閲覧数】4,862 (2012.3.18~2019.10.31)
▼美嚢川から三木城跡を望む
▼三木城復元図 (復元図に着色)
三木城跡のこと 三木市上の丸町
三木城は、釜山(かまやま)城、別所城とも呼ばれ、美嚢(みの)川に突出した台地の先に築かれた別所氏歴代の居城です。長享2年(1489)、別所則治(のりはる)の築城と伝え、中世においては、播磨・姫路と京都を結ぶ湯ノ山(有馬)街道があり、三木城はその街道の要所の地にありました。
別所則治は当時、東播磨最強の武将として守護赤松政則を助け、別所氏の基礎をつくり、以来別所氏はこの城を拠点として、浦上氏・尼子氏・三次氏の攻撃を受けるなど数次の合戦を繰り返すなかで次第に勢力を拡大していきました。
歴史上有名になったのは、4代の別所長治が織田信長に背いたために、羽柴秀吉との合戦(三木合戦)で、天正6年(1578)の春から天正8年(1580)の正月にかけて秀吉の兵糧攻めにより、三木の干殺しと語り継がれる悲惨な落城がありました。
別所氏が滅びた後、三木城は秀吉の城番が入り、復興が行われ、天正13年(1585)中川秀政が城主となり、中川秀成と移りました。秀成が豊後岡城に移り、豊臣氏の直轄地城番となり、但馬豊岡城主杉原家次が三木郡を領有しました。
慶長5年(1600)には姫路城主池田輝政の配下となり、元和元年(1615年)の一国一城令により、廃城となりました。
参考:「日本城郭体系」「角川日本地名大辞典」他
アクセス
▼三木城跡鳥瞰図(黄線内が城域)
城域の南構跡(二の丸)附近に三木市立図書館や堀光美術館が建てられています。この場所を基点に、歩いて城の探索に向かいます。
図書館(現資料館)の壁面の説明板に、図書館・美術館の建設の事前調査で井戸や堀の遺構とともに、備前焼大甕(おおかめ)が14個出土し、その1個の甕の中より炭化した麦が残っていたことから、これらの大甕は三木城の食糧貯蔵庫として使われていたのではないかと書かれています。
▼市立図書館(現在みき歴史資料館)
▼備前(伊部)焼の大甕の出土地
北に歩けば、三木城本丸があり、現在は上の丸公園となっています。
▼三木城上の丸公園
▼三木城の説明板
▼三木城想像図
▼三木合戦の絵図
三木城跡は低い丘陵(約20m)にあって、戦後ほとんど宅地化されています。昭和56年別所長治公四百年祭に、本丸跡の北西の崖に沿って城壁(白塀)が建てられています。
▼白塀
▼コンクリートで固められた崖
本丸跡の北西の崖ぎわに天主台があり、城主別所長冶とその一族の辞世の句碑が建てられています。北の端に本丸井戸(かんかん井戸)があります。
▼天守台に建てられた別所長冶の句碑
今はただ うらみも
あらじ 諸人の いのちに
かはる 我身とおもへば
▼かんかん井戸
▼井戸の説明
本丸の南の南構に、別所長治の石像が建てられています。
雑 感
城域は600m×500mのかなりの広さで、復元図や古図により場所の確認をするものの、堀が埋められ道になり、山が削られ宅地になるなど、大きく変貌した地形を前にして、昔の形を浮かび上がらせる作業は容易ではありません。
【関連】
➡三木城2 三木合戦
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