今回は、江戸時代室津街道と呼ばれた室津から山陽道に向かう峠越えの道を紹介します。
室津街道 ~ 室津・山陽道(正条の宿)の道 ~
江戸時代、参勤交代で西国の多くの大名(藩主)が瀬戸内海の海路で室津に寄港し、本陣で暫しの休息をとり、山陽道から東海道あるいは中仙道経由で江戸まで向かった。帰城時もしかり。
今は小さな一漁港の室津だが、古くから海陸の交通の要の地として栄え、江戸時代は室津千軒と呼ばれる繁栄があった。そこには旅人の刹那の交情に名を残した遊女友君と室君(遊女の総称)がいたことが語り継がれている。
▲室津 播州巡覧名所図会 半島の先に番所(湊口番所)がある。
▲室津俯瞰 by Google Earth
▲室津図会にある番所 ここで出入りの船を監視していた
室津街道 ルート
▲慶長播磨国絵図 部分 (海の部分は見やすく着色)
▲室津街道周辺地図
▲国道250号
▲上り口
▲上り口の上部から町を望む
国道250号線の脇に上がり口がある。国道敷設で集落から続いていた道が切り取られたのだろう。この上り口はかなり急だ。
▲群生した竹林の急坂をのぼる
群生した竹林をのぼっていくと、左右に屋敷跡であろうか石垣が続き、道筋の要所ゝに敷石があり、街道の証が残されている。
▲道の右手下に石垣がある。
▲左上に石垣群が見える
室津街道と書かれた木の門が建てられている。近くに茶屋跡と書かれた広い建物跡がある。
この場所で一汗かいた大名一行は茶を振舞われて次の宿を急いだにちがいない。周辺には小さな井戸跡がいくつか残されている。この場所から多くの茶器が出土したという。
▲室津街道と書かれた木門
▲左下に茶屋跡
▲茶屋跡からみた大浦
▲大浦のズーム
▲周辺には井戸跡が残る 今なお水をたたえている。
街道は嫦娥山(じょうがやま)の中腹にあって一定の勾配で歩きやすい。左側斜面上にも石積みや石垣が見られる。
▲ 街道の道は狭いが歩きやすい
先を進むととすれ違いに立ち止まらなくてはならないような細い道となる。このあたりは日本一狭い街道といえるだろう。その先に室津の見納めとなる見晴らしのよい地点にやってきた。
▲播磨灘・室津のビューポイント
さらに少し進むと「鳩が峰」と書かれた案内板がある。そこから左に折れ、下っていく。
降りた場所は明治にできた屋津坂道で、しっかりとした長い石垣があった。そこにあった説明板には室津街道は東200mのところにあったと説明があり、今は私有地のため通れなくなっているようだ。
明治にできた屋津坂の道は悪路だが今でも通行可能だ。
▲山を下ると屋津坂に至る。 ここまで約30分
ここからは屋津坂の道を北に進み、ダイセル工場の敷地に入っていく。
▲室津街道(イメージ)と主な遺跡等
近藤池の北端 ダイセル工場の道脇に丸亀藩京極氏の出迎えの馬場使者場跡がある。そこから河内谷(こうちたに)の馬場村・金剛村・袋尻村を抜け、正条(しょうじょう)の宿に至る。
参勤交代の一行は正条から渡し船で揖保川を渡り、姫路に向かった。
▲近藤池
写真①
▲旧丸亀藩使者場跡 丸亀藩の役人が多くの客人たちを、この使者場跡付近で向かえ、また見送りした。
※万治元年(1658)京極氏が播磨龍野藩から讃岐丸亀藩に入封した。そのとき飛領地として播磨国揖東郡の6村と揖西郡の22村で1万石をもらい受け、石高は龍野藩のときと同じ6万石であった。
写真②
▲馬場(うまば)集落の標榜(左室津、右相生)
写真③
▲金剛山集落「旧丸亀藩高札場跡」
写真④
▲袋尻集落の北、水神社横「丸亀藩使者場跡」
写真⑤
▲「正条の渡し場跡」 明治の初めまで高瀬舟が活躍していた
▲渡し場のあった付近 山陽本線正条鉄橋のやや川下
揖保川町域の北部と南部の年貢格差
文禄年間(1593~1596)に行われた太閤検地は収量評価を2割ゆるめて農民の成長を図った革新的なものであった。
にもかかわらず、播磨では慶長5年(1600)に入国した池田輝政は、入封早々姫路城築城の財源確保に播磨国内の村高・国高の2割高の増税策をしいた。その重い年貢が揖保川町域の南部(京極丸亀藩飛び地)や姫路藩領・赤穂藩領の村々に幕末まで課せられた。相隣する村では、領主の違いによって、なんと200年もの間不平等な年貢が強いられた歴史があったという。『揖保川町史』
雑 感
大河ドラマ「軍師官兵衛」で官兵衛の初恋の人おたつが浦上宗清に嫁した。小寺家と浦上家の同盟をきらった龍野の赤松秀政が、婚礼の日に室山城を襲撃した。
室山城は海に囲まれ、陸路の進入は限られた難攻不落の城であったはずなのだが、いったいどこから進入したのだろうか。
室山城の戦いについては、記録もなく詳しくはわかっていない。中世の戦いについては、主人が家来や同盟関係者に軍勢の催促をしたり、感状等で恩賞を与える記録が各一族に大切に残され、その記録から合戦の内容が分かるが、その室山合戦についての記録は見当たらない。
結婚式の当日の襲撃という相手の不意を付く極秘の動きの中で、どのような攻撃ルートを利用したのか以前から気になっていた。
そのヒントが地元『御津町史』にあった。それは古代において室津や大浦は浦上里に含まれ、現在の浦部がその遺称地とされている。室津は同じ行政区間であったことから、古くからの室津と河内谷の交通路があったことを示唆している。
さらに中世の資料に「室河内」、「むろのかうち」の地名が見え、河内は上賀茂社の社領であったことと、戦国末期むろのかうちには龍野赤松氏が公用の社納に関わっていた史料をあげている。
▲浦部の加茂神社
そのようなことから、古くからの河内谷と室津を結ぶ道といえば、地形的にみて鳩ガ峰越えの道がベストのようで、龍野の赤松氏はその道を使ったと考えるのが順当のようだ。そうだとすると参勤交代による街道整備は、鳩ガ峰越えの道を拡張整備した可能性がある。
浦上里(浦上庄)は通説では浦上氏の苗字の地であったと考えられている。浦上氏は赤松総領家を仕えた宿老で赤松氏を語るうえで外すことはできない人物であったが、播磨の浦上氏は室津城の落城とともに消え、備前の浦上氏もその後家臣宇喜多氏に裏切られ滅び去った。
歴史は移り、龍野の赤松氏が狙った室山城のある御津町と室津街道筋の揖保川町は、平成の大合併により「たつの市」となり、たつの市の大字として町名は残った。
【関連】
➡室山城(1)
◆城郭一覧アドレス