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▼城山城鳥瞰図
▼城山城を北から鳥瞰 by google
城山城跡 たつの市新宮町馬立・下野田・市野保、揖西町中垣内
城山城(きのやまじょう)は、亀山(きのやま:458m)山上に築かれた山城で、奈良時代の古代山城(朝鮮式山城)と南北朝時代の山城が共存しています。
城山城が古代山城であるという理由は、門の築石(つきいし)、礎石(そせき)建物跡、石塁が朝鮮式のものであることからいわれています。
◆ 門の築石(唐居敷)は、国内では同型のものが山口県の古代山城である石城山(いわきやま)だけにしかない大きな門の礎石です。
◆ 礎石建物跡は、平たく加工された礎石が整然と並べられ、その配置から古代山城と判断されています。
◆ 西の谷に築かれた40mを越える野面(のづら)積みの石塁は、古代のものとされる。
古代山城は、朝鮮の百済(くだら・ひゃくさい)人によって城作りの技術がもたらされ、百済語で城のことを“き”と呼び、城の漢字をその当て字に使いはじめたといいます。
▼城山城縄張り図
古代山城に類似した遺構として、 神籠石(こうごいし)式山城があり、この播磨の城山城をはじめ、総社市の鬼ノ城、備前の大廻(おおめぐり)・小廻(こめぐり)山城、讃岐の城山城(きやましろ)、伊予の永納山城など日本各地で16城発見されています。
そして、14世紀後半に播磨国守護の赤松則祐によりその古代山城上に、大規模な中世の山城が築かれました。
嘉吉の乱(1441)で赤松の惣領であった赤松満祐が室町幕府第六代将軍足利義教(よしのり)を謀殺し、満祐は播磨に戻り、書写の坂本城を中心に幕府軍と戦うも、次々と各地で敗戦し、ついに坂本城を捨て、5~6百人の軍勢を連れて城山城に立てこもり応戦しましたが、あえなく自害しました。城山城の中心部には三つの形状の異なる墓が並び、三基墓(さんきばか)と呼ばれています。このあたりで赤松一族69人が自害したと伝えられています。
アクセス (山上の主郭まで)
城山城は亀の山(458m)山上周辺に築かれた山城で、スケールが大きく、広範囲に遺跡が残り、主なところを見て回るのに、相当の時間がかかります。東山麓のたつの市新宮町側からの比高差が約400mもある急峻な地形となっています。山の尾根筋が、揖西町と新宮町の境界線になっています
城山城跡へは、いくつかの登山ルートがありますが、ここでは、下野田から兵糧道(ひょうろうみち)を登り、下山道として馬立に至るルートを紹介します。
栗栖川に架かった下野田橋を渡ると、案内表示があり、左興聖寺、右城山城とあります。
▼下野田橋を渡って右に進む ▼左は赤松氏の菩提寺と伝える興聖寺
右に回ると、登山出発点に至り、ここからから登っていきます。
▼ここが登山口 ▼大手とある
ここからは1.3kmとあります。少し歩くと、左手に石垣が見えます。
▼落ち葉の積もった道をすすむ ▼かなりの斜面をひたすら登ることになります
ロープが掛かったかなり険しい岩場を抜け、山の上部が見え始めたころ、見張り岩に出ます。
見張り岩上からの景色を少し楽しんで、次に進みます。
▼岩場にロープが ▼見張り岩
▼町並みと嘴崎の屏風岩のある鶴嘴山(つるはしやま)が見える
主郭下の案内板のあるこのあたりに、城門が設置されていたと考えられています。ここから、左に少し登ると、主郭に続く尾根があります。ここから重なる山の間から町並みが確認できます。
▼主郭近く ▼尾根筋はこの上
ここからもう少しで、主郭(本丸)です。
▼主郭の南の尾根筋
主郭からの南の展望は、山間のため、あまりよくありません。急な崖の下には崩れかけた石垣があります。
▼主郭から南方面を望む ▼主郭の石垣
主郭の中ほどのぬかるんだ水溜め近くに、三基墓が祀られています。三基墓(さんきばか) とは板碑と五輪塔の水輪と不動明王の石造をいいます。
▼三基墓 ▼主郭周辺の石垣
ここから礎石建物跡の案内にしたがって、東に進みます。
そこは広い削平地となり、4間×7間の巨大な総柱の礎石が整然と配置されています。その背後には、石垣が張り巡らされています。
この礎石建物跡の東下には数段にわたって大きな郭があります。
▼礎石建物跡の案内表示 ▼礎石群
ここから、また主郭に戻り、北部の次の地点に進みます。
➡城山城跡2につづく
◆城郭一覧アドレス