郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 置塩城(1)

2020-03-18 09:44:22 | 城跡巡り
【閲覧数】7,736件(2011.12.2~2019.10.31)






▲樹木で覆われた西麓




置塩城跡のこと  

 置塩(おじお・おきしお)は、南北朝期から戦国期のもので、場所は、飾磨郡夢前町宮置・糸田(現姫路市夢前町)にあります。夢前川の東岸、置塩山(370m)山頂に築かれ、地元では城山と呼んでいます。本丸のある頂上からは北から南に流れる夢前川流域を見渡すことができ、山陽道も一望のできる要害の地にあります。

 その城の歴史は嘉吉の乱(1441)で一時衰退した赤松氏が応仁の乱(1467~77)に乗じて再興し、文明元年(1469)赤松政則(まさのり)が置塩山に城を築き、赤松氏の本城の白旗城を捨てて新しい拠点としたことに始まります。5代目の則房のとき羽柴秀吉の播磨平定に屈して、天正9年(1581)秀吉の命により城割り(廃城)となりました。城の用材は秀吉の姫路城築城に利用され、「との門」は置塩城から移築したという伝承があります。



▼赤松氏系図と置塩城主



▼置塩城出土遺物

 



 山頂の本丸・二の丸・三の丸などの曲輪遺構を確認でき、一部に石垣が残り、瓦の破片も出土しているので、往時は再興赤松氏の本城として、偉容を誇ったであろうことが推測されます。当時の城下町は、南麓の町村集落にあったといわれ、大門・御門・小路という地名をはじめ、赤松小判という金貨の流通や置塩鏡という名鏡があったことが伝わっています。 (参考「角川日本地名辞典」)







※城の読みは、夢前町のころ置塩城を “おきしおじょう”と読んでいたのを、平成18年(2006年3月)に姫路市に編入合併されてのち、現在は“おじおじょう”と読みが修正されています。当時の文書には“小塩”、かなで”おしほ”と書かれている。



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アクセス



 登山口には、記念碑と案内・説明板があります。登山を始めると、全長十八丁の表示があり、歩くほどに一丁、二丁の数字表示が出てきます。山城登山ではときおり、丁の字のつく標識を見かけることがあります。丁は長さの単位で町(1町60間約109m)と同じ意味で使われています。ここから頂上まで約40分の道のりです。






 最初は、鬱蒼とした木々の間を黙々と歩くことになります。ただ約100mごとの丁の数字だけが、所在を示します。 









八丁を越えたところあたりから尾根筋に入り、展望がよくなってきます。








十二丁を過ぎると沢に入り、石垣のようなものが見え始めました。近づくと炭焼窯とあります。






 最終地点に削平地があり、これより右の南側に南曲輪群があります。



 



 左に進むと茶室跡があります。茶室跡という名が付いているのは、この場所で茶器の遺跡が発見されたのでしょうか。






少し進むと、大きな案内板があります。この案内板をたよりに本丸、二の丸・三の丸の位置を確認し、本丸へは左右の道がありますが、ここでは左に向かいました。






 二の丸周辺に整然とした石垣が残っていました。左に三の丸、次に台所跡、その向こうに二の丸北曲輪群跡があり、引き返して二の丸跡に上ります。二の丸は広く、多くの腰曲輪が取り巻いています。




   



 






 二の丸跡を降りて右手東の本丸跡に進むと、高い位置に石垣があり、いくつかの曲輪を上ると石垣の一部が見られ、そこを上り切ると本丸です。



 






 本丸は、置塩山のもっとも高い位置にあり、景色は格別です。姫路飾磨方面に海が見えます。赤松一族の山城のほとんどが内陸部にありますが、第二の本城は姫路北約10kmで海の見える山城です。ブルーシートは、発掘の後処理でしょうか。


 

▲南方を望む                      




▲南につづく街道筋

 

▲男鹿島が見える                     




▲飾磨港の望遠

 

▲山頂より北を望む                  



▲本丸跡の発掘跡

 

 帰りは、元来た登山道を避け、大手門への道を通ることにし、草の生い茂った細い道をかき分けながら進むと西曲輪群が次々と続き、急坂に設けられた細いジグザグの山道を右に左に降りていきました。



 




 降りたところが、西山麓の車道でした。道を少し南下し、櫃蔵(ひつくら)神社前を通り元の登山口に戻りました。



▲下山の出口                       



▲櫃蔵神社




雑 感

 一度は断絶した赤松の悲願はお家再興。その第二の本城として置塩城を築城。山城としての規模はかなりのもので、東・西・南と三方に広がる多くの曲輪群は、守りと居住空間を考えた城づくりを感じさせます。姫路を中心に播磨北部の但馬の山名氏、備前の松田氏と対峙し、かつての播磨の地の奪還を求めて、後期赤松家は初代城主政則から五代則房までの約百年、戦国の激流にさらされることになります。 

 発掘調査では、赤松氏の本城として、職豊時代の手がつけられていないことが指摘されていて、赤松の播磨の城造りの比較研究に役立つことでしょう。


【関連】
➡置塩城(2)

◆城郭一覧アドレス


地域の行事・祭り ① 安賀 チャンチャコ踊り

2020-03-18 09:17:31 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】501件(2010.3.5~2019.10.31)



チャンチャコ踊り   宍粟市波賀町安賀 波賀八幡神社






 チャンチャコ踊りの歴史は、古く室町時代までさかのぼるといわれている。奥播磨一帯にかけての山深い村まで訪れた山伏・聖(ひじり)などと呼ばれた人々がこの踊りを持ち込み、災害の退散や雨乞いなどの信仰を説いたといわれ、今でもこの地一帯に踊りが残っている。


(写真・文 「追憶 ふるさと宍粟写真集」より)

山河と地名は面白い

2020-03-18 08:49:54 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
【閲覧数】3,250件(2012.9.21~2019.10.31)




 平成21年(2009)10月より地名の由来のコミュニティを立ち上げ、約1年ほどかけて紹介しました。それ以来多くの方に見ていただいていることは、郷土の歴史に対する関心の現れで、そのお役にたっているとすれば嬉しく思います。

 今回、最近感じていることや、平成の合併の新市町名のことについての思いを書いてみました。



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山河と地名は面白い


 地名は歴史を物語るということを、地名のゆらいを探っているうちに少しずつ理解できるようになった。そうなってくると、知らない町に出かけたとき、まず最初に目につくのは山河と地名である。

 そして大きな寺や神社のそばを通ったとき、その名称や由緒を知りたくなり、覗いてみたくなる。また珍しい地名に出会ったとき、メモや記憶に留め、あとで調べる習慣が身についてきた。後日、その由来を探って、少しわかった気になり、その地域への愛着や親しみが生まれ、現地の人とのはじめての会話が旧知の間柄のようにはずむことがある。それは、通りすがりのよそ者ではなく、仲間として受け入れて頂けるせいなのかもしれない。



新市名の命名に疑問


 古代から伝わる歴史ある多くの地名が平成の大合併によって変容していることを最近気づかされた。地名は次世代につなぐ小さな文化財であり、まして、その代表格の市町の命名については、よくよく考える必要があった。引き継がれてきた地名の歴史を知らないで、新市町名を思いつきで名付けるのは論外で、それは地名遺産を踏みにじることにつながるからだ。



市町村の数が激減



 『こうして新地名は誕生した!』楠原佑介著によると、120年前の明治の中期には、日本には7万余りの村や町があったが、それが明治22年(1889)の町村大合併、昭和28年(1953)年からの町村合併促進法による合併、そして今回の平成の大合併を経て、なんと40分の1の1,700にまで減少したという。   ※平成22年(2010)現在 総数1727(市786、町 757、村184)

 こういった自治体合理化政策は欧米社会ではなされていない。ちなみに、十数年前のデータだが、フランスでは、基礎自治体数は36,000余り、アメリカとドイツは16,000代、小さな国土のイギリスですら12,000、日本より少し小さなイタリアでも8,000の村や町がある。日本の町村の合理化は無茶苦茶で愚策と著者はいいきっている。他国の実態は知らなかったが、合併は先進国では異例のことだという。



新市町名の評価基準



 地名に造詣の深い著者は、平成の合併の263新市町名を紹介し、2つの基準「合併区画全域を過不足なく表現したもの」と「より古い時代から使われたもの」により、上から順に◎〇 △ ✖で評価を下している。

  最下位のの評価は半数近くの123市町村もあり、その中で特に問題をもつ23の市町村について著書に詳しく論じている。逆に◎については、1割弱ほどのたった15市町にしか与えていない。では我が宍粟市はどうだったのか。

 その前に、具体的な市町名は出さないが、何がよくて何が悪かったかという点をまとめると、次のようになる。

◎ よい地名

古代から伝わる郡名を継承する地名

✖よくない地名

・僭  称   国名(日本)、旧国名、県名、郡、市等の広域の地名を利用する。 

      例えば宍粟市が、「西兵庫市」・「西播磨市」と名づけるようなこと

・借用・流用 合併区域内にある有名な地名(島・海・山河名称を含む)を使う。

      例えば宍粟市が最高峰の氷ノ山にちなんで、「氷ノ山市」と名づけるようなこと。
  

・盗  用   近くの有名都市名を使う。京○○市

・かな書き  宍粟市を「しそう市」とかな書きとする。

・合  成   合併する町の頭や一部 を並べる。
      例えば、山崎町・一宮町・波賀町・千種町との合併で「山一波千市」と名づけるようなこと

・上記+方位・位置区分 東・西・南・北・上・下

 ちなみに宍粟市は、古代郡名継承ということで著者が選んだ数少ない15の◎のうちの一つにはいっている。 



新市町をたどる旅へ



 人名は百年で終わりになるが、市町名はそうはいかない。以上のことを頭に入れて、これから訪れる秋の夜長、机上に新しい都道府県図を置き、新市町名称をたどる旅をお勧めしたい。


2012.9.21