(亀井秀綱の娘)を娶り、亀井の姓を継いだ。そして、明照山持西寺をこの地に移し、鹿野山幸盛寺と改め、山中鹿介の菩提を弔い、高梁から採骨し墓を築いたと伝える。



3.静観寺山門前の首塚(福山市鞆町後地)

 

 毛利輝元は備中高松城で山中鹿介の首実検をしたあと、鞆の浦(福山市)に迎えている将軍足利義昭の元に首実検のため送った。



4.観泉寺境内の墓(高梁市落合町阿部)

 殺害された山中鹿助の遺体は曹洞宗観泉寺に埋葬されたという。



5.徳雲寺境内の首塚(庄原市東城町菅)

 尼子の残党により、首が掘り出され、尼子勝久が幼少期に過ごした徳雲寺の本堂裏山に埋葬されたと伝わる。



その他、江戸期になって山中鹿介の子孫によって建立されたもの

6.大徳寺玉林院内の墓(京都市北区紫野原大徳寺町)

7.本満寺実泉院内の墓(京都市上京区寺町)

8.金戒光明寺金光院内の墓(京都市左京区黒谷)



雑 感

 高梁市の備中松山城の探訪で、山中鹿介が護送中殺害されたという高梁川の阿井の渡し場が近くにあることを知り訪れた。また、鳥取市鹿野町の城下を歩いていたときにたまたま幸盛寺に山中鹿介の墓を見つけたこと。さらに、広島の鞆の浦で首塚があることも知り、そのお寺にも立ち寄った。

 いつか、そのことを紹介をしようと思っていたところ、ちょうどNHKの大河ドラマ「軍師 官兵衛」で山中鹿介幸盛が登場したのに伴い、今だとばかり取り上げてみた。調べてみると他にも墓や首塚、供養塔があることがわかった。尼子の重臣ではあったが、大名でもない一人物のものとしては、類のない多さだ。それは惜しまれた人物であったことを端的に物語っている。

 山中鹿介幸盛は山陰の麒麟児の異名をもち、尼子氏の家臣として戦い、毛利氏に敗れたあとも御家再興に命を賭して戦ったが、天運つき30代半ばで散った。その勇猛果敢な武将の生き様と無念の死は、江戸時代に講談師に語られ、明治以降の国民教育に取り上げられた。昭和12年(1937)より終戦までの8年間、尋常小学校五年生の国語教科書に載り、山中鹿介が三日月に向かって「我に七難八苦を与え給え」と祈願したという逸話は有名で、当時学んだ児童(今は80歳以上の高齢者)で知らぬ人はない。



参考:『上月合戦~織田と毛利の争奪戦~』、他


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