郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨  城山城 ②

2020-03-10 09:44:09 | 城跡巡り
【閲覧】13578件(2012.2.2~2019.10.31)



城山城跡主郭(本丸)から亀山頂上に向かって

 
▼越部古道散策マップより         


 ▼城山城縄張図





城山城跡の中心部の案内板を右(北)の亀山に向かいます。右手の主郭の曲輪群を右に見ながら、登っていくと、石塁Cの案内表示があり、それに従って進みます。
 


▼城山城跡の表示                        ▼次のルート案内





西の谷あいに突如、大きな石塁が現れます。その規模は、高さ3m・全長約40m。城山城の最大の見所です。ここに来て初めて、「このような高い山上になぜこのような石塁を!」と驚嘆させる最大の遺跡です。






 元に戻り、亀山山頂に向かうと、山頂に門の築石の案内(5分)があり、左(西)に向かいます。
 
 ▼亀山(城山) 標高438mの表示            ▼築地の案内





 尾根筋の途中に古代山城の門の築石(礎石)が点在する。思っていたより大きな築石で、凹字形をしています。大きくえぐられた四角は60cmあり、そこに角柱を立て、その内側の四角のくぼみ30cmに扉をつける角柱が据えられる。中央部の段差は扉の開閉を調整するためだそうです。これらの築石は、その上の削平地からずり落ちたと考えられます。







元に戻り、亀ノ池(きのいけ)に向かいます。途中、自然のモニュメントの亀岩が出迎えてくれます。山の名は、亀山(きのやま)、池の名は亀ノ池(きのいけ)、このモニュメントは亀石(かめいし)、実に亀ずくしといえます。
 

▼亀石



亀山山頂から北の尾根を進み、いくつかの曲輪を過ぎ、大きな堀切と横掘を進むと、亀の池方面に進みます。
 亀の池は、水を満々とたたえ水面を鴨たちが泳いでいました。しばし、その光景に登山の疲れが癒されました。
 


▼亀の池


▼池より 北の山々の展望




 この池の先は、左に行けば中垣内、右が井関三神社奥宮があります。この亀の山には奈良時代の「播磨国風土記」に水の争奪戦の伝承があります。出水里がこの遺称地であるとされています。






もとに戻り、北に進みます。案内板にはこのまま北に進めば、祇園嶽、東は馬立てとあり、下山の道を選びました







下山は、急な傾斜や石場、そしてしだ群のある変化のある道で、数か所ロープが用意されています。途中の出っ張った岩場からの眺望は絶景です。










 山麓が近くになると、落ち葉が多くなり、あちこちに丸い山形の古墳が次々と目に入ります。これが姥塚古墳群(古墳時代後期)。その数30基。多くの古墳は今もなお形を留めています。






 山麓の山神社の横にある古墳の中に入れば、その石積みがよくわかります。
この周辺は越部の里といい、はっちょう塚古墳群、市野保(いちのほ)裏山1号墳や、越部(こしべ)廃寺(古代寺院跡)遺跡など古代の遺跡が数多く見られます。
 
山麓の水涸れした山根川を渡り、馬立の集落に降りました。


 
▼馬立 ここは城山城の登山口でもある



▼馬立(うまたて)の像




◆ 興聖寺 下野田橋を渡り左すぐ



▼興聖寺                           ▼赤松氏の念持仏や位牌




興聖寺は、赤松氏の菩提寺であると伝えられ、赤松満祐の念持仏(毘沙門天像)や位牌などがあります。登山時にお茶を頂き、写真を撮らせていただきました。
 

 
雑 感
 
  嘉吉元年(1441)6月24日は、赤松家及びその一党を震撼させ、赤松一族の運命を変えた日です。播磨国守護赤松満祐は、前代未聞の室町幕府第6代将軍足利義教を暗殺するという嘉吉の乱を引き起こし、室町幕府の権威を大いに失墜させました。それは、下克上の戦国の世に突入するきっかけをつくったともいえますが、その代償は、赤松に同調する者もなく、 同年9月10日幕府の追討軍にことごとく討ち果たされ、無念の自刃と赤松の破滅。

 主郭の中ほどの杉林に覆われ薄暗くじめじめとした場所にある三基の墓碑。それらを見たとき、赤松満祐がここまでに至る行動に興味をもち始めていました。

こんな句が思い出されました。
芭蕉の 「むざんやな甲の下のきりぎりす」  

 後日知ったことですが、満祐は息子教康(のりやす)や兄弟たちの脱出を見届けての自決であり、それがせめての救いだったのかと思われます。


【関連】
➡城山城③


◆城郭一覧アドレス






戦時中の一こま 満州開拓団

2020-03-10 09:29:13 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧】1116件(2011.6.16~2019.10.31)




昭和18年(1943)7月 山崎郷の人たち


写真:「写真で見る郷土史 やまさき」より







 旧満州のハルピンの東280kmにある舒楽鎮(じょらくちん)(現舒楽村)に「第二の故郷 山崎郷・千種郷」の建設を夢見た開拓団があった。

 満蒙開拓団は昭和6年(1931)年9月満州事変以後、中国東北部に渡った農民移民団で、終戦前にはほとんどの団員が軍役に応召され、残された女・子どもがソ連軍の侵入と祖国の敗戦により見知らぬ土地に投げ出されソ連兵の襲撃に加え飢えと寒さと疫病の地獄図の中をさまようことになった。
  
参考:満蒙第八次舒楽鎮開拓団の記録


※青少年義勇軍を含む満州開拓移民の総数は27万人とも、32万人とも。ソ連の参戦でほとんどが国境地帯に取り残され、日本に帰国できたのは11万人あまりだったという。このときの家族離散や死別の悲劇は、中国残留孤児として中国人に養子として引き取られ、あるいは女性は、生き延びるため中国人の妻となる道を選ぶことになったという。


戦時中の一こま 満蒙開拓青少年義勇軍

2020-03-10 09:22:08 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧】1158件(2011.7.29~2019.10.31)



満蒙開拓青少年義勇軍(まんもうかいたくせいしょうねんぎゆうぐん)

昭和15年頃 宍粟郡波賀町 西谷小学校 満蒙開拓義勇軍に入隊した少年たち

写真・説明「追憶ふるさと宍粟写真集より


 満蒙開拓青少年義勇軍とは、昭和13年より終戦まで、旧日本軍が満州の旧ソ連軍への防備と国内の疲弊する農村の人口増加対策のために、中国東北部(満州)に送られた10代の少年たち。

 満州は王道楽土の桃源郷(ユートピア)との宣伝で、大陸に夢を抱いて、多くの移植者とそれを防備する兵士が送られました。

 宍粟郡(市)からも、かなりの青少年が入隊し、夢破れ、満州で亡くなった者、ソ連シベリアで抑留を余儀なくされた者。その人たちの生の証言が聞けるのは、時間の問題となっています。


関連 
「戦時中の一こま 満蒙開拓団」