3月9日日曜日
父は 私が35歳の時に亡くなった、その父を追う様にして翌年母も亡く
なった。 あれからもう50年の年月が過ぎ去ったのであるのかと思うと・・・?。
法要は午後の2時からでした、僧侶の二時間余りのお経が終わってから後
は内わの皆さんでの会食です。
痴呆で歩くことも十分でない弟も、連れて行く事にしました。弟にとって
此の50回忌の法要が、生まれた家との最後になると思って連れて行きまし
た。
会食後の懇談に私が準備したのは、田家の家系図でを作る事でした。其
れと新しい田家で父母は、「僅かな田地で6人の子供をどの様に育てきた
か?」。を残された家族の人や、弟妹に是非知らせたいと思ったからでした。
先ず家系図については、苅田町役場で祖父・祖母に父・母の戸籍などを申
請して用意しました。其れを資料にし現在作れる範囲で家系図を作成しまし
た。残念な事は戸籍法が改正されて、祖父以前の戸籍が破棄されてない事でした。
もう一つは 現在私が作成中の「自分史の中の一部・私が幼い頃の田家
の様子・・・」母の「家での生活/仕事の様子について」と父の「毎日の生活
や仕事の様子」について纏めたのをプリントしてその席で、参加者に紹介し
ました。
其れが「父母の50回忌の法要の時に出来る」私の役目だと思ったからで
す。ぜひとも今調べて知っている内容は、皆さんに知らせたかったのです。
其れを父母の墓前に供えて、50回忌の供養の一端にしたいのでした。こ
んな次第です。
たいした財産もなく平凡な教師で過ごした私に、出来る最大の供養と思っ
て準備致しました。
父は幼少の頃丁稚奉公にいき、其処から中学に行っていました。でも其れに
耐えられずに中退したのです。
父は其の事を大いに反省し、生涯を生きて来たと思います。悔しくて悔して・
取り返しの出来ない、若い時の行動を悔い、・・、子供にだけはとの思いで父母
ともに生涯を「子供の為に、」生きて来たのだと私は推察しています。
是は私の自分史を纏めていて強く気づいたのです。
父は其の事が人生の根本にあって、其れで私を育てたとの思いが強くす
るのです。
内容の一部を要約すると、父は37歳で家を新築したこと.自分の家の
山の木を一本一本切り、家の柱・天井のはり等と考えながら・・・・・
、
伯父(父の兄で17歳年上)と相談し兄の留守中に6畳の間を8畳にする
などと・・・計画を変えたことなどしたりして。
其れを製材して建てたこと、私の誕生と合わせて分家して住んだこと等。
其の為に母と協力して寸暇を惜しまずに働いたこと等です。そうして生計
を立てていたのです。
母は其の父に従って働き、父を助けての毎日であったのでしょう。
私が幼い頃家の柱に、ひもで繋がれて一人遊びをさせられた事、の意味が
良く解りました。8つ違いの姉が私を学校に連れていったこと、等も良く
解りました。また秋も暮れの頃の事でした。小学生の姉は夕ご飯を炊いて
いました、処がご飯のお釜の割れ目から水が漏れています.姉はどうした
ら良いか解らずに、泣きながらご飯を炊いていました。
暗くなって遅くに父と母が、お腹をすかせて帰って来ました。姉はひとき
わ大きな声で、泣きました私も泣きました。
父と母は叱る訳にもいかずに、・・・・・そんな笑えない思い出もあり
ました。姉や兄も、父母と一緒に頑張って、田家を守り継いで来たのです。
お父さんお母さん・そして姉さんにお兄ちゃん・本当にありがとう。
有り難う残された私達は生きている限り、お父さんやお母さんの心を受け継
いで、田家を立派にお守り致します.どうぞご安心下さい。
・・・以下省略・・・