郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 三木城跡2 三木合戦 

2020-03-28 09:30:46 | 城跡巡り
三木城主別所長治像                          
 
兵庫県立歴史博物館蔵

     

合戦前夜の播磨の情勢


 室町期の播磨は守護赤松氏の所領でしたが、嘉吉の乱(1441)のあと、没落し再興されるも、その後一族や家臣が台頭し、別所氏も赤松一族で東播磨8郡を支配するまでに勢力を伸ばしていました。







 織田信長の天下統一の命を受け、明智光秀に丹波を攻略し、羽柴秀吉に中国攻めの総大将に命じました。そのころ播磨地域は、毛利と織田両者との友好関係を保っていました。

 秀吉は、天正5年(1577)10月に西播磨の上月城や福原城を落とし、この時点で、播磨全域が織田の勢力下になりました。

 しかし、同年10月、秀吉は中国毛利攻めため東播磨の諸豪との評定(軍議)を加古川城で行いましたが、その席上、別所長治の代理で出席した叔父の別所吉親(賀相)と秀吉に不和が生じ、翌年の天正6年(1578)3月、別所長治は吉親の説得により織田に反旗をひるがえし毛利方に付くや、東播磨一帯の国人衆や浄土真宗の門徒の多い中播磨の三木氏や西播磨の宇野氏が同調し、毛利の援軍を頼りに、織田・秀吉との徹底抗戦の道を選びました。



三木城に籠城



 三木城には、東播磨一帯から約7,500人が集まりました。この中には、別所氏を支援する国人衆やその家族や浄土真宗の門徒なども含まれています。よって、多くの兵糧も必要とし、それは、瀬戸内に制海権をもつ毛利の水軍により、高砂城や魚住城など海辺の城を経由して加古川や山道を使って三木城まで運び込まれました。







 




   秀吉は、籠城の構えをみせた三木城への直接の攻撃をさけ、兵糧の補給路になっている支城の攻略を始めました。天正6年(1578)4月上旬野口城陥落。7月20日神吉(かんき)城陥落。8月10日志方城開城。

 天正7年(1579)2月、別所氏は局面打開のために秀吉の本陣平井山に約3,000人が出兵し戦ったが、戦力不足と不利な地形により敗戦。同年6月13日に秀吉の武将竹中半兵衛重吉が陣中で病死。









 天正7年(1579)5月、摂津からの兵糧輸送のルートの丹生山明要寺と淡河(おうご)城が攻略される。同年6月には、共同戦線をしいていた八上城主波多野秀治が明智光秀に落とされています。同年9月毛利軍による魚住から三木城への兵糧運搬の作戦で三木軍が城外に出て大村附近に出兵しますが、これも敗戦し兵糧運搬に失敗。織田氏は降伏勧告を行うが、別所方は拒否。

 同年10月には毛利方にあった宇喜多直家が離反し、毛利氏と播磨・摂津間が分断され、毛利の支援の道が遠のく。11月には、荒木村重の有岡城が落城。(幽閉されていた黒田官兵衛が救出される。)

 城内の食料が底をつく飢餓状態が続き、天正8年1月14日城主一族の切腹により城兵の命を助けるという条件で、1年10ヶ月に及ぶ籠城戦が終結しました。



▼別所長政の辞世の句 (上の丸公園)   


城主別所長治の辞世の句

今はただうらみも
あらじ諸人のいのちに
かはる我身とおもへば

訳:領民の命と引き換えに死ぬのなら、今は何の恨みもない。



▼別所長治公・照子夫人首塚(雲龍寺)

 


▼竹中半兵衛重治の墓




「三木城」関連年表

●天正6年(1578) 3月 三木城で籠城開始

3月29日 秀吉、三木城攻略に着手
4月上旬 野口城陥落
7月20日 神吉城陥落
8月10日 志方城開城

●天正7年(1579)    9月 毛利軍、魚住から三木城への兵糧運搬に失敗する

●天正8年(1580) 1月17日 三木城陥落



参考:「西播磨の戦国時代(たつの市立埋蔵文化センター)」、「探訪 三木合戦(三木市観光協会)」



雑 感


 この三木合戦で多くの人が戦死し、或いは餓死したであろうことは、若い城主のあまりにも潔い辞世の句がその心情を物語っています。

 別所長治は若干23才の若者。父安治が若く病死し、長治が家督を継いでのち、別所家の実質経営は二人の叔父(別所吉親・重宗)が動かしていたようで、明石評定に、もし長治本人が出席していれば秀吉とどう向き合っただろうか。(二人の叔父は意見が別れ、吉親は反織田、重宗は、城を出て織田方に付く)

 平成22年に『三木城跡及び付城跡群総合調査報告書(三木市教育委員会)』が発刊され、その報告書で定説を覆す新説が話題になっているようです。それは、城主の城兵の命乞いにもかかわらず大量殺りくがあったことが指摘されているからです。
 その根拠は、三木城の落城後に秀吉自身が「ことごとく首をはねた」と書状で伝えている事や、宇喜多直家も「切腹した者以外は一箇所に集め、ことごとく殺す」との報告を受けている事、また天正8年(1580年)4月、敵方の石山本願寺の顕如が「抵抗を続ければ、有岡や三木同然になる事は明らか」と言っていることに着目しています。定説は『播州御征伐之事』など後世に書かれたもので、秀吉の功績を美化する為に書かれた物であると指摘しています。


【関連】
➡三木城1

◆城郭一覧アドレス



山津波2

2020-03-28 07:21:37 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
【閲覧数】884(2011.9.9~2019.10.31)


昭和51年(1976)9月 一宮町福知の山津波

災害前の福知








西深橋付近 駐在所・電話局・郵便局などが見える。その建物が、一瞬に土砂に押しつぶされました。









写真:「一宮町議会史」より



※昭和51年(1976)9月に起きた山津波の恐ろしさを知る貴重な写真です。




あったかい春の日差しの中で  ㏌ 奥播磨かかしの里 

2020-03-27 09:33:56 | 日記
奥播磨かかしの里の「ふるさとかかしギャラリー」








 よく訪れるかかしの里ですが、いつも知らずに素通りしてしまっていたふるさとかかしギャラリー」があるのに気づき、案内に従ってのぞいてみました。



こっちだよ!




ギャラリーはあの上の赤茶色の屋根の家がそうじゃ。
鹿よけの網が掛かっとるけど、網をくぐって、はいりゃいいんじゃ!








(なんか楽しそう)





今日は、あったかいの。




いま最中やから、ちょっと待っとくれ。




湯加減はどう?






(ここでは足ふみミシンがまだまだ活躍。 ん、白鳥小8と書いてある。そうか、姫路の白鳥小学校で使われていたのか。)




縁側に集まり何やら写真見てる。



ガラス戸を開けて家の中を覗いてみると





ひな祭りを祝ってご馳走とご当地銘酒の「奥播磨」が座卓に






奥には、こたつを囲み談笑のお年寄りと孫娘




帰りのこの場所で

みんな、わし等の背中から写真撮っとるが、前から撮るもんはおらん。





(と、つぶやきが聞こえてきたような?) なので、正面からパチリ





 ありがとよ。ちゃんと撮ってくれたんはあんたが初めてじゃ。礼を言うよ。気つけて帰りや


(と聞こえてきたような。) 


のどかな春の「奥播磨かかしの里」でした。  終わり




播磨 三木城跡1 

2020-03-27 08:49:41 | 城跡巡り
閲覧数】4,862 (2012.3.18~2019.10.31)   




▼美嚢川から三木城跡を望む             




▼三木城復元図 (復元図に着色)

  



三木城跡のこと     三木市上の丸町

 三木城は、釜山(かまやま)城、別所城とも呼ばれ、美嚢(みの)川に突出した台地の先に築かれた別所氏歴代の居城です。長享2年(1489)、別所則治(のりはる)の築城と伝え、中世においては、播磨・姫路と京都を結ぶ湯ノ山(有馬)街道があり、三木城はその街道の要所の地にありました。

 別所則治は当時、東播磨最強の武将として守護赤松政則を助け、別所氏の基礎をつくり、以来別所氏はこの城を拠点として、浦上氏・尼子氏・三次氏の攻撃を受けるなど数次の合戦を繰り返すなかで次第に勢力を拡大していきました。

 歴史上有名になったのは、4代の別所長治が織田信長に背いたために、羽柴秀吉との合戦(三木合戦)で、天正6年(1578)の春から天正8年(1580)の正月にかけて秀吉の兵糧攻めにより、三木の干殺しと語り継がれる悲惨な落城がありました。

 別所氏が滅びた後、三木城は秀吉の城番が入り、復興が行われ、天正13年(1585)中川秀政が城主となり、中川秀成と移りました。秀成が豊後岡城に移り、豊臣氏の直轄地城番となり、但馬豊岡城主杉原家次が三木郡を領有しました。

 慶長5年(1600)には姫路城主池田輝政の配下となり、元和元年(1615年)の一国一城令により、廃城となりました。


参考:「日本城郭体系」「角川日本地名大辞典」他




アクセス



▼三木城跡鳥瞰図(黄線内が城域)




 城域の南構跡(二の丸)附近に三木市立図書館や堀光美術館が建てられています。この場所を基点に、歩いて城の探索に向かいます。

 図書館(現資料館)の壁面の説明板に、図書館・美術館の建設の事前調査で井戸や堀の遺構とともに、備前焼大甕(おおかめ)が14個出土し、その1個の甕の中より炭化した麦が残っていたことから、これらの大甕は三木城の食糧貯蔵庫として使われていたのではないかと書かれています。



▼市立図書館(現在みき歴史資料館)



▼備前(伊部)焼の大甕の出土地

 



 北に歩けば、三木城本丸があり、現在は上の丸公園となっています。



▼三木城上の丸公園



▼三木城の説明板

 

▼三木城想像図

 

▼三木合戦の絵図



  三木城跡は低い丘陵(約20m)にあって、戦後ほとんど宅地化されています。昭和56年別所長治公四百年祭に、本丸跡の北西の崖に沿って城壁(白塀)が建てられています。



▼白塀                              

 



▼コンクリートで固められた崖






  本丸跡の北西の崖ぎわに天主台があり、城主別所長冶とその一族の辞世の句碑が建てられています。北の端に本丸井戸(かんかん井戸)があります。



▼天守台に建てられた別所長冶の句碑


 今はただ うらみも
  あらじ 諸人の いのちに
   かはる 我身とおもへば



▼かんかん井戸                       




▼井戸の説明

 



本丸の南の南構に、別所長治の石像が建てられています。





 
雑 感


 城域は600m×500mのかなりの広さで、復元図や古図により場所の確認をするものの、堀が埋められ道になり、山が削られ宅地になるなど、大きく変貌した地形を前にして、昔の形を浮かび上がらせる作業は容易ではありません。


【関連】
➡三木城2 三木合戦


◆城郭一覧アドレス