郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 城山城 ① 

2020-03-09 09:43:57 | 城跡巡り
【閲覧】6,689件(2012.1.31~2019.10.31)




▼城山城鳥瞰図                 





▼城山城を北から鳥瞰  by google






城山城跡   たつの市新宮町馬立・下野田・市野保、揖西町中垣内

 城山城(きのやまじょう)は、亀山(きのやま:458m)山上に築かれた山城で、奈良時代の古代山城(朝鮮式山城)と南北朝時代の山城が共存しています。
 
 城山城が古代山城であるという理由は、門の築石(つきいし)、礎石(そせき)建物跡、石塁が朝鮮式のものであることからいわれています。
 
◆ 門の築石(唐居敷)は、国内では同型のものが山口県の古代山城である石城山(いわきやま)だけにしかない大きな門の礎石です。

◆ 礎石建物跡は、平たく加工された礎石が整然と並べられ、その配置から古代山城と判断されています。

◆ 西の谷に築かれた40mを越える野面(のづら)積みの石塁は、古代のものとされる。
 
 古代山城は、朝鮮の百済(くだら・ひゃくさい)人によって城作りの技術がもたらされ、百済語で城のことを“き”と呼び、城の漢字をその当て字に使いはじめたといいます。
 



▼城山城縄張り図





 古代山城に類似した遺構として、 神籠石(こうごいし)式山城があり、この播磨の城山城をはじめ、総社市の鬼ノ城、備前の大廻(おおめぐり)・小廻(こめぐり)山城、讃岐の城山城(きやましろ)、伊予の永納山城など日本各地で16城発見されています。
 
  そして、14世紀後半に播磨国守護の赤松則祐によりその古代山城上に、大規模な中世の山城が築かれました。

 嘉吉の乱(1441)で赤松の惣領であった赤松満祐が室町幕府第六代将軍足利義教(よしのり)を謀殺し、満祐は播磨に戻り、書写の坂本城を中心に幕府軍と戦うも、次々と各地で敗戦し、ついに坂本城を捨て、5~6百人の軍勢を連れて城山城に立てこもり応戦しましたが、あえなく自害しました。城山城の中心部には三つの形状の異なる墓が並び、三基墓(さんきばか)と呼ばれています。このあたりで赤松一族69人が自害したと伝えられています。
 
 

アクセス (山上の主郭まで)
 
 城山城は亀の山(458m)山上周辺に築かれた山城で、スケールが大きく、広範囲に遺跡が残り、主なところを見て回るのに、相当の時間がかかります。東山麓のたつの市新宮町側からの比高差が約400mもある急峻な地形となっています。山の尾根筋が、揖西町と新宮町の境界線になっています
 
 城山城跡へは、いくつかの登山ルートがありますが、ここでは、下野田から兵糧道(ひょうろうみち)を登り、下山道として馬立に至るルートを紹介します。
 
  栗栖川に架かった下野田橋を渡ると、案内表示があり、左興聖寺、右城山城とあります。
 


▼下野田橋を渡って右に進む                                      ▼左は赤松氏の菩提寺と伝える興聖寺
 




右に回ると、登山出発点に至り、ここからから登っていきます。
 

▼ここが登山口                                   ▼大手とある
 



ここからは1.3kmとあります。少し歩くと、左手に石垣が見えます。



 
▼落ち葉の積もった道をすすむ                                  ▼かなりの斜面をひたすら登ることになります
 




 ロープが掛かったかなり険しい岩場を抜け、山の上部が見え始めたころ、見張り岩に出ます。
見張り岩上からの景色を少し楽しんで、次に進みます。


▼岩場にロープが                                         ▼見張り岩
                           
 

▼町並みと嘴崎の屏風岩のある鶴嘴山(つるはしやま)が見える





 主郭下の案内板のあるこのあたりに、城門が設置されていたと考えられています。ここから、左に少し登ると、主郭に続く尾根があります。ここから重なる山の間から町並みが確認できます。
 


▼主郭近く                                     ▼尾根筋はこの上
 



 ここからもう少しで、主郭(本丸)です。
 


▼主郭の南の尾根筋




 主郭からの南の展望は、山間のため、あまりよくありません。急な崖の下には崩れかけた石垣があります。
 



▼主郭から南方面を望む                             ▼主郭の石垣  
 



主郭の中ほどのぬかるんだ水溜め近くに、三基墓が祀られています。三基墓(さんきばか) とは板碑と五輪塔の水輪と不動明王の石造をいいます。


 
▼三基墓                                     ▼主郭周辺の石垣
 




 ここから礎石建物跡の案内にしたがって、東に進みます。
そこは広い削平地となり、4間×7間の巨大な総柱の礎石が整然と配置されています。その背後には、石垣が張り巡らされています。
この礎石建物跡の東下には数段にわたって大きな郭があります。
 



▼礎石建物跡の案内表示                            ▼礎石群
 




ここから、また主郭に戻り、北部の次の地点に進みます
 


➡城山城跡2につづく

 
城郭一覧アドレス



戦時中の一こま 銃後の守り国防婦人会

2020-03-09 09:20:44 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧】2132件(2011.6.9~2019.10.31)




昭和12年(1937) 菅野国防婦人会 宍粟市山崎町菅野小学校前




「写真で見る郷土史 やまさき」より


 白エプロンにタスキ掛けで出征兵士の送迎、傷痍軍人・遺家族の扶助などにくりだした婦人たち。昭和7年(1932)に大阪築港から満州事変の出兵兵士に湯茶の接待で見送った婦人たちの小さな組織が全国的にふくれあがり、日中戦争・太平洋戦争下の銃後の体制を支えた。