【閲覧数】7,736件(2011.12.2~2019.10.31)
▲樹木で覆われた西麓
置塩城跡のこと
置塩(おじお・おきしお)城は、南北朝期から戦国期のもので、場所は、飾磨郡夢前町宮置・糸田(現姫路市夢前町)にあります。夢前川の東岸、置塩山(370m)山頂に築かれ、地元では城山と呼んでいます。本丸のある頂上からは北から南に流れる夢前川流域を見渡すことができ、山陽道も一望のできる要害の地にあります。
その城の歴史は嘉吉の乱(1441)で一時衰退した赤松氏が応仁の乱(1467~77)に乗じて再興し、文明元年(1469)赤松政則(まさのり)が置塩山に城を築き、赤松氏の本城の白旗城を捨てて新しい拠点としたことに始まります。5代目の則房のとき羽柴秀吉の播磨平定に屈して、天正9年(1581)秀吉の命により城割り(廃城)となりました。城の用材は秀吉の姫路城築城に利用され、「との門」は置塩城から移築したという伝承があります。
▼赤松氏系図と置塩城主
▼置塩城出土遺物
山頂の本丸・二の丸・三の丸などの曲輪遺構を確認でき、一部に石垣が残り、瓦の破片も出土しているので、往時は再興赤松氏の本城として、偉容を誇ったであろうことが推測されます。当時の城下町は、南麓の町村集落にあったといわれ、大門・御門・小路という地名をはじめ、赤松小判という金貨の流通や置塩鏡という名鏡があったことが伝わっています。 (参考「角川日本地名辞典」)
※城の読みは、夢前町のころ置塩城を “おきしおじょう”と読んでいたのを、平成18年(2006年3月)に姫路市に編入合併されてのち、現在は“おじおじょう”と読みが修正されています。当時の文書には“小塩”、かなで”おしほ”と書かれている。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
アクセス
登山口には、記念碑と案内・説明板があります。登山を始めると、全長十八丁の表示があり、歩くほどに一丁、二丁の数字表示が出てきます。山城登山ではときおり、丁の字のつく標識を見かけることがあります。丁は長さの単位で町(1町60間約109m)と同じ意味で使われています。ここから頂上まで約40分の道のりです。
最初は、鬱蒼とした木々の間を黙々と歩くことになります。ただ約100mごとの丁の数字だけが、所在を示します。
八丁を越えたところあたりから尾根筋に入り、展望がよくなってきます。
十二丁を過ぎると沢に入り、石垣のようなものが見え始めました。近づくと炭焼窯とあります。
最終地点に削平地があり、これより右の南側に南曲輪群があります。
左に進むと茶室跡があります。茶室跡という名が付いているのは、この場所で茶器の遺跡が発見されたのでしょうか。
少し進むと、大きな案内板があります。この案内板をたよりに本丸、二の丸・三の丸の位置を確認し、本丸へは左右の道がありますが、ここでは左に向かいました。
二の丸周辺に整然とした石垣が残っていました。左に三の丸、次に台所跡、その向こうに二の丸北曲輪群跡があり、引き返して二の丸跡に上ります。二の丸は広く、多くの腰曲輪が取り巻いています。
二の丸跡を降りて右手東の本丸跡に進むと、高い位置に石垣があり、いくつかの曲輪を上ると石垣の一部が見られ、そこを上り切ると本丸です。
本丸は、置塩山のもっとも高い位置にあり、景色は格別です。姫路飾磨方面に海が見えます。赤松一族の山城のほとんどが内陸部にありますが、第二の本城は姫路北約10kmで海の見える山城です。ブルーシートは、発掘の後処理でしょうか。
▲南方を望む
▲南につづく街道筋
▲男鹿島が見える
▲飾磨港の望遠
▲山頂より北を望む
▲本丸跡の発掘跡
帰りは、元来た登山道を避け、大手門への道を通ることにし、草の生い茂った細い道をかき分けながら進むと西曲輪群が次々と続き、急坂に設けられた細いジグザグの山道を右に左に降りていきました。
降りたところが、西山麓の車道でした。道を少し南下し、櫃蔵(ひつくら)神社前を通り元の登山口に戻りました。
▲下山の出口
▲櫃蔵神社
雑 感
一度は断絶した赤松の悲願はお家再興。その第二の本城として置塩城を築城。山城としての規模はかなりのもので、東・西・南と三方に広がる多くの曲輪群は、守りと居住空間を考えた城づくりを感じさせます。姫路を中心に播磨北部の但馬の山名氏、備前の松田氏と対峙し、かつての播磨の地の奪還を求めて、後期赤松家は初代城主政則から五代則房までの約百年、戦国の激流にさらされることになります。
発掘調査では、赤松氏の本城として、職豊時代の手がつけられていないことが指摘されていて、赤松の播磨の城造りの比較研究に役立つことでしょう。
【関連】
➡置塩城(2)
◆城郭一覧アドレス