郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 鍋子城跡

2020-03-05 11:29:06 | 城跡巡り




▲鍋子城跡全景 東の河岸より



▲全景(左端の山) 北東から


▲大きく蛇行する千種川に接した三角状の山 北方の有年・八幡山城跡から

 

鍋子城跡のこと      兵庫県赤穂市東有年

 千種川に流れ込む長谷川が合流する地点から南にかけて千種川西岸に面した岩山(標高147m、比高約130m)にある。頂上に主郭とその北・南にかけて階段状に曲輪がつづく。西側には虎口や土塁があり、石垣の一部が残されている。川に面した急斜面の中ほどの岩場にきれいな水をたたえた泉がある。小規模ながら中世・戦国期の山城の特徴をもった城跡である。
 城の築城時期は不明。城主についても伝承はいくつかあるもののそれを裏付けるものはない。
 頂上からは北に東有年の八幡山城、南東部に尼子山城が望める位置にあり、八幡山城の支城として千種川の西岸で赤穂につながる有年道を押さえていたと考えられる。
 
【伝承の記録】
・『赤松家播備作城記』(1700年頃)には「神口重豊元亀年中居城し、戸田右京三年居し城東有る八幡山城に移り、浦上近江守宗景に攻落なり。岡豊前守天正年中居城、文禄年中に破城」とある。

・『播磨鑑』には、「岡前豊前守、小河丹後守、富田右京居住し、右京が八幡山城を築き居住するも浦上宗景の為に亡くなる。一説に小河丹後守秀春が天正五年(1577)小鷹の城において戦死、小鷹山に塚有り」とある。

・『岡城記』という江戸時代の旧家・岡家(赤穂郡八洞村・相生市)の由緒書に、城主は岡豊前守(天正から文禄年間)とある。播磨国知行割覚『海老名文書』には秀吉政権下、岡豊前守は宇喜多秀家の家臣で有年や加里屋等の千種川西岸に所領を与えられている。
 
位置図と赤色立体図




鍋子城跡赤色立体図 (ひなたJISより)


アクセス






城山東山麓の川に面する県道沿いに擁壁を利用した階段に鳥居がある。
これが登城口になる。ここから登ればすぐである。




▲途中から北方に有年・八幡山城が見える



 



 途中大師堂を横切り岩場に上り詰めると、鍋子城の水の手であったと思われる岩の井戸がある。かつて大瀧権現として祀られていた。ここから岩場となり左にすすむとお堂があり、その上部あたりから削平地が現れる。冬場は落ち葉に覆われているが、頂上まですぐである



 







▲頂上にある主郭(本丸)跡




▲南に尼子山城(相生市)が見える。
 

 
 見どころは、西斜面の中腹。大きくえぐられた堀切や土塁跡。3年前初めて訪れたときは西の谷筋から登り、この土塁と堀切に圧倒されたものです。




▲大きくえぐられた堀切と土塁




▲虎口の石垣跡



雑 感
 
 数ある播磨の城跡の中で最も登城に時間がかからない山城です。それは、東斜面の泉の出る場所が大滝権現として祀られ、参拝の階段が敷かれたことによって、急な斜面も簡単に登れるようになったからです。現在は放置され、足場がやや危険な状態となりつつあります。

 本来ならば、武将たちが行き来した道、西の谷からつづく大手道を辿るのもよいのですが、登り口付近までは砕石工場のダンプの往来がひんぱんで登る場合は注意が必要です。 
 この鍋子城は、別名大鷹山城、谷口城、中山城ともいわれるが、『赤松播備作城記』には北方にある八幡山城(有年山城)のことを大鷹山城としている。つまり大鷹山城は二つ存在しています。

 その理由を日本城郭大系では3年間鍋子城にいた戸田(富田)氏が八幡山に移ったその山に、前にいた鍋子城と同じ山名の大鷹山と名付けたのではないかと推測しているが、なんとも言えない。『播磨鑑』に小鷹山(城)のことが記されているが、大鷲に対しての小鷹という塚のある山はどこにあるのだろうか。
 
 歴史に名を留めなかった鍋子城、混乱させる二つの大鷲山。そんな鍋子城ですが、最近の調査でわかってきたことがあります。戦国末期、この有年の地は毛利方に与していた宇喜多の支配地であり、羽柴秀吉が宇喜多攻略の足掛かりとして宇喜多支配下の八幡山城を北に見通せるこの鍋子城を奪取し、付城として利用したのではないかという説が浮上しています。土塁・虎口の造りなどは、織田方の手法ではないかと分析しています


参考文献
『日本城郭大系』、『近畿の城郭 Ⅱ』


【関連】
有年 八幡山城

◆城郭一覧アドレス

戦時中の一こま 日露戦争

2020-03-05 10:52:44 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧】926件(2011.6.26~2019.10.31)



明治38年(1905)日露戦争において戦死された畑中直吉氏(宍粟市山崎町)の遺影




   墓には「故陸軍歩兵上等兵畑中直吉君碑」とある。明治38年3月10日、日露戦争において奉天城に向け進攻中交戦被弾し、野戦病院で死亡(21歳)。武功録には、「血染めの命令書を捧ぐ」と題して、命を賭して旅団長命令書を届けたことが記されている。3月10日付けで国の賞勲局総裁から金鵄(きんし)勲章が授与された。

   その後、同年6月6日町葬が行われ、兵庫県知事服部一三、宍粟郡長神原清太郎の弔辞が今に残る。明治38年10月に町民有志により碑が建てられ、その後、平成19年に改修される。







 地域の取材で、偶然尋ねた方が元横須自治会長さんで古墳のことと古墳上に建てられている墓について興味深いお話を聞くことができ、数日後、その墓の遺族の方に連絡いただき遺族の方のお話を聞き、また関係書類を見せていただきました。









 その後、日清・日露・太平洋戦争についての記事や出征・戦死者について、「山崎町史」を見るが、巻末の年表に、「日露戦争に山崎町からの戦死者計51人」と書かれていること以外、町村合併の際の資料散逸などの理由でまったく触れられてはいなく残念です。