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感状山城跡1 相生市矢野町瓜生・森
感状山城(かんじょうさんじょう)の山裾には羅漢(らかん)の里があります。渓谷の岩屋の奥に羅漢石仏が祀られていることから古くから「瓜生(うりゆう)の羅漢さん」と呼ばれ親しまれてきました。春は桜、初夏の新緑、夏の川遊びとキャンプ、秋の紅葉と、深山幽谷を味わえ、四季を通じて人気のある観光スポットです。 この渓谷から東に位置する感状山城跡への登山道が整備されています。
この感状山城跡は、中世の典型的な山城で、頂上からの展望と石垣群のすばらしさは、山城ファンならずともその魅力に引き付けられること間違いないと思います。
▼南麓から山城を望む
▼南からの鳥瞰 by Google
▼赤松氏の主な山城の配置図
感状山城跡(瓜生城)のこと
場所は、相生市矢野町瓜生・森。矢野という地名は、中世の平安末期に成立した矢野荘という荘園の遺称で、赤穂郡に属し、荘園は現在の相生市の全域にわたっていました。南の那波浦(なばのうら:相生湾)は年貢の積み出し港として栄えていました。
感状山城は鎌倉期~戦国末期の山城で、感状山(301m)山頂に築かれました。一説に鎌倉時代にこの地在住の瓜生左衛門尉(うりゆうさえもんのじょう)によって築城されたと伝えられ、瓜生城(うりゆうじょう)ともいわれています。
また赤松円心の三男赤松則祐(のりすけ)が築城し、建武3年(1336)新田義貞軍の侵攻に対し、赤松円心の白旗山城に連携して、この城に立てこもり防戦し、次の更なる大軍の攻めに、城を去り白旗城に移り父赤松則村(円心)を助け、新田軍の侵攻を防ぎ、足利尊氏が九州で勢力を回復し東に向かうと、則祐は先陣に加わり京に攻め入ったとあります。(太平記)
そして、天下統一後則祐は、将軍足利尊氏からその戦功により※感状が与えられたことによりこの城が「感状山城」と呼ばれるようになったと伝えられています。(岡城記)
※感状:いまでいう表彰のことで、鎌倉期以降に主に軍事面に手柄のあったものに対して出された。
この山城は三濃山(みのうさん)から南に続く峰の感状山の頂上を中心に南北約1kmに渡って築かれた自然の要害で、居館と考えられる曲輪(くるわ)群と南端削平地の出城に相当する曲輪からなっています。城郭の構成は、連郭式、階郭式の縄張りの典型的な戦国山城の造りで、曲輪は総石垣、削平地には建物跡と考えられる礎石の跡が随所に残されています。平成8年3月28日に国指定史跡となっています。
アクセス
矢野地区に入ると案内板があり、左の羅漢の里方面に向かいます。羅漢の里に案内板がありますが、目印は水車小屋。その右横の谷川沿いに進みます
▼ 愛らしい案山子がお出迎え
▼感状山城跡登山口
山道をしばらく進むと、案内板があり、直進すると羅漢石仏、右の山手に進むと感状山城跡に至ります。ここから山城まで650mで所要時間40分ほどになります。
遊歩道は登りやすくジグザクコースになっていて、要所の案内板が誘導してくれます。
急な石階段を登っていくと、ごつごつとした岩場に近づきます。その岩場は物見岩といわれ、そこから南方の景色が、一望できます。
次に進むと南斜面一帯に岩肌が露出し、足場がやや不安定ですが、歩くほどに視野が広がってきます。(ここでは、ステッキが役立ちます。)
行く手に目を見張る石垣が現れました。南曲輪(群)です。この曲輪からの展望は格別です
次に小さめの棚状の南曲輪のいくつかを抜けると、広い南Ⅱ曲輪があり、続きに二の丸(北Ⅱ曲輪)、本丸(Ⅰ曲輪)と直線的に続きます。
本丸は南北33m、東西16mの大広間。周りは高さ2mの石垣で覆われています。その石垣群のすばらしさは山城では播磨随一ではないでしょうか。
築城当時、頂上にそびえる総石垣の御殿を麓の里村から見上げると、言い知れぬ威圧感を受けたにちがいありません。
その広々とした本丸は、東に続く山々が見通せる絶景の地にあり、東隣りの山頂(権現山)天狗岩と左に伸びる高巌山の突き出た巨岩の景色が絵になっています。
▼本丸からの展望
▼東に見えるのは高巌山(たかいわやま) 高巌山の右の権現山と天狗岩 山麓に盤座(いわくら)神社がある。
▼南に相生湾が見える
➡感状山城跡(その2) につづく
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