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嘉吉の乱の概要
嘉吉元年(1441)6月24日 赤松満祐(みつすけ)は京都に屋敷(西洞院(にしのとういん)二条:二条城の東)を設け、幕政に参画していましたが、有力守護大名を一存で排除していく将軍足利義教の専制政治に身の危険を察し、結城合戦の戦勝祝いとして義教を自邸に招き、暗殺しました。その祝宴には、足利義教将軍以下幕府要職※の多くが参列していました。
※畠山持永・山名持豊(宗全)・一色教親・細川持常・大内持世(重傷)・京極高数(重傷)・山名煕貴(死亡)、細川持春、赤松貞村、公家・三条実雄
下線は、幕府討伐軍に加わる
▼室町幕府第6代将軍足利義教の肖像画

▲足利義教像(妙興寺蔵)
赤松氏の家臣安積行秀が将軍の首をはね、抵抗した武将数人も打たれました。満祐は、将軍を暗殺したあと※管領である細川持之に使者を送り接触を試みたが、拒絶されたという。 ※管領:室町時代に置かれた将軍の次の職で、将軍を補佐して幕政を統轄した。
赤松満祐は、自宅屋敷に火を放ち、主従700余騎で京都を抜け出し、支配地の播磨国書写の坂本城に引きあげました。この事件については『看聞(かんもん)日記』、『伏見宮貞成親王の日記』に詳しい
赤松軍と幕府追討軍との戦いの経緯
▼幕府討伐軍の動き

▼赤松氏系図(抜粋)

6月26日 満祐は坂本城に兵の招集をはかる。集まったのは「宗徒(むねと)の侍八十八人、惣勢都合2千九百騎」 『赤松盛衰記』 とある。
その坂本城に集結した宗徒、主だった侍は、
小寺藤兵衛・中村弾正・別所蔵人・佐用上野介・浦上四郎・有田肥前守・太田能登守・上月孫左衛門・永良彦太郎・安積監物・宇野太郎・間嶋新三郎・櫛橋左京・別所肥前守・栗山肥後守・菅谷五郎・佐谷五郎・伊藤民部・神出左衛門・櫛田八郎・神吉彦太郎・薬師寺次郎・魚住太郎・英保次郎・白国若狭・岸本弾正・金沢源助・上原備後守・飽間五郎・平野十郎・志方新五郎・七条伊予守・福岡新三郎・福原助三郎・広瀬河内守・石見太郎・芝田源十郎・頓宮五郎・荒田主馬・和木田善次郎・志水河内守・大多和平内・本庄五郎・依藤太郎・内海弥三兵衛・粟生有馬頭・角田助三郎・嶋村主水・釜内彦太郎・有馬出羽守・江見又太郎・長浜河内守・小川勘解由・白国備前守・広峯五郎・宇野源大夫・富田次郎・衣笠豊前守・得平次郎・神垣九郎・蓬来太郎・友藤源吾・井口玄蕃允・後藤弥三郎・須見五郎・須賀院記・柏原源三郎・原六郎・萩原三郎・糟谷豊前丞・野中志摩守・豊嶋次郎・河原太郎・村田五郎・多賀谷中務・難波左京・堀兵庫助・垣谷伊賀守・水田伝次郎・小松原次郎・芳賀七郎・村上三郎・竹中助太夫・黒田源三郎・中嶋七郎・中山五郎・尾上丹波守・葉山六郎・柳井源八郎・佐野民部・八木石見守・芝田源左衛門・世良田上野介・田中刑部
7月 赤松満祐、足利冬氏を将軍義尊とし味方を募る。
7月 赤松満祐、※安国寺(加東市)で義教の葬儀をし、京都へ首を返却する。
▼足利義教首塚(加東市 安国寺) ▼足利義教首塚(大阪市 崇禅寺)


7月27日 赤松追討軍(山名持豊)が京都を出発し、但馬方面に向かう。
7月25日 赤松満祐、庫御所(兵庫)を夜襲し失敗に終わる。
8月 5日 天皇の赤松追討の綸旨(りんじ)が下される。これにより、赤松満祐及び教康は朝敵となる。
8月19日~25日 赤松教康、細川軍と須磨・明石で合戦する。
8月25日 山名持豊軍、(福崎町)粟賀口・田原口で赤松軍を破る。
9月 2日 赤松満祐、坂本城から城山城へ移動する。
9月 9日 赤松則繁・則尚・教康が城山城を脱出。赤松義雅、一子(時勝)とともに城山城を脱出し、満政軍(室津)へ投降し、一子(9歳)の助命と引き換えに自害する。
9月10日 城山城が落城し、満祐は自害する。
9月21日 満祐の首、京都の四条河原で晒される。
10月28日 山名持豊、播磨国守護になる。
参考:「西播磨の戦国時代~赤松氏の興亡~」
依藤塚(よりふじつか)のこと
城山城での籠城の時、白旗城(上郡町)への連絡に行った依藤惟次(これつぐ:東播小田城主)は、帰りの新宮町千本村で、城山城の落城を知り、「最早これまで」と地蔵堂に入り、自害し果てました。この地に立つ五輪塔は、依藤惟次の墓と言い伝えられています。五輪塔の前には、菩提を弔うため子孫により天明6年(1786)に石碑が建てられています。(市教育委員会説明版より)


▲ たつの市新宮町千本 浄福寺の左すぐ
⇒城山城跡④ 嘉吉の乱の経過(2)
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