82歳からの旅

私の記録

 喜びも、悲しみ

2020年01月08日 13時02分11秒 | 歴史

       令和2年1月8日水曜日   

私の若いころを整理していると、喜びも悲しみのが出て来ましたので

その中の、喜びを紹介いたします。 題目・ニつの給料袋・

 夫は高校の教師で、私は中学に勤めているから家に持って帰る給料袋は

二つあるということになる。が私は夫の給料の中身はいくらあるかは知らな

いし、夫も又私の中身がどれだけあるかは知らないという奇妙な夫婦である。

 これは結婚してからもう九年になるが、ずっと続いている。かえって私の

同僚の方がよく知っている。主人の手取りが2万5千円、あなたが1万5千

円位だから4万円は超える。ちょっとした文化生活は。、出来るはず。

 と言うのだが私の家にはテレビはないし、電気冷蔵庫もない。昭和の初め

の頃のラジオが1台と言う有様です。 

 其の原因を調べて見ると、夫は給料の大半は書籍とアルコールに使うらしい。

家には1万円も入れればいいほうで有る。本だけは「蔵書数1千冊に使い一寸し

た図書館だな」と彼は言うのである。

 私の給料の大半はカンバスを買うのと、絵の具を買うのにかかってしまう。

絵が増えて玄関には置きどころがない。

 東京の銀座画廊に送ってグループ展をした時は100号クラス書いたのでカン

バスと絵の具で1万円・運賃が2千円画廊に払う金が約7千円 東京2週間の滞在

費で1万円。今年の夏は2万9千円・(2か月分の給料が)ぽいと消えてしまった。

 勿論主人がヘソクリを出してくれはしたが、私の家は養母が経済を受け持って

やってくれている。

 二人で月に2万円位は入れるのだが、此の頃は主人の文学がチョイト金になった。

身長12月号1の「西の京」の原稿料が3万2000円税金をひかれて2万9千

600円が臨時収入である。彼はその中からたった2千円を小遣2と言って私に

くれた。・・以下省略致します。

 これは私が若い時に、組合の青年部機関誌の編集部長をしていた時の組合員の

投稿したのを此処に書いたのです。つぎには一つの給料袋を書きますのでお楽し

みに・・・焼いて捨てるのには惜しかったので・・・昭和37年の頃です

           

 

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 ~ 老々介護に家屋敷も ~

2019年09月05日 13時08分38秒 | 歴史

      令和元年9月6日曜日   

 今まで健康で、病院とは縁遠い私でした。ところが古希を

過ぎた頃より体力の衰えと共に、視力や聴力 足腰の衰えを

自覚するようになって来ました。 

 それで現在は体の部分的な、補修をしているところです。

 家で庭木の剪定をしていると、色々な業者が声をかけます。

いずれもリホームの事が、多いのです。

 屋根瓦の補修をするように、屋根の上にあがり傷んだ部分

を写真を撮り, 此処と此処は今しないと塗った部分をはがし

修理するので、今する倍のお金がかかりますよ。と教えて呉

れます。我が家も建築してから、50有余年の月日が過ぎてい

ます。家も後期高齢者で、やむを得ません、蓄えのお金は有

りませんがしない訳にはいきません。可哀そうな後期高齢

者です。 お風呂のリホームも、しているところです。

 可哀そうな貧しい、後期高齢者です。

            

  

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 ~ 82歳から88歳になって ~

2018年07月13日 12時10分21秒 | 歴史

       7月13日木曜日        

 82歳で始めたブログです、気が付くと88歳にもなっ

て(しまった)。

 しまったとは、私のぐうたら性格を、読者の皆さんに

(お店)したのです。皆さんにはお店で、見たいものや

見たくないものまで魅(見)せられて。

 さぞかしや、人間と言うものは見かけによtらないもの

だと・・・改めて知らされた事でしょう。

 これも私の人生の、恥ずかしくも拙い旅の一コマです。

こんなことを記録に残して、私の心は癒されるのです。

忙中閑有りです。

             

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 ~ 小森江の地名の由来は ~

2017年08月16日 10時45分03秒 | 歴史


      8月16日水曜日曇り 
  今日は、お盆明けの16日。朝のニュース

 で田川の、盆踊りの様子をテレビで見ました

.みんな浴衣を着てウチワを持って、踊ってい

 ました。
  貧しかった昭和のはじめでも、お盆には皆

 浴衣を父が買ってくれて着て踊りました。夜

 の浴衣姿が晴れやかで、きれいでした。

  父は6人の子供に浴衣を良く買ってくれたと

 思います。子供の頃を思い出して、本当に懐か

 しく父母の愛情が心にしみて涙が出ました。
       小森江の地名は
  奈良時代から門司は、近畿へ向かう水行の要路

 でした。又都から朝鮮半島や・中国との交流に重

 要な位置でした。

  小森江の地名は、小森江(高麗入江)・百済町(百

 済濱)・白木崎(新羅崎)・等。私が門司に就職した、

 昭和30年代には百済町・白木崎・等の地名が有りま

 した。門司の観光のチラシより、抜粋致しました。
  

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 ~ 未熟な青年教師の頃 ~ 後編 第一章

2017年08月10日 14時09分17秒 | 歴史


      8月10日水曜日曇り 


  自分史後編 第一章 未熟な青年教師の頃  
  第一節 小森江東小学校は 
   宮本武蔵と佐々木小次郎決闘の地、船島
  (巌流島)を学校の正面玄関から眺め、更に

  風光明媚な関門海峡の景観が180度展望で

  きるのです。
   こんな素晴らしく恵まれた自然環境の下

  で毎日はたらくのです。
   此の恩恵を忘れる事無く、生涯教師とし

  て未来を担う児童と生きる幸せを、神様は

  私に下さったのです。
   追記1 古くは奈良。平安時代の昔より

  大陸との交易の門戸として、遣唐使・遣隋

  使等送迎の為に弟子たちが遥々京都から、

  師匠の帰りを迎えた場所、弟子待の地名が

 対岸の彦島の西端にあります。
  その他源平最後の決戦場となった、関門の

 門司に、安徳帝の御在所の有った場所が、今

 は柳の御所として、市民に親しまれています。
  安徳帝が入水したと言われる場所は、対岸

 の下関の・みも裾川の(関門海峡大橋の下関の

 橋げたのあたり)ではと・・つづきは…またね・
パソコンの調子が上手く出来なくて・・・
   
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