郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 室山城跡(1)

2020-03-15 18:13:15 | 城跡巡り
【閲覧数】7,767件(2012.2.21~2019.10.31)

                                   

▼全景  西から





▼室山城調査位置図




▼室津の鳥瞰

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室山城跡のこと  揖保郡御津町室津(現たつの市御津町室津)

  室津は、奈良時代の播磨国風土記の浦上里に「室原泊(むろうのとまり)」と見え、万葉集をはじめ、奈良期以降の多くの歌に詠まれています。「コノ泊、風ヲ防グコト室ノゴトシ 故ニ因リテ名ヲナス」とあり、古くから室の泊(とまり)、室の津として、瀬戸内の天然の良港・宿場町として栄えました。

 室山城は、室津城ともいいます。鎌倉期~戦国期の城郭で、播磨灘に臨む室津御崎の突端、標高60mの室山に位置します。播磨国赤松村から台頭した赤松則村(円心)が、千種川流域を押さえると、外港を室津に求め、その根拠地として元亨(1321~24)年間室山に築城したと考えられています。

 嘉吉の乱(1441)後、播磨守護に山名持豊(宗全)がなり、室山城には山名政豊が入り、応仁年間(1467~69)には浦上氏が城主となるが、永禄9年(1566)、浦上政宗・清宗父子は、龍野城主赤松政秀に攻められ落城し、以後廃城となったようです。


▼嘉吉の乱後、山名政豊が室山城主となる                                ▼龍野城主赤松政秀に討たれた浦上父子

  

 城跡の本丸・ニノ丸、これを囲む空堀などの跡は、梅林や住宅となり中世の城跡の遺構をとどめるものはほとんどありません。
 江戸期には参勤交代で九州、四国、中国地方の西国大名のほとんどが利用する海路の上陸地で、港の周辺は、日本有数の宿場町として「室津千軒」といわれるほど繁栄しました。町には当時を偲ばせる古い町並みが見られます



▼宿場町の面影を残す町並み








アクセス


室山城は海岸線を走る国道250号線沿いに室津の町並みへの入り口があります。ここを左の海岸側の坂を上っていくと二の丸公園に至ります。


▼室津の街並み 石畳の道 



▼二ノ丸公園入り口(数台駐車可)      


▼二の丸公園

  


そこが、二の丸があったところで、その上の土手の上にも曲輪跡があり、東は急な断崖となり、本丸まで続いています。



▼公園の上の土手(二の丸の土塁) 
   
        
        

▼二の丸の上部              



▼東斜面は崖状 

 


   二の丸・本丸周辺は宅地化が進み、城跡であったことを聞かされないと、ほとんどわからない状態です。ただ児童館の奥の急な坂道を登っていくと、竹やぶ周辺に古い石積みが散見できます。公園(二の丸)上段から本丸にかけての東の急斜面の地形がかろうじて城跡の痕跡を残しているようです。



▼城郭のものと考えられる石積み






 八朔(はっさく)のひな祭り

  ひな祭りの婚礼の日に、襲われた城主浦上政宗・清宗父子と清宗の花嫁の鎮魂のため、3月のひな祭りを半年遅れの8月に行う風習が残されてきました。





 
藻振(もふり)ノ鼻(室津半島先端部)からの美しい眺望 


▼唐荷島(からにじま )


▼室津から見た家島
                                  

◇赤松の鼻

 建武3年(1336)足利尊氏追討の宣旨を受けた新田義貞の軍は、室山にいた赤松範資と激戦になり、多くの赤松の兵は討ち取られ、赤穂郡に退きました。このとき討たれた赤松軍の将兵の供養塔が残され、ここを赤松の鼻といいます。室山の西の湾の対面にあります。


▼国道沿いに表示があります。







◇ 平清盛が訪れた賀茂神社


室津賀茂神社は、平安時代に賀茂別雷(かもわけいかづち)神社(京都)の直系御厨(みくりや)の地になりました。国の重要文化財。








                           


参考:「西播磨の戦国時代」

➡室山城(2)

◆城郭一覧アドレス


戦時中の一こま 飛行機の献納

2020-03-15 16:55:40 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】2,340 件(2011.5.18~2019.10.31)


昭和19年(1944)1月13日 報国号飛行機命名式記念 城下村民号(零式艦上戦闘機)




写真・説明「写真でみる郷土史やまさき」より

昭和19年1月13日 山崎国民学校(現山崎小学校)講堂で、宍粟郡内献納者の飛行機の命名式が開催された。
 この写真の飛行機は、(零式)艦上戦闘機で、城下村民号と名付けられ、翼には報国2010とある。


献納運動

 昭和18年(1943)8月末より、軍用機献納運動が始められた。それは国民(個人・団体・企業など)から寄付金が集められた。献金集めはかなりの強制割当もあったという。海軍に献納されたものは「報国」、陸軍に献納されたものには「愛国」と記名された。




昭和19年の標語「一機でも多く飛行機を!」






コメント

イクタさんより
 貴重な資料・写真ですね。「国民(個人・団体・企業など)から寄付金が集められた。献金集めはかなりの強制割当もあったという。」とのこと。献納者一覧、拡大して見ましたが、最後の「宍粟郡号」は松本信太郎(御名)さんの個人献納みたいですね。その他は「....村民(町民)号」とあって村長、町長がその代表ですね。「民」の一字が切ないですね。実際個々の「民」がどれくらいの額を「徴収」させられたんでしょうね。「徴兵」と同じように「国家」と「民」の関係を改めて思い知らされる資料です。

 山崎町、人口が多いから2機なんですね。2機の山崎町民号、どんな活躍というか、どんな最後を遂げたんでしょうね。町民はそこまで知るよしもなかったんでしょうが、今からでも知りたいですね。

返事
タケネットより
 恐らく日本海軍の主力として艦上空母機動部隊に組み込まれ、昭和19年(1944)6月マリアナ沖海戦で空母の大半を失い、残念ながら飛行機は海の藻屑となったものと思われます。このあと、サイパンを足がかりに、B29によって本土は空襲にさらされます。
 ちなみに、一宮町史にはマリアナ沖海戦で8名の戦死が記載されています。
また、山崎町元山崎の戦没者墓地には80程の墓がありますが、多くが海軍(飛行部隊)での戦死であったことがそれぞれの墓に記銘され2、30代の多くの若き命が海戦で亡くなっていることがわかりました。








戦時中の一こま 銃後の備え 学校教練

2020-03-15 16:35:58 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧】1022件(2011.5.12~2019.10.31)



戦時体制化において、教育は正常さを失い、軍事教育(学校教練)が行われていた


1、昭和17・18年(1942・43)頃河東小学校 小学校でも武道が取り入れられた。


男子は剣道



女子はなぎなた



2、戦前の山小でのなぎなた練習風景




3、昭和17年(1942)頃瑠璃寺 非常時に備えての合宿訓練


写真・文:「写真で見る郷土史 やまさき」より