郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 有年・八幡山城跡

2020-03-06 16:13:42 | 城跡巡り
【閲覧】592件(2019.2.7~2019.10.31)




▲八幡山城全景(南から) 城の南麓には千種川が大きく蛇行する



▲千種川の東岸(有年橋東詰)から望む



有年・八幡城のこと  兵庫県赤穂市東有年

 有年・八幡山城(別名、有年城・鷹山城)は標高220mの大鷲山の頂上に本丸(東西25m南北14m)があり、曲輪、土塁、堀切、井戸等が残され戦国期の特徴を有する城跡である。
 築城の時期は不明である。城主は本郷直頼(赤松円心の長男範資の三男)が暦応年中(1338~42)佐用郡船曳庄よりこの城に在城し、以後富田(戸田)氏、小田氏、小河氏の名が伝わっている。
 戦国末期天正6年(1578)宇喜多直家のとき、この城や駒山城(上郡町)が上月城攻めの軍事拠点としたと考えられ、八幡山城には宇喜多家臣の明石飛騨守を配したと伝わる。


戦国末期の宇喜多直家の動き

 天正3年(1575)宇喜多直家は主君であった浦上宗景の天神山城(和気町)を落とし、赤穂郡・佐用郡・備前は宇喜多の支配地となっていた。天正5年(1587)秀吉の中国攻めの時、宇喜多氏は毛利側につき、毛利の尖兵となり羽柴軍の備前侵攻を阻止するべく秀吉方の赤松広英の龍野や赤松則房の置塩城(夢前町)にまで侵入し交戦している。

 天正6年(1588)7月毛利方の小早川隆景・吉川元春が尼子勝久・山中鹿介が守る上月城を陥れた後、八幡山城の北西にある黒沢山光明寺跡に陣替している。宇喜多は上月落城後まもなく、織田方に寝返えった。その後、佐用郡・赤穂郡を織田信長より安堵されている。

 『諸国廃城考』(江戸中期)には「八幡山城 明石飛騨守此城に居る。天正六年三月、吉川元春、小早川隆景、上月城を攻める時、宇喜多直家存る旨有て病と称し明石長船以下差下しけるが、上月落去の後直家彼表へ打出、当城にて両川を饗応に託して内果さんとするを飛騨守より密に告けければ、両将兵を引てぞ帰りける。」とある。

 『信長公記』(巻11)には「(天正六年)五月廿四日 竹中半兵衛申上候之子細ㇵ備前内八幡山之城主 御身方仕候由申越候被成」とあり毛利が上月城を取り巻いている最中に、竹中半兵衛が信長に八幡山の城主が味方になった旨を報告しており、宇喜多は毛利方として出兵や諸城を軍事拠点として協力しながらも、織田方に寝返りの意志を固めつつ、そのチャンスを窺っていたと考えられる。


参考:『日本城郭大系』、『上月合戦~織田と毛利の争奪戦~』、『近畿の城郭Ⅲ』



アクセス


▲位置図


赤色立体図 (ひなたGISより)


(案内パンフより)


有年の公民館に駐車できます。


 
▲神社の鳥居


まずは神社の鳥居をくぐって、八幡神社を目指す。所要時間は約30分から40分。


 
▲八幡神社



八幡神社の裏手に城山に登る道がつづく。

 
 


大きな岩が立ちはだかる。岩の隙間を抜けると、眼下がひろがる。



▲城山の途中から南を望む 右手前の山に鍋子城跡がある



鉄塔のあたりから曲輪跡が見られる。登り切った頂上に主郭(本丸)がある。




▲本丸(主郭)




▲城の東方面 千種川が城の東麓に南北に流れる
※江戸期を通じて橋はなく、川待ちをする旅人の宿場町として「有年宿」が栄えた。



▲右(東)方面  尾根筋には曲輪跡がつづく


    
▲左(西)方面 穏やかに曲輪跡がつづく  ▲大きな謎の穴がいくつかある 





▲西(西有年)方面 古くは旧山陽道があり上郡町の船坂峠を越えると備前国に至る


□ 有年地区の山城跡


 ※赤穂市教育委員会作成の「有年の歴史文化」の図面に朱色の書き込みを加えている。




▲南東に上図にある鴾ケ堂城跡展望台が見える(望遠)




雑 感

 何の予備知識をもたない8、9年前にこの八幡山城を登城しようと思い、地元の方に聞いたところ、あの山には何もありませんよと言われて、神社の裏の尾根筋まで登りながら諦めて帰りました。そのあと探索は後回しになっていましたが、その後、本やネットで紹介されるようになり何回か登城しています。

 数年前より備前南部方面にも足を運ぶようになり、宇喜多直家の誕生地と伝わる備前砥石城(瀬戸内市)に訪れて以来、宇喜多一族に興味を持ち始めています。
 歴史上の人物によく使われる梟雄(きょうゆう)という言葉を知ったのもこの人からだったように思います。宇喜多氏も歴史小説など読み物で悪人として描かれることが多いですが、最近の研究でそうではない一面が浮上し名誉回復途上というところでしょうか。
 このあと八幡山城周辺の鍋子城、後藤陣、黒沢山光明寺陣そして宇喜多氏ゆかりの備前の諸城もいずれ紹介していきたいと思っています。




【関連】
鍋子城跡
駒山城跡
上月城跡

◆城郭一覧アドレス


戦時中の一こま 青島陥落祝賀

2020-03-06 10:22:17 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧】1032件(2011.6.8~2019.10.31)



▼大正3年(1914)青島陥落祝賀行事 宍粟市山崎町商工会館前通り


「写真で見る郷土史 やまさき」より


   この行列の幟(のぼり)に「イルチス砲台を分捕る・・・」「・・・ルンプラー」とある。イルチス砲台は青島市街にあった3つの砲台の一つ。ルンプラーとはドイツの戦闘機名


時代背景

   日本は日英同盟に基づいて、大正3年(1914)8月23日にドイツ帝国へ宣戦を布告し連合国の一員として参戦し、帝国陸軍はドイツが権益を持つ中華民国山東省の租借地青島を攻略、海軍は南洋諸島を攻略した。

 同年11月7日青島が陥落し、日本中が提灯行列で戦勝を祝った。