郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 置塩城(2)

2020-03-20 17:13:58 | 城跡巡り
【閲覧数】2,167 件(2014.10.3~2019.10.31)                              




置塩城最期の当主赤松則房のこと

                                                                 
 
 置塩城は再興した赤松家が本拠とした城である。赤松政則が文明元年(1469)に築城したといわれ、そのあと義村・満政・義祐・則房と五代で約百年続いた
 
 
▼赤松氏略系図 





置塩城最期の当主赤松則房の時代
 
 戦国末期、赤松則房は再興した赤松総領家最期の当主であったが、播磨はかつての赤松一族及び家臣であった別所、小寺、龍野赤松、浦上などが自立し、もはや赤松は旧守護職としての権威は失墜し、求心力はなく一領主の存在となっていた。
 
 天正3年(1575)に突如近くの恒屋城主恒屋氏(香寺町)らの夜襲を受けるという赤松総領家としてはショッキングな事件が起きた。赤松則房は、諸衆を集め恒屋氏を討ち果たし、総領家としてなんとか面目は保った。
 


   ▼置塩城周辺図                                                 
 
 


 
 その後、織田の播磨進出の動きに播磨の武将の多くのは織田方に恭順していたが、三木城主別所氏が信長に反旗を翻すと東播磨の武将がそれに同調した。
 

 
赤松則房のその後
 
 天正5年(1577)羽柴秀吉の播磨侵攻時に赤松則房はすぐさま秀吉に従い、別所氏・宇野氏と戦っている。その後、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦い、四国征伐に出陣している。
 天正13年(1585)阿波徳島の板野郡内に一万石の領地を得たというが、阿波での足どりは不明である。
 

 
『上月文書』から見える戦乱の世の赤松氏と上月氏
 
  『上月文書』が阿波徳島の三好郡東みよし町(三加茂町)の井口(いのくち)家に残されていた。
   その文書は戦乱の世を記録した重要なもので30通ほどある。その中に嘉吉の乱によって滅亡した赤松を再興するきっかけとなった南朝の神璽(しんじ)の奪回と主家の再興を記録した「南方御退治条々」をはじめ、応仁の乱で上月氏が赤松家臣として東軍細川勝元につき西軍山名氏と戦い、そのときの細川氏から受けた軍勢催促状や感状が多く残されている。さらに総領家赤松家の政則・則房、そして徳島藩主蜂須賀家の書簡等が残されている。
 


 ▼細川勝元 感状    『上月文書』徳島県立文書館蔵
 
 


▼赤松則房 感状  『上月文書』徳島県立文書館蔵

 
 

 赤松再興に尽くした上月氏は、置塩城主松政則に仕えた。置塩城が夜襲にあった際、周辺から寄せられた見舞い等の書状が12通残されている。郡書系図部集の「上月系図」によれば上月秀盛が、本田と名を変え、阿波へ移住したという。『上月文書』にはそれを示す本田姓の宛ての文書が3つあり、その一つが文禄2年(1593)宇喜多忠家から本田五郎右衛門宛の書簡で、そこには文禄の朝鮮出兵で宇喜多・本田が手傷を負ったことが記されている。他の2通は徳島二代藩主蜂須賀至鎮、三代藩主忠英からの書簡で、その内容は見舞いに対する答礼である。四代藩主光隆に至っては宛名が上月姓に戻っている。
 
 上月氏は置塩城主赤松則房が阿波の移封に伴い行動を共にしたと思われるが、何らかの理由でそれができなくなり蜂須賀家に仕えたのであろうか。
 『上月文書』は赤松一家上月氏のルーツを示す文書であるとともに、赤松の再興と応仁の乱の戦国の様子を記した重要な書類で、なぜ井口家に残されたのかその経緯はわかっていない。それを大切に保持してきた徳島藩士の井口家は播磨時代から上月氏と密接な繋がりがあったと推測される。
 

参考:『上月文書に見る戦乱の世』徳島県立文書館、『web 落穂ひろい』ふーむ氏
 
 

雑 感
 

 以前庄山城跡(姫路市)を探索し、西山麓にある小川村が文明9年(1477)・文明13年(1481)上月満吉の知行地であることを知った。その根拠は『上月文書』からだということのみが記憶に残っていた。
 その後、徳島県立文書館の『上月文書』の情報を得、上月氏や赤松氏の阿波徳島での動向が知り得たことが収穫であった。


【関連】
➡置塩城(1)
 
◆城郭一覧アドレス

地域の行事・祭り ④深河谷

2020-03-20 10:47:49 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】452 件(2010.3.11~2019.10.31)                                 



一宮町深河谷(ふかだに) 池王神社奉納獅子舞



【奉納獅子舞】

 古代より受け継がれてきた獅子舞は、悪魔払い・家内安全・五穀豊穣・交通安全を祈願し、またそのことに感謝を込めて、神社に奉納される行事。戦時中は一時途絶えていたが、戦後凘次復活し、各地の祭りに奉納されるようになった。


(写真・文 「追憶 ふるさと宍粟写真集」より)

ぶらりふるさと地名考「山崎」 

2020-03-20 10:21:08 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)

地名から探る山崎(町)の歴史
 
 山崎という地名は山端の突き出したところという地形によるものです。全国には多くの同名の地名が存在しています。江戸時代に編さんされた地誌『宍粟郡誌』(片岡醇徳著・宝永五年(1708)によれば「是は一郡の都会なり郡府と云うなるべし」とあり、四方の谷の要で交易の便がよい場所として、山崎は江戸時代を通じ宍粟郡の最も栄えた町となりました。それを感じることができる写真が残されています。それは明治後期最上山から南に向かって撮ったものです。そこには城下町の町屋の屋根が東西に連なり、写真中央の山崎小学校の向こうには城下平野の田園が広がっています。
この山崎町が形成されていった中世・近世の時代を残された地名から探っていきたいと思います。
 



 
▲最上山より南の展望 中央に見えるのが山崎小学校の運動場
 

 

篠ノ丸周辺に残された中世の地名

 山崎町の門前と横須にいくつか目を引く地名があります。それは篠ノ丸(通称一本松)周辺地で、門前の「古屋敷」、横須の「屋敷」、「上屋敷」そして篠ノ丸頂上の「笹(篠)ノ丸」です。篠ノ丸頂上とその麓に残されたこれらの地名こそが、篠ノ丸城を拠点に宍粟郡を治めた宇野氏ゆかりの地名です。

   これら屋敷を含んだ地名は、篠ノ丸城の大手・搦手を守るための屋敷と考えられます。山崎八幡神社(門前)の場所が「東大王寺」、神社の境内の西の谷筋が「大王寺」という小字が残っています。大王寺という寺は、史料による裏付けはないものの宇野氏の菩提寺ではなかったかと推測されます。嘉吉元年(1441)に起きた嘉吉の乱(赤松満祐による室町幕府第六代将軍足利義教の殺害)の後に宇野氏が退いた場所に八幡神社が移転し建立されたと考えられます。八幡神社社記によると、応仁元年(1467)に遷座したとあり、そのとき境内のモッコク(推定樹齢六百年)がすでに存在し、以来神木とされました。
 


 
▲門前村字切図(書き込みあり)
 



宍粟藩主池田輝澄による山崎城と城下町造営に関わる地名


 天正8年(1580)宇野氏が羽柴秀吉に滅ぼされた後、龍野城主木下勝俊が宍粟郡を治め、「新町申付」により町への転入を促す施策を打ち出し、当時篠ノ丸南麓には「山崎村」と「山田村」の二つの農村があり、この二つの村を結ぶ一筋の新町が生まれました。
関ヶ原の戦いの後播磨は池田輝政が治め、代官を置きました。
 その後輝政の四男輝澄が元和元年(1615に宍粟藩主となり居城を新町の南の河岸段丘上に定めました。この場所は天文年間、出雲の尼子氏が播磨に侵入し、一時支配したとき砦を築いた地と言われています。山崎城は、大手を北に、北東西の三方に武家屋敷を配し、その北方に町屋敷をつくり、商工業者の居住地としました。武家屋敷と町屋敷の間には外堀を設け、土塁、石垣により厳重な境界を敷いています
 


武家屋敷の地名のゆらい

 武家屋敷には、清(志)水口、江戸町、東桜町、本多町、三軒町、西桜町、六軒町、通り町、中ノ町、松原町がありました。城内は郭内と呼ばれ、明治8年より鹿沢と改称されました。

清水口は武家屋敷東端で、清水の出る場所があった。
江戸町は江戸詰の藩士の屋敷があった。
東桜町は武家屋敷を東西に抜ける道の東方をいう。
本多町は藩主本多の屋敷に面する通りにあることによる。
三軒町は大手道の西の通りで三軒の大屋敷があったことよる。
西桜町は武家屋敷を東西に抜ける道の西方をいう。
六軒町は南北の道を挟んで六軒の屋敷があったことによる。
通り町は武家屋敷内の土橋門と鶴木門を結ぶ道で、庶民の通行が許され、城下方面の人々の通行が多く、城下町の入り口にあたる西新町・本町が最も賑わった所と言われている。
中ノ町は「通り町」と「松原町」との間にある町からによる。
松原町は武家屋敷の西端にある。
 


 

▲「天保山崎藩之図」に書き入れ
 


町屋の地名由来

 城下の町屋は、時代とともに発展・整備され、西新町、本町、山田町、福原町、北魚町、寺町、紺屋町、伊沢町、富土野町が生まれ、元禄17年(1704)の大火の後、出水町が加わり、十町になりました。現在の字表示山崎町山崎番地がこの十町にあたります。
 
西新町は宍粟藩主池田輝澄の時代、佐用郡が加増された時にできた町。佐用郡から多く人が移り住んだため一時佐用町(さよまち)と呼ばれた。
本町は町の中心地で始め中ノ町と呼ばれていたが、本町と改称。
山田町は山田村から発展した町で、本町の東隣りの町。
福原町は、当初高野町と呼ばれていたが、藩主池田輝澄の家臣福原小左衛門がこの場所に居住後に、いつしか町の名となる。
北魚町は名の通りの職人町。なお西魚町が西新町内の土橋(どばし)御門前にあることが延宝8年(1678)頃の山崎構図に記載があり、魚町が北・西として区別して存在していた。
寺町は名の通り。大雲寺が建立された当初は大雲寺町と呼ばれた。
紺屋町は染物業の職人町。
伊沢町はこの町の先が伊沢谷に通ずることによる。籠野町(かごのまち)ともいい、一角に茶町(ちゃまち)と呼ばれた一角があった。 
出水町は元禄17年(1704)の大火の後、区画整理されできた町で、防火用水などの対策がなされたものか。
富土野町は一宮の富土野鉱山に通ずる道筋にあたることによるか。
その他の関連地名
上ノ丁は西新町の裏通りにあり、歩行町(かちまち)であった。現在の元山崎。
田町は城下町形成の際に、町内居住の農民を、現在の「山田」の地へ移転させ農人町ができた。地名は田んぼの中にできた町から。



 
 
 


参考:『山崎町史』、『宍粟郡誌』、『角川日本地名大辞典』、『兵庫県小字名集』
 
※この記事は山崎郷土会報NO.133 令和元年8.25付より転載しています。